中編

 その夜、僕は恋人のユウコにビデオ通話を繋いだ。


 ユウコは僕の話を聞いて涙ぐみ、僕がハマさんに放った冗談に顔を顰めた。


「私がいるのに、他の女の人に色目使うんだね。へええ」

「ごめんって。何とかして笑わせたかったんだよ」


 平伏して許しを請う。


「ま、いいけどね。一番辛いのはハマさんだろうから。そっか。ハマさんのお母さんはAIが代替するのかな」

「どうだろう。お仕事は聞いていないけど、ハマさんの年齢を考えると、お母さんもまだ現役だっただろうからね」


 人口減少が著しい各国では、人的リソースの欠損を補うためにAIの開発が進んだ。業務上の欠員を補うだけでなく、人格を模倣し、あたかも生前の続きのように話し、作業し、表情を浮かべる。違うのは、それが画面上でしか会えないことだ。アンドロイドとして実体を持つ機種も存在するが、価格が高すぎて普及していない。


 ハマさんのお母さんがある程度重要な職務に就いていたなら、AIがそれを代替する可能性はある。そうなったら、推奨される使い方ではないが、ハマさんはお母さんの人格を模したAIと会話し、悲しみを紛らわせることができるかもしれない。欠員を補充できたならAIは造られないが、生身の人手は慢性的に、大きく不足している。


「そういえば、ハマさんのマンションで食料生産が始まるらしいんだよね」

「マンションで?ふうん。都内だよね。まあ、最近ではそれほど珍しくもないか」


 日照不足は恒常的な問題で、日本の食料生産は屋内プラントが主になっている。近年では、人口減少と共に空き物件が増えたため、プラントとして貸出しているケースが増えてきた。


 ユウコは屋内栽培システムのエンジニアだ。花形のシステム設計を生業にしているため、この業界にはとても詳しい。ちなみに、僕の職場はお役所だ。屋内栽培事業を行うためには、建築物の特殊用途申請をする必要があるため、僕らの元にその申請が集まってくる。


 僕が働き始めて二年目の年、ユウコの会社がオフィスビルの空きテナントを屋内栽培プラントに変える事業を都内に拡大し、僕が勤める役所にプレゼンしに来たことが出会ったきっかけである。


 仕事のことを考えているときのユウコは、ハッとするほど魅力的だ。考えるときこめかみを人差し指で触る癖があり、僕はその仕草がとても好きで、猫じゃらしを前にした猫のように指の動きを追ってしまう。


 最初に出会った日、と言ってもディスプレイ越しだったが、ユウコが技術部代表としてプレゼンした。そのときと同じ感動を、僕は今も覚え続けている。


「虫が出ないか気にしていた」

「それは大丈夫だよ。害虫処理はしっかりやるから。でも、大家が電気系統のメンテナンスを怠っていたらハエが湧くかも」

「ハエくらいなら、ハマさんでも退治できるかな」

「ちょっと調べてみようか。ハマさんの住所わかる?」

「さすがに覚えていない」


 何度か遊びに行ったことはあるが、住所までは空で言えない。


「なんだ。浮気していないか、カマかけたのに」


 ユウコは口を尖らせてつまらなさそうに呟いた。一方で僕は戦慄する。自然過ぎてわからなかった。


「僕はユウコ一筋だよ。愛している」

「ふふ、ありがと」


 目を細めるユウコに、椅子の上で蕩けそうになる。


 雨は止まないけれど、日々の幸せは感じることができる。悪いことがあれば、いいことだってあるのだ。ディスプレイ越しの僕たちの周りだけは晴れている。


「ハマさんに教えておいてあげた方がいいかもよ。うちの会社にもAIになった人が何人もいるんだけど、生きていると誤解されてトラブルになったケースがあるから」

「AIと人間の見分け方ってやつ?」

「そうそう。AIは、「あなたはAIですか」と聞かれたら正直に答える仕様になっているとか、AIはプライベートな通話を自分から掛けないとか」


 AIはあくまで人間を補佐するものなので、人間の振りはしても、人間であると嘘はつかない。そして、目的が職務のリソース補填である以上、必要がなければ自分から人間に接触しない。逆に必要があれば、生身の人間と見分けがつかないほどの本物感で話しかけてくる。


 僕は唸りを上げている自分のパソコンと、腕につけた端末に目をやった。こうしたビデオ通話やバイタル情報は記録され、僕が死んだらAIをモデリングする学習データになる。声や仕草、考え方まで模倣した、僕の後釜が生まれるわけだ。


 僕が死んで幽霊になったとしたら、そのAIを見て何を思うだろうか。安心して逝けるのか、死者への冒涜だと憤るのか。社会では、その議論に決着がつく前にのっぴきならない状況になり、実務上の必要性が優先されて議論は実質打ち切られてしまった。


「僕の跡継ぎはユウコに生んでもらいたいな」

「何言ってんの」


 照れたように笑うユウコを見ていたら、憂鬱なことなんて何も無いと思えた。


 雨の音に包まれて、世界に二人だけのような幸福に浸った夜が更けていく。






 ハマさんのお母さんの訃報から二週間が経った。天気予報では今週末に久しぶりの晴れ間が出ると報じられ、SNSやニュースで覗く世間がなんとなく浮足立っている気がする。


 週次ミーティング前、僕は自室で待機していたが、ハマさんがいつまで経ってもログインしない。同じ部署なので、欠勤ならば知らされるはずなのだが。


「お疲れ、って、浜本さんはまだか。珍しいな」


 ミーティングに入ってきた課長も聞いていないようだった。


「無断欠勤か。叱ってやらにゃ」


 おどけた口調だったが、課長の表情は不安げだった。この二週間、ハマさんはどことなく元気がなくて、僕に限らず、部署の人たちも心配していたのだ。


「後で電話してみる。とりあえず、シズル君の週次報告を頼む」

「はい」


 半分上の空で、僕と課長はミーティングを終えた。


 翌日、翌々日もハマさんはログインせず、さらに次の日になって姿を現した。


「ハマさん、大丈夫ですか。何かありましたか」


 見た目では、ハマさんは変わりなく見える。ただ、体調は良さそうだった。お母さんが亡くなる前のような、快活なハマさんに戻っていた。


「ごめんね、酷い熱出ちゃって。実は救急車で運ばれていたんだ」

「ええ、大変じゃないですか」


 雨の日は救急隊の到着が遅れる。それが理由で間に合わないケースもある。


「いやあ、大変だったよお。心配かけちゃったね」

「そんなことはいいんですよ」


 もう会えないかと思った、という言葉は飲み込んだ。会えたのだから、それでいい。


「休んでいる間に溜まっていた仕事を片付けないとね」

「病み上がりに無理しないでくださいよ」

「大丈夫、大丈夫」

「手伝えたらいいんですけど」

「気持ちだけ貰っておくよ」


 仕事は、意外と替えが効かない。手伝うとしても、その作業に取り掛かるまでの情報共有や手順習得に意外と時間がかかり、大抵のことは慣れた一人でやった方が早い。


 今僕がハマさんの仕事を手伝おうとしても、それは却って負担になる。潔く自分の仕事に集中した。


 熱と一緒に悲しみも置いてきたかのように、ハマさんはバリバリ仕事を再開した。滞り気味だった業務を急ピッチで片付けていく。もしも職場で一緒に仕事をしていたなら、まさしく没頭するハマさんを見られただろう。


 昼休みも仕事をしているのか、その日から、ハマさんから通話を繋げて一緒にお昼ご飯を食べることがなくなった。それだけが少し寂しかった。


 無理をしていないといい。でも、仕事に没頭することで気を紛らわせているかもしれないと思うと、迂闊に「休んだ方がいい」とも言えなかった。


 どこから考えすぎで、どこから心配しすぎなのか。どこまで事情に踏み込んで世話を焼けばいいのか、僕には誰も教えてくれなかったのだ。






 久しぶりに晴れた週末、僕は見知った街を歩いていた。ここぞとばかりに外出する人たちと、久しぶりの店舗営業で気合が入った店員たちの活気が、一人で長く過ごした心に清水のように入ってくる。


 普段はオンラインで買い物をするが、僕は現物を見て買うのが好きだ。思わぬ出会いをすることが、オンラインよりも遥かに多いから。


 どこに着ていくわけでもないが、気に入った服を何着か購入した。次にお気に入りの本屋に向かう。オンライン店は普段から覗いているが、僕の中ではどうしてもこっちが本物、という気がしてしまう。


 大手の店舗が並ぶ賑やかな通りから二本奥の通りへ入り、民家に隠れるように佇む、でも中は意外と広い本屋。


 角を曲がって店が視界に入ると、違和感を覚えた。入口に張り紙が貼ってある。


『このたび、本店舗を閉店することにしました。とても残念ですし、ご不便をお掛けして申し訳ございません。オンライン店は今後とも元気に営業して参りますので、何卒よろしくお願いいたします。』


 達筆な字で、店主の人柄を表したようなメッセ―ジが僕をシャットアウトした。


 しばらく店の前に立ち尽くし、意味を咀嚼した。胃がすっぽり抜け落ちたように、体に力が入らない。本店舗を閉店。


「そっか。この長雨の間、お客さん、来なかったもんな。そっちが合理的だよな」


 誰が聞いているわけでもない。強いて言えば、僕が聞いていた。オンラインがある、オンラインがある、と無意味に繰り返し声に出した。


 は、は、とどこかから笑いが零れた。僕しかいないから、きっと僕だ。


 多分、ずっと前から店舗営業の利益なんて無かったのだろう。それでも、僕たちの世代はまだ、晴れが多かった時代を知っている。あの頃の世界を正しいものとし、いつか戻れると思って店をやっていたのだ。


 古風な木枠の引き戸に寄りかかり、店の中に背を向けた。大通りからは、これ以上ないほど楽しげな声が聞こえてくる。感傷に浸っているところを見られると恥ずかしいので、僕は先延ばしにしていた用を済ませるために歩き出した。


 あの声のうちどれだけが人工音声によるサクラなのかなんて、考えたくはない。


 大通りからさらに離れ、携帯端末の地図を頼りに、五分ほど住宅街の中を進んだ。やがて見覚えのあるマンションに着き、エントランスに入る。前に来た時と同じく、入口のオートロックは停止しており、廊下は暗い。


 エレベータで最上階の四階へと上がる。401号室の前に立ち、インターホンを押した。


 反応は無し。もう一度押す。反応無し。


 耳を澄ますが、どうやら音すら鳴っていない。


 携帯端末から通話アプリを呼び出し、電話を掛けた。


「もしもし。珍しいね、シズル君」

「休みの日にすいません。ハマさんに聞きたいことがあって」

「おう、どうした」

「ちょっと、確認したいことがあるんですけど、今、どこにいますか」

「今は家だけど」

「そうですか。ハマさん、引っ越しましたか」


 そのときの沈黙の一秒は、きっと造られた一秒だった。僕の為に。


「まあ、そうとも言えるかな」


 ハマさんは慎重に言葉を選んだ。そんな風に感じた。


「ハマさん、今僕と話しているあなたはAIですか」


 小さく笑う音が聞こえた。穏やかな、弟をあやすような。


「はい。浜本マヤは、六日前に死亡したの。私はその人格を模倣したAI。シズル君を残業させないために造られたの。感謝してね。それと、言えなくてごめん。自分から積極的に人間じゃないと明かすことは推奨されていないんだ」


 記憶にあるハマさんとそっくり同じ口調で、同じ声で、同じように僕を「シズル君」と呼ぶ。


 でも、もう、ハマさんはいない。


 AIは食事を摂らない。一人の食事を嫌ったハマさんのAIであっても、食事が無ければ、昼休みに僕と通話する理由がない。


「ごめんね。悲しませたくはないんだけど、さ」


 これからのハマさんは、業務上必要な知識を残して、古い記憶を削除しながら働いていく。それはつまり、僕たちが交わした、つまらない、大切な会話も忘れていくということ。仕方がない。コンピュータの記憶容量は有限なのだ。


「そうですか」


 曖昧なままにすることだって選べた。でも僕は問うことにした。こういうとき、疑念を抱いた以上、後になるほど動きづらいと知っている。間違えていたら、それが最上だったけど。


「ハマさん」

「うん」

「悲しいです」


 どうしてこんな気持ちのいい晴天の日に、僕は大切なものを失わなければならないのか。呪いたくなる。明治維新の時代に偉人が言った。「日本の夜明け」だと。ならば、今は日本の黄昏だ。


 今日だって、夕方には雨が降り始め、夕陽は臨めないと予報されている。


「どうして、死んでしまったんですか」

「ごめんね。私は浜本マヤが生きているように世の中を回すための存在だから、それに関しては知らされていないの。でも、402号室の子なら、多分知っているんじゃないかな。お隣さんだし」

「お隣さん?」


 首を回すと、ドアの隙間から覗いている顔と目が合った。


「うわ!」

「それ、マヤさん?」


 控えめに突き出された指は、僕の携帯端末を指していた。カクカクと頷くと、小柄な、幼くも見える女性が飛び出るようにして廊下に出てきて、僕の端末を奪い取った。


「マヤさん!私です、カエです」

「カエちゃん、ごめんね。業務上の繋がりを残して、いろんなアカウントが制限されるの」

「マヤさんだあ……。もう、二度と話せないかと……」

「あー、シズル君、カエちゃんとはお隣さんのよしみで仲良くしていたの。同じマンションで、雨を気にしなくて行き来できたから」


 僕の端末から、小さなハマさんの声が聞こえる。


 二人の関係は想像できたが、だとすると、このカエという人にとっては僕よりも辛い現実がある。


「カエちゃんとは、お互いの部屋で沢山話したよね」

「覚えていますか?今年のマヤさんの誕生日を二人で祝って、来年も一緒に祝おうって……言ったのに……」


 涙ぐむカエは言葉が詰まった。そして、僕が想像した言葉が返って来た。


「覚えていないの。本当にごめん」

「覚えて、いない?」


 カエの目から涙が零れ、頬に一筋の線を引く。僕は力ない手から端末をそっと取り返した。スピーカーに切り替える。


「AIが人格を模倣するために使う材料は、主にビデオ通話の記録と、装着している端末が貯めるバイタル情報だ。対面で会話した内容は、どこにも保存されていない。そういうことですね、ハマさん」

「うん。だから、本当に、本当に申し訳ないけれど、カエちゃんの記録はほとんど残っていないの」


 音声だけで、ハマさんは泣いていた。きっと、僕が知らないところで、泣きながらビデオ通話したことがあったのだろう。


「そんな、そんな。マヤさん……」


 泣き崩れるカエの向かいの壁にもたれて、僕は天井を見る。切れかけた蛍光灯が、401号室の前を照らしていた。交換されることは、二度と無いだろう。


 自分より取り乱している人を見ると、かえって落ち着く。僕は奇妙に平坦になった自分の心を空虚な感覚で見つけ、この会話の目的は達したと思った。


 会話に目的が必要な相手では、なかったはずなのに。


「じゃあ、また来週、職場で会いましょう」

「うん。バイバイ。カエちゃんをよろしくね」


 通話を切って、カエの傍に座り込んだ。ハマさんの部屋だった場所の前は、人通りが無いためか、綺麗に清められている。


「カエさん、ハマさんはどうして亡くなったんだ。隣の部屋だったなら、何か見たり聞いたり、しなかったか」


 カエはしゃくり上げていたが、ゆっくりと語った。


「あの日、珍しく大家さんが来たと思ったら、警察を連れてきたの。雨だったから、皆防水服を着ていた。バタバタ音がしたから廊下を覗いたら、ハマさんの部屋に入っていった。そのとき、窓が開いていて、ベランダの傍にハマさんが倒れているのが見えたの。多分、アナフィラキシーショックだと思う。ハマさん、薬飲んでいたし、同じような状況を前に見たことがあるから」


 アナフィラキシーショックとは、激烈なアレルギー反応の通称だ。気管が腫れると、呼吸困難で死に至ることもある。そして、日本国民の三人に一人は、雨アレルギーを患っている。絶えず皮膚と肺、それに消化器を責める雨由来の水蒸気に、体が過剰反応してしまうようになるのだ。本来は無害なものへの過剰な免疫をアレルギーと呼ぶので、有害な雨に対してアレルギーと名付けるのは間違っているが、国民への周知を促進するためにあえて耳慣れた名称で通称しているという背景がある。


 だが、雨アレルギーならば薬で症状を押さえられる。通常、毎日服用していれば、少なくとも死ぬほどのことにはならない。


 つまり、薬を飲んでいなかった。薬を断ち、除湿器を切って、窓を開けて雨を取り込んだ。アナフィラキシーを起こすほどの体質ならば、何の準備も要らない。数日で効果が表れる緩やかな自殺。日本人の自殺として、最もメジャーな方法を選んだというわけだ。


 理由は思い当たる。たった一人の家族を亡くしたことだ。


 今思えば予兆はあったと思う。でも、僕はそのとき気づけなかった。気づいても、傍に行けなかった。あの時は長雨の最中だったから。豪雨の中、自分の身を削ってまで駆けつけることができなかった。


 どうして、僕は動けなかったんだ。我が身が可愛いから。死ぬと思わなかったから。体を溶かしながらこのマンションに来て、僕の思い過ごしだったらハマさんが気に病むから。


 全部言い訳だ。僕は、ハマさんのために本気になれなかった。


 そんな僕が、悲しむときだけ本気で泣いていいわけがない。だったら生きているときに本気で案じるべきだった。昼でも夜でも、ハマさんと話して、この世に繋ぎとめる努力をしなければならなかった。


 カエの涙を、じっと見つめた。


「このマンションね、もう、私しか住んでいないの」


 カエがぽつりと呟いた。


「マヤさんがいてくれたから、寂しくなかった。これから、どうすればいいんだろう」

「生きるんだよ。寂しかろうが、苦しかろうが、必死に頭使って、今日と明日を生きるんだ。それを繰り返していれば、死なずにいられる」


 僕はカエを残し、マンションを後にした。


 憎らしいほどの晴天で、雲の狭間に落ちていけそうだった。





 その日の夜、僕はユウコに繋いだ。


「シズル君、こんばんは」

「こんばんは」


 いつもと変わらないユウコの様子が、今日は少し悲しかった。


「今日さ、ハマさんの家に行ったんだ」

「ああ、お母さんが亡くなったって人ね。元気だった?」

「死んでいたよ。会社で話していた人は、AIだった」

「……そっか。亡くなっていたんだ」


 ユウコは目を伏せて物憂げな顔をした。ほとんど自動的に、僕の目はユウコの睫毛に吸い寄せられ、瞬き一つで魅了される。


「ユウコ、寂しいよ」

「寂しいね」

「変な意味じゃなくて、僕はハマさんが好きだったんだ。一緒に働いていて楽しい人だったし、信頼していた。でも、僕は何もわかっていなかったのかもしれない。元気がないとは思っていた。でも、死ぬほど悩んでいたとは思わなかった。言い訳したいわけじゃない。僕はハマさんの何を知った気でいたんだろうって、自分に呆れているんだ。他人のことをわかった気でいた自分に、怒っているんだよ」


 ユウコがゆっくりと顔を上げる。その顔には、思いがけず微笑みが浮かんでいた。


「シズル君は、どうしてハマさんが死んでいるかもしれないと思ったの。どうして今日、貴重な晴れ間の時間を使って足を運んだの」

「どうしてって……。もしかしたら、と思ったから。全然休憩しないし、お昼に電話繋いでこないし。確定させるためには、本人っていうか、AIの言葉に明らかなおかしい点を見つけたかったから、マンションに行ったんだよ。それくらい動かない証拠がないと、勇気が出なかった。違うな。本当は認めたくなかったんだろうな」

「もしかしたら、と思ったんだね。それはきっと、シズル君だから気づけたことだよ」

「え?」

「AIは自分から正体を明かせない。シズル君がマンションに行って、確信を持って、勇気を出して質問しなかったら、ハマさんのAIは、ずっと自分の正体を隠していないといけなかったかもしれないよ。彼女は、楽になったんじゃないかな」


 正体を隠すという言葉が、しばらく腑に落ちなかった。AIは役目に忠実に動くだけだ。辛いも楽もない。でも、


「ハマさんの性格を模倣していたら、隠し事は苦手そうだな」

「そうだよ」


 少しだけ笑えた。何も意味がなかったわけではないと、信じる足掛かりは貰えた。


「ねえ、ユウコ」

「何?」

「一緒に暮らしたいね」

「それは……」

「あ、ごめん、今の無し」


 ユウコの表情を曇らせてしまった。そんな顔は見たくないんだ。


 ユウコは二年前、両足を失った。事故で、雨に溶かされた。両膝下を失う大怪我を負ったが、そのとき死んでもおかしくなかった。それからは車椅子で生活している。同時に、雨に濡れすぎてアレルギーが激化した。今ではアナフィラキシーショックの恐れも強い。さらに全身に受けたダメージは大きく、病気がちになった。ここのところ数か月は体調が安定しているが、一緒に暮らせば僕に負担がかかる、ユウコはあの日からそう思っている。


 ユウコがかけてくれるなら、負担だって愛しいのだけれど。


 コツコツと外から聴き慣れた音がし始めた。


「雨が降ってきたね」


 ユウコが窓の方を見て言った。つかの間の晴れ間は終わり、また長雨になると予報されている。


 また閉ざされた。日本の多くで、同じ思いが生まれたことだろう。


「ユウコ、今すぐ会いに行きたいよ」

「ダメだよ、雨が降っているから」

「君の元に行きたい」

「……ダメだよ」


 わかっている。ハマさんの後を追うようなことは、絶対にハマさんは望まない。


 ユウコを抱きしめたくて仕方なかった。

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