第2話

紗枝がウサギを手に入れてしまったのは、騒ぎが起きるおよそ1時間前、もうすぐお昼休みが終わろうとしている時間だった。


職員室に提出物を持って行っていた紗枝だけが理科の移動教室のときにみんなから遅れをとっていた。早く教科書とノートを持って理科室に行かないといけない。


荷物を持って大慌てで席から立ちあがった時に、窓から入ってくる太陽の光に反射して、奈緒の机の上で何かが光ったのが目に入った。


「ウサギ……」

紗枝は思わず呟いてしまう。


今朝奈緒が持ってきて、彼女と仲の良いグループのメンバーのみんなに見せていたウサギのガラス細工が光っていた。


奈緒はとても気に入っているようだったが、あまりグループ内での受けはよくなかったみたいで、ウサギを見せてから、2,3分もすれば話題は昨日観たドラマの話へと移り変わっていた。奈緒も一緒になって話していたが、その表情はどこか寂しそうだった。


そんな奈緒たちの様子を、紗枝はクラスの端っこからチラリと伺っていた。紗枝の視線の先には机の端に追いやられて寂しそうに佇んでいるウサギの姿がある。


他の子たちが良さを理解できないとしても、紗枝には透明なウサギがこの上なく素敵な宝石のように見えていた。


1度で良いからゆっくりとウサギを見せて欲しい。まだ中学に入学してからほとんど話したことのなかった奈緒に、心の中で何度も何度も話しかけるためのリハーサルをした。


ウサギ可愛いね、見せてほしいな、これだけ言えば大丈夫。きっと言いたいことは伝わるから大丈夫。


そう心の中で何度も呟いてはみるものの、たくさんの子たちに囲まれている奈緒に、紗枝が話しかけるのは至難の業であり、ウサギを見せてもらうことはもうほとんど諦めていた。


だけど今、紗枝はウサギをじっくり見る千載一遇のチャンスにある。


奈緒の机の上で可愛らしく前足を揃えて座っているウサギが紗枝の方をジッと見つめているように感じる。まるでもっと近くでよく見てと、ウサギの方から語り掛けてくれているかのようであった。


ドンドンドンドンと心臓の鼓動が速くなっているのがよくわかる。少しだけ、少しだけだから……。気づけば紗枝はほとんど無意識のうちに奈緒の机の上にあるウサギを手に取っていた。


窓からの光が反射したウサギは、まるで自ら眩い光を発しているかのように見える。


「うわぁ、すごい! 凄く綺麗……」


指先に摘まんだウサギを瞳に近づけてじっくりと見れば、その精巧さがよくわかる。宝石みたいに綺麗なウサギのガラス細工に思わずため息が出てしまう。


向こうが透けてしまうくらい綺麗なガラスに、表情や手足までしっかりと作り込まれている神秘的なウサギに見入ってしまっていた。紗枝は意識の全てを注ぎこんで、二度と触れることはできないであろう綺麗なウサギの姿を目に焼き付けていた。


だから、教室の出入り口に立っていた瑠美香の方へは全く意識が向いていなかったのだ。


「ねえ、紗枝ちゃん。もう授業始まるけど、理科室行かなくていいの?」


予期せぬ瑠美香の声に紗枝は慌てて姿勢を正した。彼女はいつからそこに立って、紗枝の行動を見ていたのだろうかと不安になる。


クラスの人気者の奈緒の持ってきていたウサギを無断で触っていたなんてことがバレてしまうと、持ち主の奈緒や、その親友で気の強い佳奈たちに怒られてしまう。


そんな気持ちが浮かんでしまい、紗枝は咄嗟にウサギを手で握りしめてしまった。ヒンヤリとした冷たい感覚が手の中に残り、まるでそこから全身に冷たさが回っていくような気分になる。


そして、冷たさが回って来て、冷静になってきた頭で考える。勝手に触っていたことがバレてしまうことよりも、黙って取ってしまったことがバレてしまうことの方がよほど罪深いことであるということを。


だけど、もう後戻りはできない。


「わ、もうこんな時間だ。早く行かないとね!」

できるだけ平常心を装ったつもりで出したその声は、ところどころ裏返ってしまい、明らかに不自然なものとして発されていた。


紗枝はそのまま瑠美香と、そしてウサギと一緒に理科室へと向かったのだった。

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