君は本当に大きい!



 辺りは暗くなり、静けさが戻る。


 隠れていた猫が客が帰ったとばかりに現れ、『にゃあ』と鳴き、縁側にすわる彼女の膝でくつろぐ。


 教授は猫の下顎したあごを撫でながら、他人には見せない疲れた表情を浮かべた。その顔はシワに沈み、背はさらに丸くなる。


「今年も、すぐ終わる。来年の秋は、やって来るかね」


 ここは彼女が育った家であり、昔は大勢の家族が住み賑やかだった。

 両親がいて、祖父母がいて、兄弟姉妹がいた。

 みな、もう逝ってしまった。

 残ったのは彼女ひとりと老猫。


 酔った体。心地よい風。うとうとしたのか、いつしか真夜中を迎える頃合になった。

 風が冷たい。冬は、もうすぐそこまで迫っているのだろう。

 カサカサッと枯葉が夜に舞う。

 その時、猫が何か悟ったかのようにビクっとして、縁の下へ潜った。


 うるさいほど聞こえていた鈴虫の鳴き声が止んだ。


 雑草を踏む、ザクッという音。


 老嬢は肩に羽織った肩掛けを首もとで閉めた。

 酔いは冷めていた。


 ザクッ。


 また小さく足音が聞こえる。


「誰だ?」と、声をかける。


 この家に空き巣が入っても盗む物などない。長年、集めてきた貴重な資料はあったが、それに興味を持つ泥棒などいないだろう。


 庭先に目を凝らした。


 うごめく黒い影のようなものが見える。

 人? いや、動物か?

 それは、四つん這いになって、雑木林と庭の境目にいた。


 黒いものは、もぞもぞと起き上がっていく。


 ごくり。

 つばを喉奥に押し込んだ。

 口が乾く。


 もしかして、もしかしてと、呪文のように心が叫んでいた。教授は必死に枯れた声を出した。


「何者だ」


 その声は、暗い夜に深く根をおろす。



 黒く四つん這いになったモノは動きを止め、静止した。

 形はあやふやで、今にも消えそうなほど外縁はぼうっとして、核のようなものを包んでいる。


 四つん這いになったモノは、ゆっくり立ち上がる。

 それはカクカクと不自然に震えた。


 二つの足が見え、胴体が形をあらわし、その上に頭部がカクンと持ち上がる。


 教授は無意識に口を開け、その姿を見上げていた。

 驚きが勝り、怖がることができない。

 2メートルほどの高さに顔のような黒い影がある。

 

 それは、徐々に形あるものに変化する。


 長方形の顔にギョロリとした巨大な目があらわれ、ヒラペッたく特徴的な鼻が形になった。

 土偶に似た顔や身体は、黒いもやのようで、まだ、しっかりとした輪郭りんかくがない。


「ダイダラボッチ……」

『その名を呼ぶな』


 低く地響きのような声が心に響く。


「あ、あなたはダイダラボッチなのか」

『呼ぶな。呼ばないでくれ、その型に固まってしまうだろう』

「ダイ……」


 教授の声が夜に溶ける。

 黒く靄のような影は更に鮮明な形になり、背が伸びる。


『やめてくれ、形に囚われたくないのだ。もう十分なのだ』


 悲鳴のような声が響いてくる。


『俺をアレと思うな』

「しかし、あなたは私が長年研究して、恋焦がれた。そのものに見える」

『頼むから、頼むからやめてくれないか』


 声は悲痛になり、形は更に明瞭めいりょうとしていく。


 それは、まさしく教授が夢見たダイダラボッチそのものだった。民俗学や伝承、さまざまな文献に書かれた姿そのもの。


『人は見たいものを見る。俺は、お前の想念が産んだ幻に過ぎない』

「ちがう、想念なものか」

『そうなのだ』

「では、私が見るあなたは何だと言うのだ」

『この原野がまだ原野であったころ、この地にいたものだ』

「神なのか」

『ちがう、それも違う。ああ、だめだ、形がどんどん……。強すぎる意識にとらわれてしまった。失敗した』


 今では黒い影は徐々に薄れ、灰色になり、より鮮明になった。それは、望んできたそのものの姿へと変形していく。もう影ではない。物質に近い。


 するどい悲鳴に似た声がふたたび響いた。

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