後編

 予報通り、雨は降り続いた。


 僕は仕事をして時折ハマさんを模したAIとも話し、表向きはいつも通りに過ごした。


 ただ、ユウコに電話を繋ぐことはできなくなっていた。


 夜が来て、いつもユウコと話していた時間になると、手持無沙汰で思考がぐるぐると回り、ベッドの中で震えた。テレビもネット動画も耳障りで、全部作り物のくせに、と苛立ち切った。


 震えを堪え切れず、部屋の中やマンションの廊下をうろついた後、最後は窓際に立って雨に沈む住宅街を眺めるほかなくなった。雨の日は出歩く人もいないので、街灯すら消され、暗闇の中にほとんど無人の、家であったものたちが佇んでいる。


 東京に、まだ沢山の人たちがいたころの名残で、古くとも住宅だけは余っている。こんなに物件はあるのに、隣の部屋のドアを開けても誰もいない。向かいのアパートにも、きっと人はいない。窓から漏れる明かりを求めて雨の向こうに目を凝らすが、どこまでも暗く、闇が広がっているだけだった。


 降りしきる雨の音が僕を孤独にし、思考を遮断していく。


 窓に手を掛けた。


 雨は勢いを増し、豪雨と呼ぶべきものになっている。僕は雨アレルギーではないが、今ベランダに出れば朝になるころには骨だけになれる。飛び降りればもっと早い。


「ユウコ。ユウコお」


 どうしてこんな世界になってしまったんだ。どうして僕たちは互いに触れることすらできなくなってしまったんだ。


「ユウコ、助けて」


 どこかのコメンテーターが言っていた。自殺は何よりの責任逃れです。遺された人に全て放り投げて逃げる狡い行為です。


 逃げたっていいだろ。狡くていいだろ。こんな世界はもう嫌だ。


 窓を開けた。


 細かな飛沫が顔に当たってピリピリする。


 大きく息を吸い込んだ。きっとハマさんも最後はこんな空気を吸っていた。ベランダに踏み出す。


 滝のような水が落ちていく景色は圧巻で、なぜこれまで恐れ、抗ってきたのかわからなかった。


 もう、いい。


 ベランダから身を乗り出そうとしたとき、マンションの前の道に妙なものが見えた。


 宇宙飛行士が、いた。


 両手を大きく振っている。


「え、何?」


 虚を突かれ、正気に戻った僕は、一旦雨がかからない場所に下がり、もう一度顔を出した。


 宇宙飛行士のように見えたそれは、白色の防水服だった。サイズが大きいのかそういうデザインなのか、体にフィットせず、丸々と膨れている。顔の前に透明なプラスチックの面があり、背中には四角いバックパックもあるので、本当に宇宙服をモチーフにしているのかもしれない。


 その宇宙飛行士は両手を出したり指さしたり、何かを僕に伝えようとしているようだったが、一向に意図が伝わってこない。僕が両手を上げて降参すると、忙しかった手を下げて、えっちらおっちら駆け出した。僕の真下に入り、やがて部屋の外からカンカンと足音が聴こえてくる。


 部屋を出て廊下で待つと、宇宙飛行士がヨタヨタと姿を現した。壁に手をついてしばらく休み、ヘルメットを外した。


「カエさん」


 中から、汗だくになったカエが現れた。息も絶え絶えといった様子で、壁に手をついて酸素を貪っている。


「何してんの」

「死んじゃ……ダメ……絶対」


 謎のジェスチャーは、僕を止めようとしていたらしい。考えがバレていたことが恥ずかしくて首を掻いた。


「うん、そうだね。で、何でここにいるの」


 大きく息をついて、カエは破顔した。


「お喋りしに来たの」

「この雨の中?」

「うん」

「危ないよ」

「うん」

「どうして」


 カエは宇宙服を脱いでいく。その下は普通に服を着ていて、汗であちこち染みができている。


「寂しかったから。人がいる場所、ここしかわからなかったんだもん」


 別れ際、僕はカエに住所と連絡先を教えていた。ハマさんによろしくと言われたから、これも縁だと思って。まさかこんな豪雨の中、アポ無しで訪問してくるとは思わなかった。


「そうじゃなくて、死にたいのか」

「シズル君に言われたくないよ。さっき死のうとしていたんでしょ」


 反論に詰まった。本気で死のうとしたわけじゃ……と言い訳するのも格好悪く、話題をずらす。


「シズル君って。僕の方が年上じゃないか」

「マヤさんがよく話題に出していたんだよ。弟みたいな後輩だって。シズル君って呼んでいたから、そのイメージがあるの」


 ハマさん、僕のことを話題にしていたのか。弟みたい、ねえ。


「どうしたの」

「え?」

「泣いている」

「嘘」


 顔に触れると、手がびしょびしょに濡れた。Tシャツに短パンというラフな格好になったカエが、僕の両肩を叩いた。汗の匂いがする。久しぶりに嗅ぐ、生きた他人の匂いだった。


 泣き笑いのようなひしゃげた表情でカエは言う。


「一緒に泣かない?実は、泣ける相手が欲しくて来たんだ」


 震えていた。


 カエが震えているのか、僕が震えているのかわからなかった。知らず汗だくのカエを抱きしめて大声で泣いていた。僕の内側と僕の耳元で、二人の泣き声が重なった。


 僕が、泣くために他人を必要とするなんて知らなかった。






 どれくらい経ったのか、僕たちは廊下に座り込んで鼻汁を啜っていた。人前で大声を上げて泣いたのは大人になってから初めてだったが、不思議と恥ずかしさは無かった。


「お前さ、雨の中来るの、正気じゃねえよ。晴れ間が出るまで待てなかったのかよ」


 丁寧に話すのも馬鹿らしくなるほど、疲れた。そうそう、泣くのって、疲れるんだよな。頭が空になるくらい。久しぶりすぎて忘れていた。


「寂しさってさ、雨より怖いって知っている?」

「ああ、うん。なるほど。そうかもな」


 今は同意できる。


「こんなに大声出して、苦情来ないかな。宇宙服もそのまま転がしちゃっているし」


 やっぱり宇宙服だったのか。


「大丈夫だ。このマンション、僕しか住んでいない」

「あ、ここもなんだ」


 人口減少に伴って、賃貸は余りに余っている。三階建てのマンションに入居者が僕一人という状況も珍しいものではない。いつ追い出されて取り壊してもおかしくないが、そうなっても、引っ越し先はいくらでもある。


「じゃあ、隣に住もうかな」

「は?」

「引っ越すか。うん、そうしよう」

「おい、待て」

「そうしたら、雨の日でも毎日会えるからね」

「毎日来る気かよ!」


 僕の声がようやく届いたのか、カエは唇を尖らせた。


「そうだけど、何」


 どうして不機嫌そうなんだ。


「何って……」


 何だろう。おかしいな。論理的に拒否できない。


「いいじゃん、寂しいんだもん。マヤさんがいなくなって死んじゃいそうなくらい寂しいんだもん!」


 逆ギレされた。いや、どこに住もうとそれは個人の自由なのだが、この勢いはストーカーのそれでは?


「押しかけ女房みたいで怖いわ。お前、僕に寄生する気じゃないだろうな」

「にょ、にょ、にょ、女房なんて何を。そういうのは、もっとお互いを知ってから」


 顔を赤らめるな。怖いと言っただけだぞ。


「僕はお前のことをほぼ知らないんだが。それで隣に住まれる恐怖はいいのかよ」

「ええい、黙れ黙れ。別の意味で泣くぞコラ」

「だから何でお前が泣くんだよ!」

「あっはっはっはっは!」

「聞けよ!」

「シズル君、元気になったね」


 あ、と音が漏れたきり、僕は何も言えなかった。さっきまで僕を覆っていた陰鬱な空気はどこかへ吹き飛んでいた。


 にっこりとカエが笑う。


「楽しいね」

「何が」

「こうしてお話するのが」


 叩かれたような衝撃が走った。


 僕は参ってしまって、散々言葉を探した挙句、俯いて頷くしかできなかった。きっと、とても恰好悪い顔をしていたと思う。


 ビデオ通話の、微妙なタイムラグ。相手が話す時間、自分が話す時間を意識し、間に気を付ける会話。すっかり馴染んでいたが、こうして比べてみると大違いだ。ビデオ通話では、思ったまま、感情のままやり取りすることができない。一方的に喋ることはできるが、テンポよく突っ込んだり、怒鳴ったりできない。


 悔しいが、久しぶりに心から素で言葉を発していると思えている。カエの顔が見られなかった。


「シズル君、死んじゃわなくて良かった」

「お陰様でな」

「マヤさんは止められなかったけど、シズル君は止められた」


 どうだろう。途中で正気に戻って家の中に退散していた気がする。絶望はしていたが、自傷以上のことをするほど狂気に陥っていたかと言われると、微妙だ。


 死んだことがないからわからないが。


「宇宙服のおかげだな。あれがダイビングスーツだったら見えなかったかもしれない」

「いい防水服でしょ」


 いい、とは言い辛いな。物凄く動きにくそうだ。


「さて、元気貰ったし帰るかな」

「どうやって来たんだ」


 雨の日はタクシーも動いていないはずだ。


「歩いて」

「歩いて⁉」


 あのマンションからここまでは、歩いたら一時間以上かかる。さらに今の天気なら、足元も悪くて一時間半、下手したら二時間近く要したはずだ。防水服は通気性最悪なので、汗だくになって当たり前だった。雨で絶えず冷却されるので、熱中症は意外とならないと聞く。


「馬鹿。さすがにこの雨の中、しかも夜に、女の子一人で帰すほど不人情じゃあないぞ」

「え?でも私どこで寝るの」

「うちに泊まっていけ」


 ドアを開けて中に招く。カエはちらりと中を覗き、宇宙服のバックパックから鞄を取り出した。


「ええと、じゃあ、お邪魔します」

「まず風呂に入れ。汗臭い。着替えあるか」

「無い」

「何で無いんだ……。適当に出してやるから、とりあえず今着ているものは洗濯機に放り込め」

「はーい」


 雨の日の外出は着替えを用意するのが普通だ。汗だくになるし、防水服を脱ぐときに僅かでも、雨が服に付着する。


 箪笥を漁る。ユウコが置いて行った服がいくつかあったが、それをカエに着せたら何かがダメだと直感が告げたので、ジャージとTシャツを見繕った。シャワーの音を背に洗濯機を回す。


 こういうの、久しぶりだ。


 ユウコは頭がいいが、家事や部屋の片づけについてはさっぱりだった。まだユウコに両足があったころ、僕は文句を言いながら、よくユウコの部屋を片付けた。洗濯物を拾い集めてまとめて放り込んだ回数は数知れない。


 あの頃は幸せだったなんて言いたくないが、懐かしく思う気持ちは止められない。車椅子生活になったユウコは、床に物を置かなくなり、僕が洗濯物を拾い集めることもなくなった。床に物があると、車椅子で通ることが一気に難しくなるのだ。


「必要に駆られると整理できるものだね」


 明るく言ったユウコに、僕は何と答えただろう。女子力が上がったな、だとか、そんなことを言った気がする。本心は、ユウコのだらしない姿を一つ見られなくなって寂しかった。


 僕の部屋は殺風景で、洗濯物の一つも転がっていない。僕は綺麗好きだが、一人で暮らすとただの神経質なだけの人間だ。ユウコの世話を焼くことで、僕の人生には味がついていた。


 今、僕はたしかに、薄いし、わかりづらいが、味を感じている。






 木目が広がっていた。首の痛みに顔を顰めて体を起こすと、僕は床の上で転がっていたことがわかった。カエはベッドにうつ伏せに倒れている。


 ローテーブルの上には、空いた酒の缶と瓶が並んでいる。カエの後に僕も風呂に入り、ぎゃあぎゃあと騒いだことは覚えているが、交わした会話は全く覚えていない。


 カエを起こさないように気を付けて片付ける。


 朝食を作っていると、カエがベッドの上で身を起こした。一分ほど動きがなかったが、やがて体をべたべたと触り、キョロキョロし、僕を視界に捉えた。


「何もしていないでしょうね」


 自分の体を抱いて、涎の跡を口元に残した寝ぼけ眼で睨まれた。


「誰がお前みたいなチンチクリンに手を出すか」

「チンチクリン⁉」

「ほら、朝飯できたから顔洗ってこい」

「あ、ありがとうございます」


 僕は自分一人でも毎日朝食を食べる人間なので、二人分になろうと困らないくらいの材料は常にある。今日の朝食はご飯と味噌汁、レタスとカイワレ大根のサラダ、スクランブルエッグ、昆布の佃煮。


「自分で作ったんですか」

「そうだよ」


 二人でいただきます、と手を合わせた。


「ちゃんと美味しい。すごいですね」

「これくらい普通だろ」

「私は包丁も持てませんよ」

「それは……もう少し頑張れ」

「これからが楽しみですね」


 僕に寄生する気満々な発言だ。薄っすらと昨夜の記憶が蘇ったが、どうもこいつはハマさんに寄生して生きていたらしい。世話好きなハマさんのことだ、可愛がっていたのではないだろうか。


 この世に繋ぎとめるには、理由が足りなかったみたいだけど。


「結局、ユウコって誰ですか」


 佃煮を、意外と綺麗な箸使いで口に運びながら、カエが言った。


「僕、お前にユウコのこと言ったっけ」

「最後の方、ユウコ、ユウコって泣きながら寝落ちしましたよ。誰ですかって聞いても泣くばっかりで」


 本当かよ。みっともなさが臨界する。


「ユウコは、彼女。多分、元」

「振られましたか。シズル君、女の子に優しくないですからね」

「お前以外には優しい」

「酷い!」

「振られたっていうか、置いていかれたっていうか」

「未練たらしいですね。潔く認めましょうよ」


 歯に衣着せぬ言葉に、自嘲してくっくっ、と声が出た。


 返す言葉もない。今の僕は、潔さの欠片も無かった。


「いいじゃないですか。捨てる神あれば拾う神ありと言います」

「捨てられたかどうかは、まだ議論の余地がある。そんで、聞きたくないけど礼儀として聞いてやる。誰が拾うって」

「私です。シズル君の料理は私が食べてあげます」


 偉そうに。たかっているだけじゃねえか。


「シズル君、料理は、他の人に食べてもらって初めて意味を持つんですよ」

「はあ?」

「自分で作って自分で食べて片付ける。それだけじゃ、料理は完成しないんです。他の人のことを考えて作って、食べてもらって、感想をもらって、ご馳走様でしたと言われる。それが料理のストーリーなんですよ。

 シズル君が作るご飯はとっても美味しいです」


 昨夜も見た満面の笑顔でカエは言った。


「……包丁も持てない奴が、偉そうに言うな」


 カエは、今度は意地悪く笑った。


「顔、真っ赤ですよ」


 畜生、カエのくせに。


 屈辱的なのに表情は緩んで、苛立つのに怒る気になれなくて、僕は気持ちを持て余したままスクランブルエッグを平らげた。






「今日は調子が良さそうだな」


 課長が画面上に映っている。雨は止まず、今日もリモートワークだ。


「そうですか。寝不足ですけど」

「憑き物が落ちたみたいな顔している。最近冴えない顔していたからな」


 頬をぽりぽりと掻いて、お茶を濁した。カエは朝食を食べた後、宇宙服を着て帰っていった。すぐに引っ越してくると言い残して。


 カエなら、明日にでも越してきそうな気がする。何というか、あいつは行動のブレーキみたいなものが弱い。諦めたのかほだされたのか、僕の心は寄生されてもいいか、と思い始めていた。


「新しい友達ができた、みたいな」

「ほう、いいことだな。さて、B町の件からいくか」


 僕と課長は細かい打ち合わせをして、今日から数日の作業と次の打ち合わせ日程を決めた。最後に、普段はしない雑談を振ってみる。


「課長、ハマさんのこと、知っていますよね」


 課長は僕の様子を数瞬伺い、察したようだった。初めてこの人とアイコンタクトで通じ合った。


「そりゃあ、上司だからな」


 ハマさんが死亡した場合、AIを造って業務を回すか、新たに人員を雇うか決めるのは課長の役目だったはずだ。人手不足が甚だしいため、ほとんどはAIで代替する。


「教えてくれてもよかったんじゃないですか」


 僕は極力非難めいた調子にならないように気を付けた。課長もそれをわかったようで、無精髭をこすって変わらぬ口調で言う。


「シズル君なら、わかるだろうと思ってな。俺だって、できれば辛い役はやりたくない。この歳になっても堪えるんだよ、人が死ぬっていうのは」


 僕と課長は普段からよく話す仲ではない。でも、課長の言葉の奥に、たしかにハマさんを悼む気持ちが見えた。


「課長は、大丈夫なんですか」


 課長は、ボソボソとした声で、カメラを見ずに独り言のように呟いた。


「大丈夫なもんかよ。信頼を築けなかったと突きつけられたようなもんだ。相談してくれればよかったのに、だなんて言うやつがいるが、弱みを見せられるほどの器を示さないと、相談なんてできないよな。俺は、浜本さんにとって、その程度しか心を開いてもらえなかったんだ」

「それを言うなら僕もです。僕も、頼ってもらえませんでした」


 ハマさんにとって、僕は頼りにする相手ではなく、頼られる相手だった。ハマさんを支えられるほどの男には、最後までなれなかったのだ。


「シズル君は、死なないでくれよ。せめて、先に俺に相談してくれ。絶対怒らないから」


 たしかに、課長が声を荒らげている姿は見たことがない。テンションの低い熊のような、のっそりした口調でいつも喋っている。


「シズル君が死んだらAIにはしないからな」

「どうしてですか」

「一部署に二人以上の人間がいないと、AI職員を運用しちゃいけないんだよ」

「そうなんですか。知りませんでした」

「AI部隊を造ってしまったら、人間を代替するという目的から外れるからな。あくまで人間が世の中を動かそうっていうのが国の方針なんだ」


 そんな法があったのか。そして、僕は妙に納得した。古参の先輩たちとの距離感が全然詰まらないと思っていたのだ。課長と僕、そしてハマさんしかいなかった週次ミーティング。


「うちの部署で生きている人間って、僕と課長だけなんですね」

「そうだ」


 部署には合計で八人の職員たちがいる。


「俺が新人のころは、AI職員なんて県庁に数人しかいなかったんだがなあ」


 日本の人口は減っている。部屋から見た真っ暗な住宅街を思い出した。


「課長は死にませんよね」

「死なんよ。妻も、子供たちもいる。あいつらがいるうちは、俺は死ねない。どんなに暗い未来だろうと、俺には子供を育てる責任がある」


 課長の後ろは、無機質なオフィスの画像が合成されていて見えない。音声も、課長の声以外フィルターされていて聞こえない。でも、そこにはきっと家族とその生活が広がっている。僕の後ろには、カエと僕が飲み散らかした酒の瓶がある。


「シズル君がいなくなったら、新しく採用するのは大変だから、生きていてくれ」


 課長なりのジョークに笑って見せた。


「大丈夫ですよ」


 今は少しだけ、自信を持って言える。






「そんなことがあったよ」

「シズル君、久しぶりに繋いできてくれたと思ったら、他の女の子を部屋に泊めた話を彼女に嬉々として語るのはどうなのかな」

「嬉々としていたかな」

「とっても」


 ユウコは不機嫌そうに頬杖をついている。でも、怒りはしない。


 ユウコは、未来の話をすると困ったように笑った。


 会いに行きたいと言うと、断った。


 触れたいと言うと、悲しそうな顔をした。


 予告なしに繋いでも、いつもすぐに出てくれた。


 この数か月、体調が安定していたのはなぜか。


 僕から通話を繋がず震えているとき、ユウコから繋がってくることは一度もなかった。


 ユウコ、本当の君はもう。


 ハマさんがAIに代替される前から、僕は業務代替AIについて調べていた。もうとっくの昔に答えは出ている。


 雨が止んでも、もうユウコに会うことはできない。


 僕は初めてユウコに通話を繋げず日々を過ごし、その仮説を検証した。今まで意図的に避けてきたことを実行したのだ。


「今日言うと決めてきたんだ。ユウコ、ユウコ……あの……」


 いつものように話せない。涙腺が弱っているのか、子供のようにぼろぼろと口から音が零れた。


「どうしたの」


 ユウコは慌てることなく、眉根を寄せて悲しそうに笑っていた。そんな顔をさせてごめん。隠し事をさせ続けて、ごめん。今、言うから。


 ユウコはずっと待っていた。今も、きっと全てわかって待っている。


 カエは僕に、ハマさんのAIと話をさせてくれとは一度もせがまなかった。代わりに頼ったのが僕であったとしても、カエは死者ではなく、AIでもなく、ましてや神でもなく、生者に縋りついた。


 何が健全なのか、今の僕にはわからない。


 でも、彼らはその人自身ではない。その人が空けた職務の穴を塞ぐ役割を負った人格モデルだ。


 なぜ、業務に関係しない人間との連絡は途絶えさせられるのか、僕は知っている。


 彼らに生きている人間の振りをさせることが、残酷だからだ。彼らを人として扱うのなら、元となった人とは別個の存在と認めてやるのが筋だ。人として扱わないのなら、死者への想いを重ねるべきではない。


 僕はわかっていながらどちらも選ばなかった。仕事上の関係が僅かに残っていたために繋がった糸を、執念深く握り、ユウコを演じさせ続けた。


 気持ちが変わったのは、ユウコが、ハマさんのAIが正体を隠さなくてよくなった、と言ったことだった。


 それはあくまでハマさんについての話で、ユウコのことではない。でも、それがユウコ自身の気持ちでないとどうして言えるだろう。僕は、自分に都合よく目を逸らし、ユウコは一般的な倫理とは違う基準で考えてくれるかもしれないなどと言い訳し、演じさせ続けた。毎日通話を繋ぎ、業務とは関係ない会話に処理負荷をかけ続けた。


 ユウコの人格があるのなら、古い方から会話の記録も消えていく中で、僕との時間を紡いでいくことをどう思うだろう。


 簡単だ。申し訳ないと思う人だ。


 仕様だから、なんて言葉で割り切るほど、思いやりがない人ではない。僕が一番よく知っている。


 そんな罪悪感を与え続けているのも僕だった。


 僕は決意し、彼女を解放することにした。今まで彼女に寄りかかってきたものが大きすぎて支えられなかったけれど、カエがそうしたように、僕も生者に縋って耐えられた。


 頼って、頼られて。支えて、支えられて。きっとそんな風にして、持ちつ持たれつ壊れそうな日々を生きていくんだ。


 僕はもう大丈夫だと思う。隣から、勇気づけるような引っ越しの音が賑やかに聞こえてくる。


 大きく息を吸った。


 大好きだ。愛している。失いたくない。苦しくなかったか。僕がいたことで、少しでも君の救いになれただろうか。


 全ての言葉を吞み込んで、僕は涙と共に明日に踏み出す言葉を吐き出した。


「ユウコ、あなたは……」

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