最後のフィレオフィッシュ

きょうじゅ

The last supper

 美食家だったはずの父が死の床で最後に望んだものは、マクドナルドのフィレオフィッシュと一本のプレミアムモルツだった。



 わたしは多分、特に幼い頃は決して父のことが好きではなかったと思う。人間としてはともかく、とにかく一家庭人としてはとにかく食べ物のことにうるさくて面倒くさい男で、母はいつもこぼしていた。別に格別金のかかる食事を好むというわけではないのだが、家庭料理ひとつとっても、とにかく‟可及的な範囲において”手をかけた、そして技術的に完成された食事を常に望み、そこから逸脱したものが食卓に並べばすぐ文句を言う、そういう種類の人間だった。


 わたしは自分が結婚するとしても妻にこんな面倒くさい要求を並べ立てる夫にはなるまいとずっと思っていたし、実際そうはならなかった。私の妻は決して料理上手ではないが、わたしは何を出されても文句を言わずに食べる。それが矜持だ。父を反面教師としての。


 母は父より先に亡くなった。わたしには兄弟姉妹はおらず、そして父もまたそうであったから、父の晩年において残された係累というべき存在はわたしとその家族だけだったが、わたしは父が一人暮らす家にあまり寄り付きはしなかった。特に妻を連れて行ったことは一度もない。わたしの母にしていたのと同じような要求を一言でも口にされた日にはわたしの家庭での立場が危うくなる、くらいに思っていたからだ。


 流石に父が大きな病院の小さな個室で臨終の床に伏してからは幾度か妻と子を連れて会いに行っていたが、その日は妻と子に都合がありわたし一人であった。そうしたら、父が言ったのである。病院の食事がまずくてかなわない、これから言うものを買ってきてくれないか、と。


 正直なところ、うわ来た、と思った。だが、老い先短い老人の、下手をすれば最後の願いである。無視したり拒絶したりするのは人の情を欠くだろうとは思った。難しい要求をされたらどうしたものか、と思ったのだが、父の口から出た言葉は意外なものであった。それが、前述の二品と、その他雑多な品であった。チキンマックナゲットを5ピース、マックフライポテトのSサイズ、ハンバーガーとチーズバーガーを一つずつ、そして、フィレオフィッシュとプレミアムモルツ。そんなに食えないだろうとは思ったが、まあ父の最後の晩餐になるかもしれないと思えば安いものだ。で、わたしはマクドナルドまで車を飛ばし、戻ってきた。ポテトとハンバーガー、と言ったらもちろんお約束の、バリューセットを勧める決まり文句が店員の口からは飛び出したが、それは固辞した。父はコーラは要求しなかったから。


 結局、父が食べることができたのはフィレオフィッシュをほんの少しと缶ビールをふた口くらいであったので、ほとんどはわたしが食べることになったのだが、それにしても意外なので、なぜあえてマクドナルドなのか、と直球で私は聞いた。ひょっとしたらわたしに手間をかけさせることを遠慮しているのだろうか、とも思ったから。


 そうしたら父は語った。若い頃はこういうものも好んで食べていて、これがうまいということを本当はずっと忘れていなかったのだが、美食家気取りの口をずっときいていた手前妻の前では言い出せなかった、一人になってからは割と頻繁に注文していたのだ、最近はデリバリーもやっているし、云々。それに、マクドナルドで食事を済ませるのはさもしく貧しいことだなんてのはそれこそ底の浅い発想で、あえてこのファストフードに決してファストとはいえないプレミアムラインのビールを添える、その行為にはそれはそれで一種の美学があるのだと。


 なるほど、こう語らせれば父らしいなとわたしは思い、そして父はそれからまもなく亡くなった。墓参りのたびになぜかマクドナルドに寄るわたしを、妻は変に思っているようだが、いま口の周りをケチャップで赤くしている息子にはいずれ、理解できるであろう年になったらその真相を教えてやろうと、わたしは思っている。

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