第2話

 夢だと分かった。

 彼女の涙を見たのはそれが最初だったから。

 彼女は泣いているとさえ気が付いていない様子だった。

 それはなるほど神経を凍てつかせる氷みたいな涙だった。

 彼女はただ僕に言った。

「なくなっちゃった」

 僕は同じように彼女を自分のベッドへ寝かせた。

 あのときの僕も気が付いていた。あの河野とかいうやつにサクノが惹かれていることに。だから彼女の一言でおおよそのことを知ったのだ。彼女はずっとサクノに片想いをしていた。それが今日終わったのだろう。

 そんなときに縋り付く先として選ばれたことが嬉しかった。だから僕は彼女をできる限り慰めた。言葉を受け取れなさそうだと思えば傍らにいて、涙で失うものを取り戻すように飲み物を呑ませた。吐き出される全てを受け止めて、失われる熱を補填するように抱きしめた。そうこうしている間に彼女は眠っていた。

 自分のベッドで眠る彼女はあまりにも無防備だった。そして僕は気がついた。

 それはふとした気づきだった。

 きっかけはなんだったのか。着替えさせるときでさえその手には慈しみしかなかったのに。それともそう思い込んでいただけなのか。それさえも疑わしい。

 いつの間にか。

 傷ついた親友が、抱いてみたい女になっている。

 どうして彼女が親友でなくなってしまったのか。僕にはいまだに分からなかった。

 あのときの再現のように僕は寝ている彼女の唇を奪った。

 彼女は目を開いた。

 優しく微笑み、彼女は僕を受け入れた。

 僕と彼女は結ばれた。


 夢から覚める。

 ぼぅとした思考が温もりに溶ける。

 ここはどこだろう。

 見上げる。

 世界がぼやけている。

 瞬いていると、メガネが差し出される。

 曲がった光が是正される。

 静かな視線が僕を見ていた。

「おはよう」

 彼女は言った。

 夢に決まっている。

 僕は彼女に口づけた。

 彼女はそれを受け入れた。

 静かな視線が僕を見ている。

 目は覚めなかった。

 怖気にも似た理解が背筋を走る。

 僕は今現実にいる。

 僕と彼女は衣さえまとわず共にあった。あのとき結ばれることのありえなかった僕らは今、互いの歪みが偶然にも噛み合ってこうしている。彼女はあのとき目を覚まさなかった。僕の理性は僕を咎めた。親友と願う彼女はいつまでも女だった。それを恐れていたのに、どうして僕は今彼女を口に含んでいるのか。

 静かな視線が僕を見ている。

 罪悪感があった。紛れもなくあれは罪で悪だった。だがそれ以上に彼女は魅力的だった。妄想よりもはるかにいい声で彼女は鳴いた。これまでの全ては彼女と比較するために積み重ねてきたのだと思った。これまでの全てはこの時彼女を愛すために身に着けたものだとさえ感じた。

 愛す?

 愛しているのだろうか。

 僕は彼女を。

 愛していたのだとは思う。

 片想いをする彼女に胸を痛めていたのは事実だった。彼女を応援する一方で彼女の失恋を望んでいた。それをなんど自責したことだろう。僕は彼女を愛していた。

 今は、どうだろう。

 こんなにも傷つく彼女を無理やりに犯した。

 終わりを望む彼女に提示した終わりは彼女の望むものではなかったはずだ。

 それを愛と呼ぶことを僕は許容できそうもなかった。

 静かな視線が僕を見ている。

「おはよう」

 ようやっと僕は応えた。

 彼女は緩やかな笑みを浮かべた。

「ゆっくり寝てたね」

「明日は僕が先に起きるさ」

「まだするの?」

「嫌か?」

「ふふ。コトリならいいよ」

 頬を触れあわす。くすぐったそうに笑う彼女はまるで童女のようにも思えた。彼女はこんなにも無邪気に笑えたのだろうか。僕はもう一度彼女と口づけをした。心地よさそうに落ちるまなじりに脳が痺れた。もう一度を求めて熱に触れる手を、彼女は拒むことはなかった。

 けれど僕は手を引いた。彼女は首を傾げる。

 今更になって怖気づいたのかと言われているような気がした。

 そうではなかった。ただ、どうしても知りたくなったのだ。僕が失ってしまったものの正体を。

「しい。君は、まだ僕を親友と呼んでくれるか」

「二度とごめんだね」

 彼女は笑顔で答えた。

 やはりそうなのだ。

 彼女は言葉を続ける。

「それともコトリは、まだ私を親友って呼ぶの?」

「まさか」

 僕も答えた。笑顔を浮かべられた自信はない。

 彼女は身を起こした。

 見つめ合う。

 瞳は異様なまでに澄んでいた。

「どうしてサクノに言ってくれないの」

「言いたければ自分で言えばいい」

「言えないよ」

「なら言わんよ。君もそれを望んでいるのだろう」

 彼女は観念したように目を閉じた。

 彼女が全てを白状していれば、今頃こんなことにはなっていないのだ。

 それができないから、彼女は僕にまで食い物にされる。

 いいザマだった。

 僕の最愛だったそれは、とっくにスクラップになっていた。

 皮肉なものだ。だから僕は彼女に心置きなく触れることができる。

「しいは細いな。この指で触れられるとたまらなくなる。君は魔性だよ」

 僕を夢に誘った指先は、細くて、綺麗な形をしている。口に含むと性の味がした。彼女の肌はどこも似たような味がする。どれだけ貪っても足りない。骨ばった彼女の身体は、そうと思えないほどに食いでがあった。

 きっと河野臨も同じように彼女に魅入られてしまったことだろう。そういう意味では彼女と僕は似ている。きっと彼女も同じだ。そんな僕たちに寄生されるとは、しいはなんと不運なのだろう。

 彼女の指先がふやけている。糸を引く唾液を見せつけた。

「サクノは驚くだろうな。僕らがこうしていると知ったら」

「っ、」

 サクノのことには反応するのか。それはそうだ。しいにとって、今や唯一の親友だ。僕を失った彼女にとってたったひとつのよりどころだ。そんな弱みを晒すなんて、彼女はどこまでされれば気が済むのだか。

 呆れは嘲弄と混ざって頬をひしゃげさせる。今の僕は大層醜いのだろう。でも君だってそうだろう、しい。親友を裏切って、脅しに屈して、不純のその身で輝けるつもりか。

「ああ、別に隠す必要もないのか。恋人になったとでも言っておけばそれでいい。隠したいのは君と河野臨の関係だからな」

「……」

「嫌か?ならおねだりしろよ、しい」

 僕の挑発に、彼女は僕を押し倒した。

 彼女の細い指が首に掛けられる。

 未だかつてないほどの憎しみが僕の顔を濡らす。

 二つ目の涙は火傷しそうなほどに熱かった。

 僕は嗤う。

 やってみればいい。やってしまえばいい。

 君に殺されるのなら本望だ。僕はもう間違った。取り返しなどつく訳もない。もう止まれない。僕は君の味を知ってしまった。止まれないんだ。僕を止められるのは君だけだ。僕は君を失った。

 君だけだ、君がいい、君じゃないと嫌だ。

 僕は懇願さえしていた。

 それなのに彼女は、あっさりと僕に屈した。

「……お、おね、がい……言わない、で……サクノには、おねがい……おねがいします……」

「そんな無様が君のおねだりか。しい」

 彼女の腕を掴む。強引に振り払えば、彼女はベッドから転がり落ちる。どこかを痛めたのだろうか。呻き声を上げる彼女をベッドの縁に座って見下ろした。

「なあしい。分かるだろう?まさかサクノみたいに初心でいるつもりか。君はそんなんじゃないだろう。なあ。君の汚れを僕に見せろよ」

 差し出した足に、彼女は這うように近づく。

 無様だった。愉悦はない。吐き気がする。

 どうして僕はこんなにも汚らわしい?


―――僕はなにをしている。


 これは、なんだ。

 なんだ、なにがどうなっている。

 助けてくれ。

 だれか。お願いだから。

 夢なら今覚めろ。

 どうしてこうなったんだ。

 誰のせいだ。

 僕のせいなのか。

 やめてくれ、やめてくれ。

 ああ、やめろ、やめろ、彼女を汚すな、彼女は、違う、こんな、どうして、彼女は、僕の、嘘だ、やめろ、ああ、いやだ、いやだ、いやだ!





 足先がひどく汚れた。

 どれだけ拭っても消えなかった。

 全部きっと君のせいだ。

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