あなたはAIですか
佐伯僚佑
前編
雨が天敵に変わり始めたのは何百年も前のことだったらしい。
週間天気予報は日本全国、ずっと傘マークが並んでいる。瀬戸内海周辺では一日か二日、晴れ間が見えると気象予報士が言っている。
僕はガランとしたベランダ越しに外を見た。朝だというのに、厚い雲が空を覆い、絶え間なく聞こえてくる雨音が、意識しないと忘れるほど体に馴染んでしまった。
前にベランダで洗濯物を干したのはいつだっただろう。
一か月前か、三か月前か、よく覚えていない。雨があまりに多くなると季節感がわかりにくくなる、そう話していた外国の科学者を思い出した。きっと彼は日本に住んだことがないのだろう。わかりにくくなるどころか、季節感などという死語は最早俳句の中にしか存在しない。
それはさすがに言いすぎた。僕だって冬は着込むし、夏はアイスクリームを食べる。
乾燥機能付き洗濯機のスイッチを入れ、僕はパソコンを開いた。置き型除湿機のタンク満杯ランプが灯っていたので、ゴム手袋を嵌めて慎重に貯水タンクの水を捨てる。その後、ゴム手袋の上から水道水でよく洗う。
億劫さすら忘れるほどにルーチンワークだった。
雨で人が死ぬようになったのはここ数十年のことだ。地球環境の変化、環境破壊、遺伝子変異、食生活の変化、様々な要因が挙げられているが、ヒト、いわゆるホモ・サピエンスは雨で溶けるようになった。それ自体は昔から知られた現象で、梅雨の風情や、古い皮膚を代謝する健康法として古くから親しまれてきた。
しかし、雨の変質は時代を追うごとに進行、加速し、今では雨を浴びすぎると、骨を残して茶色いドロドロとした液体になって死んでしまう。
加えて地球温暖化で大気中の水分量が増加。雲は増え、雨は激しくなり、日本の梅雨と言えば世界中から同情されるような有様だ。
とはいっても、僕が生まれた時からこんな状態なので、それを特別だと思ったことはない。今日も雨だな、家から出られないな、と残念になるだけだ。
起動したパソコンで会社のネットワークに繋ぐ。雨が降ると移動すること自体が危険なため、多くの職場で雨天時リモートワーク制が敷かれている。ビジネスチャットの様子を見ていると、続々と同僚がログインしてくる様子がわかった。しばらく書類仕事を片付け、コーヒーを淹れて休憩していると、カレンダーが十分後のミーティングを通知していた。見ると、ハマさんがもう繋いでいる。
仕事のキリも良かったので、僕も繋ぐことにした。
「ハマさん、おはようございます」
ハマさんは二歳年上の先輩女性職員だ。僕もこの職場に来て数年経つので、今でこそ頼りにすることは少ないものの、最初は非常にお世話になった。あの頃はまだ、こんな長雨が降ることは稀だった。
ハマさんは油断していたのか、伸びをしているところを僕に見られて慌てて姿勢を正した。はにかむように笑う。
「おはよう、シズル君」
「調子はどうですか」
「どうもこうも、普通よ。あ、そうそう、計画書を見ていたらうちのマンションが出てきたの。なんかね、下の階で屋内栽培始めるみたい」
「へえ」
「虫が出ないといいな」
「ハマさん、虫が苦手なんですか。意外です」
男前の姉御肌なので、丸めた新聞紙で叩くタイプかと思っていた。
「大っ嫌いよ。叫んで飛び跳ねて逃げ回るっつうの。シズル君、虫は大丈夫な人?」
「まあ、人並ですかね」
「うちに虫が出たら退治しに来てよ。お願い」
どこまで本気なのか、両手を合わせてお願いされた。こういう気取らない性格が心地いい。
「他でもないハマさんの頼みなら、雨が降っていなければ、行ってもいいですよ」
「雨ね。これ、いつまで降るんだろうね」
「少なくとも一週間は雨の予報でしたよ」
「うわ、また野菜の値段が上がりそう」
ハマさんも僕も独り暮らしだ。雨が続くと外出しなくなり、必然、人と会わなくなる。慣れているつもりでも、時折表出する人恋しさを、こうして会議前後の雑談で癒すのが僕たちの日常だった。
それからも、最近観ているテレビ番組や、親戚のバカ話をしてミーティングの時間まで過ごし、課長が入ってきて真面目な仕事の打ち合わせが始まった。
課長は、僕たちの雑談癖を知っているはずだが、特段注意はしてこない。課長は奥さんと二人の子供がいる。独身の僕らのことを気遣ってくれているのだろう。
「それじゃ、週次ミーティングを始めるぞ」
画面に先週のミーティング議事録が表示された。
日本が後期融溶社会と格付けされて、約十年。人類が雨に溶かされるようになってから、雨が多い国は顕著に影響を受けた。端的に言って、寿命が縮み、死者が増えた。
雨は水蒸気となって空気を満たす。液体の雨ほどではないが、その水蒸気全てがゆっくりと体を溶かしていく。皮膚だけでなく、吸い込んだ先の肺や消化器官もダメージが蓄積され、健康寿命は短くなる一方だ。
インフラや社会システムもガタが来始めている。例えば今、雨が降るとタクシー運転手も出勤しないので、タクシーが走っていない。救急車と消防車は待機しているが、原子炉に近づくような重装備で防水する必要があるため、出動までが遅い。常に着込んでいると、今度は救急隊員が熱中症になってしまう。
仮に誰かが心肺停止して救急車を要請しても、助かる確率は五割未満だそうだ。晴天時は七割以上助かるらしいので、間接的に雨に殺されているといえる。
日本の最盛期は人口一億人を軽く超えていたと歴史の教科書で習ったが、今はその半分もいない。一般には、正確な数字は知らされていないが。
ふう、と息をつき、外の変わり映えしない景色を眺めた。僕が住んでいるマンションは近隣の住宅よりやや高い場所に建っているため、付近の住宅街を見下ろすことができる。雨に降り込められた家々は、じっと耐えているように見えた。もちろん僕の錯覚だ。雨が毒なのはヒトだけであって。家屋にとっては、コンクリートの劣化が少し早まる程度の些細なダメージにすぎない。
不思議な話だ。これだけ水に溢れているのに、飲むことはできないなんて。人類は、飲み水を自然から得ることができなくなってしまった。たまに思う。もう、地球で生きることができる種族ではなくなってしまったのではないか、と。
いつだったか、ユウコが言っていた。
「地球のどこでも生きていける種族なんていないの。自分が生きていける世界をなんとか守りながら、細々と生きている種族がほとんどなんだから、人間もそうするときが来たのかもね」
生きていける世界。自力で歩けず、雨が降ったら外に出ることもできないユウコがしそうな発想だったので、少し悲しくなったのを覚えている。
日本のホモ・サピエンスは絶滅するのだろう。同じく後期融溶社会に数えられているイギリスとバングラデシュは、もはやほとんど無人だという噂だ。
僕は、日本の黄昏を生きている。
夕暮れなんて、晴れ間以上に見た記憶が遠いけれど。
昼休みの時間になると、ハマさんがビデオ通話を繋いできた。ハマさんは一人での食事を嫌うので、雨の日は捉まりそうな同僚に繋いで食事の時間を合わせる。
今日は、というかいつも、その相手は僕だ。
「やっほー、さっきぶり」
「どうも。そっちのメニューは何ですか」
「ニンニクたっぷりのカルボナーラ。リモートだと、匂いを気にしなくていいから、そこは楽だよね」
「僕のパソコン、最新式なので、匂いも伝わりますよ」
「うっそ、やば!嗅がないで!ってそんなわけあるかい」
二人で笑って箸を進める。ビデオ通話機能は昔に比べて圧倒的に進化したが、匂いを精度よく効率的に伝送する手段はまだ開発されていない。
「かく言う僕も餃子ですしね」
「シズル君、臭いよ」
「匂いはわからないでしょうが」
「シズル君ってどんな匂いだったっけ」
「ペパーミントの匂いです」
「そんな具体的な匂いを放ってんの?」
「そういう香水をつけているんですよ」
「香水使ってんの?私としたことが、気づかなかった」
悔しそうにしているので、デスクの傍のガムをカメラの前で振った。
「こういうやつですよ」
「ガムじゃん!」
そんな他愛のない話で昼休みを埋めていると、ふとハマさんの表情が変わった。
「あのさ、シズル君、お昼時に悪いんだけど」
「どうしました」
「ちょっと聞いてほしい話があるの」
僕たちは普段仕事以外で真面目な話をしないので、改まって言われると悪い想像が駆け巡る。さては彼氏に振られたか。
「お母さんが、死んだんだって」
申し訳ないことに、想像の範疇だった。悲しいかな、僕は大人になってしまって、こういうとき、冷静に言葉を探せる。
「それは、ご愁傷様です。晴れていなくて、残念でしたね」
「うん」
雨が降っていては、葬式に駆けつけることすらできない。ミイラ取りがミイラにではないけれど、死者を弔いに行って死者になってしまっては元も子もない。だが、年に数回、家族の死に目に会おうと無茶をして辿り着けなかった人の話がニュースになる。最も大切なのは、今を生きているあなたの命です、とニュースキャスターが切実な表情で語るまでがお約束だ。
「昨日、連絡が入って、一応画面越しにお別れしたけど、あれ、死んだ人からは見えているのかな」
「ビデオ通話と幽霊って、相性悪そうですよね」
「だよね。何て言うか、完全に私の気持ちの問題なんだなって。それに、お母さんを弔えたかというと、全然弔えた気がしなくて」
画面越しに声を震わせるハマさんに、僕は何と声を掛ければいいのかわからなかった。ここからでは、指の一本も触れることができない。何を言っても、上滑りするイメージしか湧かなかった。
僕たちの間には、天から降る雫の帳が厚く垂れ下がっている。
千の言葉を尽くしても、ハマさんの涙は止められないだろう。そして、言葉で止めるものでも、きっとない。ハマさん自身が時間をかけて受け止め、乗り越えていくべきもので、他者ができることは傍で見守ることくらいだ。でも、僕は傍にもいられない。
「ごめんなさい。近くにいられなくて」
「仕方ないよ」
「王子キスで悲しみなんて忘れさせてあげたかったのですけれど、王子はロバに変えられてしまったのです」
「何の話をしているの。王子キスって何?」
「ペパーミント味のキスです」
ハマさんが吹き出した。
「君は王子じゃないでしょう。つまんない冗談だね」
呆れたような笑いでも、泣いているよりはずっといい。そのためのピエロならいくらでもなってやる。
本当に、僕のキスくらいで良ければいくらでも小道具にする。それで今、雨が止むのなら、喜んで捧げよう。
今日の豪雨とキスしたら、リップクリームでは済まない惨状になるだろうが。
「シズル君は、家族、どうしているの」
「親が実家で慎ましく暮らしています。姉は、世界のどこかにいます。滅多に連絡が取れない人で、流れ星みたいなレア度で突然実家に帰って来ます」
「やっぱりお姉さんいるんだね。そんな気がしたの」
「わかりますか」
「なんか、弟っぽい」
それよりも僕は、ハマさんと今まで家族の話をしたことがないことに驚いた。僕の家族はこのご時世にしては健勝だけど、ハマさんの家族はどうなのだろうか。
聞くべきかどうか逡巡していたら、ハマさんが自分から語った。
「私は、お母さんが最後の身内だったの。不用心だったのか、皆溶けて死んじゃった」
昔の価値観に囚われていると、雨への対処を怠って死ぬことがある。窓を開けたまま寝ていたら豪雨になって、部屋の中にまで飛んだ飛沫と外から入ってきた水蒸気で朝になったら溶けていた、という事例は枚挙に暇がない。
ハマさんの家の事情はわからないが、何かしらの油断があったのだろう。用心を怠る方が悪いと言うには、あまりに厳しすぎる一発アウトだが。
「私にも弟がいたんだ。シズル君、なんとなく弟に似ているんだよね」
「それは……」
過去形。そして、お母さんが最後の身内。ならば、弟さんは、必然的に。
「そうですか。僕は男として見てもらえないということですね。失恋のショックで死にそうです」
「ちょっと待って、そういうことじゃない。死なないで」
「そういうことじゃない?ということは、付き合ってもらえるんですね?」
「そういうことでもないから!」
ハマさんが画面の向こうの机を叩いた。
「ていうかシズル君、彼女いるでしょ」
そういう問題でもないと思うが。
「ハマさん」
僕はカメラに目線を合わせ、真面目な表情で見つめる。
「な、なに?」
「……いえ、この戦いが終わったら伝えます」
「君は戦争に行くの?それに、死ぬ人の台詞だよ、それ。遺書を読んで泣くシーンで終わるやつじゃん」
「まあ、冗談ですが」
どこが冗談なのか、と聞かれたら少々困った。
僕はハマさんほど、現実を受け入れるのが早くないから。
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