子の日

海崎たま

子の日

 の日です。お正月です。

 お酒の甘い匂いがします。

 お正月には、みんなでおとそを飲みます。さかずきは、小さい人から回ります。ちえ子はまだ、子供だから、本当はお酒を飲んではいけないのだけれど、お正月にはこっそり、飲みます。

 お母さまは、ちいちゃん、ふりだけになさい。本当に飲んではいけませんよと厳しいお顔で止めますけれど、お父さまは、縁起ものだから口をつけなさいと言います。お父さまがそうおっしゃるのに、口をつけるだけになさいよと、なおも心配そうに口を挟むお母さまに、ちえ子もむっと意固地になります。そうして、甘い匂いのしずくをひとくち、唇に湿らせてみるのですけど、それだけでカッと体中が熱くなるようで、どうしても口に含んでみることができません。残念だけれど、頬がぽっぽとして、ふわふわ、浮かれた気分になるのは、好きです。

 お正月には、おごちそうも食べます。お重に入ったおせち。ぴかぴか金色の卵も、つやつやの黒豆も好きだけれど、ちえ子は、お煮しめがいっとう好きです。にんじん、たけのこ、昆布こぶも小さく、ちえ子のために、ねえやのみよが切ってくれます。みよのことは、優しいので、好きです。

 みよの女中部屋には、ねずみがいます。白くて小さな、赤い目のねずみです。お父さまがご趣味で育てているのを、みよに三匹下すったのだそうです。

 お父さまの趣味にお母さまは閉口していて、ことに長虫のようなしっぽが気持ち悪いと言って眉をひそめますが、みよは全然平気です。ちろちろとせわしなく動くのがかわゆらしいと言って、手に乗せて眺めたりします。

 たしかに、おかってに出るようなねずみは大きくて、色も汚くておそろしいのですが、みよのねずみは、真っ白できれいです。よく見ると、可愛い顔もしています。みよのねずみは、ちえ子も好きです。

 ふじ。黒ぶち。白。熊。まめ。ねずみには、実は色んな種類があるのだそうです。お父さまはたくさん、もっと色んなもようのねずみを飼っています。ねずみたちを同じ巣箱に入れておくと、すぐに子供が増えるのだそうです。生まれてきた子ねずみは、親ねずみとそっくりだったり、二匹の親ねずみをぜたもようだったりします。どんな子供が産まれてくるか、わからないのがなかなか面白い楽しみなのだと、お父さまはおっしゃいます。

 けれどお父さまはもったいぶって、ちえ子にはねずみを見せてくれません。だから、ねずみを可愛がりたいときは、みよに頼みます。みよはいつも優しくおねがいを聞いてくれて、お母さまには内緒ですよ、とこっそり部屋で遊ばせてくれるのです。

 みよの三匹のねずみには、セン、キヨ、ヨシ、とまるで人間のような名が付いています。みんな同じ、赤い目の小さな白ねずみです。ちえ子には違いがわからなくって、いつもみよに教えてもらいます。長く世話をしていればわかるのだとみよは言いますが、がんばって区別をつけようとしてみても、やっぱりちえ子にはわかりません。

 でも、みよは本当に優しくて、まるで我が子を慈しむようにかいがいしく、ねずみたちの世話をしているので、だから違いがわかるのだと思います。

 ちえ子も、みよの子供だったらこんなに可愛がってもらえるのかしらと、お母さまに申し訳ないことをこっそり考えたりします。お母さまはお厳しいけれど、みよは甘えると、膝に乗せてくれたりするのです。

 女中部屋に遊びに行くときは、だれにも秘密で向かいます。けれど、どうしてか、お母さまにはいつも絶対にばれてしまいます。そんなとき、お母さまはとても怖い顔して怒ります。


 オヤ ニハ カウカウ スヘシ。

 オヤ ノ メイ ニハ シタガフ ヘシ。


 お母さまを、悲しませてはいけません。ちえ子も、もう小学校です。もちろん、そのくらいのふんべつはついておりますけれど、それでもこの頃はときどき、お母さまのお言いつけを、なんだかくるしく感じてしまいます。きつく怒られて、しょげながら、学校の修身でつかう掛図かけずの言葉を、授業中みたいに心のうちでくりかえします。親には孝行すべし。親のめいには従うべし。

「どうして、みよの部屋に行ってはいけないの」

 そう問えば、空気が汚いのだと、お母さまは仰います。あそこは悪いところで、子どもにはまだわからないけれど、いっしょにいるとちえ子も汚れてしまうのだそうです。

 けれど、ちえ子にとっては、みよのお部屋が一番、この家の中で空気が澄んでいるように思えます。他のお部屋はあまり日も入らず、空気が重たくって、何だか暗く感じるのです。

 とかく、ねずみというものは汚いばい菌をもっていて、そういうのは大人になれば分かることだし、病気になるからみよのところに行ってはいけないと、お母さまはちえ子を厳しく叱ります。それから、あなただけはあんなところに行かないでと、ちえ子を抱きしめて、はかないご様子でお泣きになります。まるで、お母さまのほうが子どもみたいです。そうなると、もうどうしたらいいのかわからなくなってしまって、みよのことは大好きだけれど、お母さまを苦しめているちえ子がいちばん悪いことをしている気がして、ごめんなさいと謝りながらちえ子も泣いてしまいます。

 けれど、たっぷり泣いたあとはやっぱりみよの膝が恋しくて、きっと本当はものすごく悪いことをしているのだと思いながら、みよを訪ねてしまいます。

 みよのお部屋にあるのは、ねずみの巣箱と、おもちゃみたいなかわいい姫鏡台だけです。夕方になると、みよの部屋には西陽が射します。こんなにまっすぐ外の光が届くのは、この家の中でみよの部屋だけです。赤い夕陽を受けて、小さな鏡と、ねずみの目があやしく輝きます。

 悪いことは、いつもとても甘やかです。たっぷり泣いたあとの赤く腫れた目を、ねずみみたいですよ、と、みよは優しくからかいます。そうして、膝の上に座らせて、鏡台の前で優しく髪をいてくれます。

「よしそれとても春の夜の、夢のうちなる夢なれや」

 みよの甘い、かすかな声がつむぐしらべは、哀切です。みよの真似して、くりかえし、心のうちでつぶやきます。よしそれとても、春の夜の。本当は学校の教科書より、こちらのほうがずっと、好きです。夢のうちなる夢なれや。

 みよには、西陽が似合います。穏やかな、おとなしいみよの横顔が何故だろう、窓から差して落ちゆく赤い光に照らされると、このまま世界が終わってしまいそうなほどきれいに見えるのです。

「夢の中なる夢なれや」

「夢の中なる夢なれや」

 お母さまのお言いつけでずっと伸ばしている髪を、みよの手が優しくかしてくれます。本当は、みよみたいに短く肩で切りそろえてみたいのですが、はしたないとお母さまはおっしゃいます。学校でも、髪を短くしている子はたくさんいるのに。

 だんだんと機嫌をなおして、お次はみよにねずみを見せてもらいます。センちゃん、キヨちゃん、ヨシちゃんの見分けは、やっぱりつきません。

「どうして、みよはねずみを可愛がってるの」

 言ってから、いつもみよといっしょにいられるねずみを妬んでしまったと気付いて、はずかしくって下を向きました。

「ねずみは、だいこくさまのおつかいですよ」

 みよの声は優しくて、ふわふわ、お正月のおとそを舐めたような気分になります。

「お父さまのお仕事が上手くいっているのも、お父さまが、ねずみをたくさん大切にされているからなのですよ」

 そういうものかしらん、と首をかしげました。この、小さなねずみが、神さまのおつかいなんて、ちょっといくらなんでも言い過ぎじゃないかしらん。

 でも、みよがそう言うのなら、それが正しいような気がしてきます。

「お父さまのこと」

「ええ」

「よく、わからない。いつも、お忙しくしていらっしゃるし」

 言ってしまってから、良くないことを言ったのでは、と不安になりました。また、お父さまにお疑いの目を向けていたことに、自分でびっくりしてしまいました。オヤ ニハ カウカウ スヘシ。オヤ ノ メイ ニハ シタガフ ヘシ。

「お嬢さまは、何も心配なさらなくて良いのですよ」

 みよが心地よく、小さな柔らかい声で囁きます。みよを信じて、こうしていつまでもとろけていられたら、どんなにか幸せでしょうか。

 けれど、それじゃあ、どうしてお母さまは、あんなに毎日さめざめと泣いてらっしゃるのだろう。

 どうしてお父さまは、お母さまの顔を見ては、怒ってばかりいるのだろう。

 泡のように浮かぶそんな疑いも、みよの優しい手に溶かされて、だんだんどうでも良くなっていきます。

「夢の中なる夢なれや」

 呟いた声は、どちらのものだったでしょうか。

 燃える西陽の中、ちえ子はまどろみの中に沈んで、頼りなくとろけていってしまうのです。



 子の日です。お正月です。

 さかずきは、今年はセンちゃんから回ります。

 センちゃんは、ねずみではなく、去年生まれたばかりのみよの子供の名前です。みよは去年、お母さんになりました。

 男の子だったので、お父さまはたいそうお喜びになり、その子に仙一と名付けました。

 わたしももちろん、喜びました。大好きなみよの子どもです。弟ができたようで、お姉さんになったようで嬉しくって、

「この子のお父さまは、だあれ?」

 と、はしゃいでみよに尋ねたのですが、みよは曖昧に笑って、首を横に振るだけでした。


 キヤウダイ ハ ナカヨク スヘシ。

 キヤウダイ ハ リヤウテ ノ ゴトシ。


 結局、センちゃんのお父さんについては誰も教えてくれないまま、産院から戻ってきたみよとセンちゃんは家で暮らし始めました。二人とも、きっと寂しいだろうから、センちゃんのお父さまもこのおうちで一緒に暮らしたら良いのに。みよの好きになる人は、きっと素敵な人に違いありません。いっしょに暮らしたらきっと楽しくて、塞ぎがちなお母さまの気持ちも晴れやかになるはずです。

 センちゃんは、いつもにこにこ笑っていて、愛想の良いかわゆらしい赤ちゃんです。センちゃんがあんまり可愛いからか、お父さまもみよの部屋に入り浸りで、最近ではご飯も、お母さまやわたしとは一緒に召し上がりません。

 でも、わたしはお姉さんなので、生まれたばかりのセンちゃんのためを思えば、そんなの全然へいちゃらです。

 けれど、お母さまは以前にもまして、一日中泣いてばかりいます。いつも暗くふさぎこんで、昼日中から寝室に閉じこもり、お部屋から出てこない日がほとんどです。

 お寂しいのはかわいそうと思うけれど、お母さまもわたしみたいに、少しは我慢なさったら良いのにと思います。

 

 カゾク ソロツテ ゴハン ヲ イタダク トキ ハ

 ホンタウ ニ タノシウ ゴザイマス。


 今日のお正月は久々に、全員が食卓に揃う機会となりました。去年のお正月までは、お父さま、お母さま、わたしだけだったのに、今年は、みよとセンちゃんも一緒です。賑やかなのが嬉しく、いっそう晴れやかな気持ちになります。

 みよがつくったおせちを囲んで、最初はおとそです。センちゃんの口の周りに、ちょん、とみよが盃から、細い指先でお酒をつけます。センちゃんは、キャッキャと笑いました。

 お父さまは、それを見て満足そうです。お母さまだけが、ぼうっと浮かないお顔で、じっとうつむいています。

 次に、わたしがみよから盃を受け取り、口をつけました。ひとしずく、舐めてから、やっぱりすぐに体が熱くなってしまい、慌てて盃を離しました。

 そうして、困りました。誰に盃を渡したら良いのか、とわからなかったのです。下の者から順番に、というのはちゃんと覚えていて、いつもはお母さまにお渡しするのですが、今年はみよが居ます。悩みました。お母さまとみよ、どちらにこの盃を渡したら良いのかしらん。

「お母さまに渡しなさい」

 お父さまに冷たい声で言われて、びっくりしました。お父さまの声には何だか、小さな動物をいたぶる男の子のような、残酷な響きがありました。うつむいているお母さまの肩も、ぴくりと震えました。

「早く渡しなさい」

 もう一度言われて、わたしは慌てて盃をお母さまに差し出しました。オヤ ノ メイ ニハ シタガフ ベシ。おずおずと盃を渡すわたしを見つめて、お母さまはじろりと怖い目をしました。そして、止める間もなく、盃を叩き落としたのです。

「あっ」

 テーブルの上、服の袖や膝までが、こぼれたお酒で濡れました。お母さまはわたしを睨めつけたまま、恨みがましく呟きました。

「おまえが、おとこのこにうまれていたら」

 呪いをかけられたようでした。蛇に睨まれたねずみのように、わたしは固まって動けなくなってしまいました。

 びっくりしたのか、わあっとセンちゃんが泣き出しました。お父さまが、いつものようにお母さまを怒鳴りつけます。お母さまは何か罵りながら、金切り声で喚きつつ、テーブルの上のお皿や料理をめちゃくちゃに荒らしてしまいました。

 色んな怒号と悲鳴の中で、何も出来ずに全身をこわばらせたままでいると、誰かに頭を撫でられました。みよです。

「行きましょう、お嬢さま」

 何も変わらぬ日常の中にいるように、微笑んでみよが頷きます。呪いがとけたわたしはやっとの思いで頷き返し、慌てて椅子を降りました。みよについて、わたしは、お父さまとお母さまが争い続ける食卓を後にしました。

「大変でしたね」

 女中部屋に避難し、まだ聞こえている怒声に蓋をするように内側から鍵をかけると、みよは他人事のようにそう言いました。

 センちゃんはまだ泣いていましたが、みよの腕の中であやされて、すぐ泣き止みました。すうすうと健やかなセンちゃんの寝顔を見ていると、体からようやく緊張が抜けていくようで、わたしは長いため息をつきました。

「怖かった」

「そうですね」

 センちゃんをベッドに寝かして、みよはねずみの巣箱の置かれた机の椅子に腰掛けました。みよの温もりの傍にいたくて、わたしはその足元にしゃがみます。涙が、ぽろりとこぼれました。

「つまらないの。最近。いえ。前から、ずっと」

 みよは静かに、わたしの言葉に耳を傾けてくれているようでした。

「お父さまは、ちえ子にかまってくれないし。お母さまは、ふさぎこんでらっしゃるし」

 いけない。ちえ子はお姉さんなのだから、我慢しなくては。キヤウダイ ハ ナカヨク スヘシ。オヤ ノ メイ ニハ シタガフ ベシ。心の中で繰り返すと余計に切なくなるようで、涙はあとからあとからぽろぽろと溢れだしました。

「お父さまも、お母さまも、きらい」

 自分でも、驚くような本音がこぼれ落ちました。口にした後で、自分で自分にハッとして、自分のことを嫌いになってしまうような言葉でした。

「お嬢さまには、みよがいますよ」

 心に黒い隙間を見つけたときに、みよがそんなことを穏やかに言うので、わたしは思わずみよの膝に縋りついてしまいました。

 みよは、わたしの髪を優しく指に絡めて梳きました。それだけで、うっとりするような心地です。センちゃんは、こんなに優しいみよがお母さまで良いなあ、とまた思いました。

「みよは、何をしているの?」

 みよはわたしの頭を撫でながら、机の上で何かしているようでした。膝立ちになって覗くと、みよは片手で、赤い粘土のようなものを、匙を使って小皿の中で練っていました。

 薬のような、独特の臭いがします。少し、今朝のおとその匂いを思い出しました。

「猫いらず」

「猫いらず?」

 みよはスプーンで赤い粘土をちょっとすくうと、巣箱の蓋を開けました。餌と思ったのか、ねずみが三匹、愛らしく寄ってきます。

 その内の、一匹。

「センちゃん」

「覚えましたね」

 みよは微笑んで、三匹のねずみの中から、センちゃんの鼻先に猫いらずを差し出しました。センちゃんは、みよの手ずから、猫いらずのお団子を美味しそうに食べました。

 そうして食べてすぐ、センちゃんは苦しんで死にました。わたしはびっくりして、みよが何をしたのかよく分からず、ただそれを見ていることしか出来ませんでした。

「どうして?」

 尋ねても答えず、みよは無言で立ち上がりました。そのときわたしは、みよのお腹が、また少し膨らんできているのに気が付きました。

「今年は、キヨの番かしら」

 みよが優しく、生き残ったねずみのうち一匹を、両手ですくい取ります。これは、キヨちゃんです。もう、すっかり覚えました。

 ねずみのキヨちゃんは大人しく、みよの手の上で気持ちよさそうに身を丸めています。

 ああ、今年はねずみのキヨちゃんが死んで、赤ん坊のキヨちゃんが産まれるのか。

 それなら来年は、きっとヨシちゃんの番なのだろうな。

 机の上の猫いらずとみよの手のひらのねずみを見比べて、わたしは早く、みよの二人の赤ちゃんに会いたいなと思いました。



 子の日でした。お正月でした。

 なのに今年は、私に盃は回ってきませんでした。どうしてだろう、と切なくなりながら、私はみよの膝の上で甘えます。みよの手だけは相変わらず、優しくって、とろけるようです。

「それは、お嬢さまが幽霊だからですよ」

 こともなげに、他人事みたいに、みよが言いました。みよは、いつもそうです。この家の中で何が起きても、凪いだまま。みよの心を揺さぶることは、誰にも出来ませんでした。

「もう、死んでしまったの? 私」

「そうですよ。亡くなられてから、もう、何十年。お嬢さまは長いこと、この家から出られなくなって、みよの膝の上でいつまでも子供みたいに甘えているのですよ」

 みよの言葉が可笑しくって、わたしはケラケラと笑いました。それが本当なら、ちえ子はもうお母さまよりずうっと歳上だし、みよはすっかりおばあちゃまになっているはずです。

「うそよ、うそ。そんなのは、ゆめまぼろしだわ」

「いいえ。本当のことですよ」

「本当って、何が?」

「この世の全ては、ゆめまぼろしだということが」

 みよの手にとろかされていると、確かにそれだけがこの世で本当のことのような気がしてきます。わたしはにわかに、恐ろしくなってしまいました。

「こわい」

「それは、そうですよ。この世で一番怖いのは、恋の話ですもの」

 みよは皺の寄った手で、わたしの髪を撫でます。お母さまに初めて逆らって、みよに憧れて短く切った、肩までの髪です。


 オヤ ニハ カフカフ スヘシ。

 キヤウダイ ナカヨク スヘシ。

 ヨシ ソレトテモ ハル ノ ヨ ノ

 ユメ ノ ウチ ナル ユメ ナレヤ。


「みよは、お父さまのことが好きだったの?」

 ずっと、怖くて聞けなかったことを聞いてみました。みよは、意外なくらいきっぱりと首を横に振りました。

「いいえ」

 優しいみよがこんなにはっきりと、冷たく物事を否定するのを、わたしは初めて見ました。

「私が恋していたのは、貴女のお母さまですよ」

「そうなの? でも、お母さまは貴女を憎んでた」

 妾という言葉を知ったのはいつのことだったでしょう。

 級友からだったかもしれません。もう、ちえ子ちゃんとは遊べないの。おうちにいるの、本当は、女中さんじゃないのですって? 私も、お母さまに聞いたわ。私も。ちえ子さんのおうちは汚らわしいって。非国民だって。ああいうおうちには、ばい菌がいっぱいいるから遊びに行ってはいけませんって。ちえ子さんも、不良なんでしょう?

 私は、家の中にも外にも居場所が無くなりました。居場所があるのは、みよの膝の上だけでした。みよは、私がずいぶん大きくなっても、拒まず甘えさせてくれました。

 みよが優しければ優しいほど、私は不安になりました。いつかきっと、この人も、私を独りにしてしまうのじゃないかしら。

 可哀想だったから、とみよは答えます。

「貴女のお母さまのこと。お父さまにつれなくされて、恨んで、拗ねて、憎んで、なのに巣箱のようなこの家から出て行くすべも無くて、擦り切れてぼろぼろになっていくのが、可愛かったから」

 ぞくり、と背筋が寒くなりました。わたしは再びみよの膝にすがります。

「やっぱり、怖い」

「怖いでしょう。恋の話ですもの」

「でも、わたしも怖いことをしてしまった気がする」

 みよは笑いました。

「怖い話、お聞かせくださいな」

「ねえ。幽霊が怖い話をするのって、可笑しいかしら? ましてや、それを恐がるなんて」

「ちっとも」

 みよの手に撫でられるたび、溶かされ、髪が抜けていく。もう、本当は、頭蓋に肉など残っていないのだろうな。この家も、本当はきっと焼け野原。そのほうが、未練も無くて良いけれど。

「幽霊というのは、人が死んでから、棺の中で燃え尽きるまで、ねずみに肉をかじられながら見る夢のことですもの」

「思い出してきた」

 みよの声に導かれるように、私は無い瞼を閉じる。目玉が無いから、もう見ることは出来ないけれど。肉の無い喉を風が通り抜けて、笛のような声で、ひゅうひゅうと私は語る。



 子の日だったわ。お正月だったわ。

 なのに家の中では、相変わらず怒号と悲鳴が飛び交っていた。

 おとそもおせちも出てこない。お母さまはすっかり気が狂れて、昨日は幼女のようににこにこしていたのが、今日は朝から泣き叫んでいた。仕事が上手くいかないお父さまも、苛立って何がしか理由をつけては、私とお母さまを打ち、責めさいなんだ。

 お父さまのお仕事が上手くいかないのは、みよが三匹のねずみに猫いらずを食べさせたから。だいこくさまのおつかいを殺したから。みよはきっと本当に、お父さまのことを憎んでいたのだろうな。知っているけど、言ってやらない。私も、あの男のことは、嫌い。

体中の水分を絞るように涙を流しながら、お母さまは私を抱きしめた。ちいちゃん、一緒に死のうねえ。狂ったお母さまにとって、私は幼い子供のまま。お母さまは私の口に、匙で何か赤い泥のようなものを押し込めようとした。

 猫いらず。はっと気付いて、私はお母さまを突き飛ばし、駆け出した。お母さまの悲鳴を無視して、みよの部屋へ、駆けた。

 今ではすっかり、お父さまとの寝室となった西陽の射すあの部屋に、みよは居た。巣箱の前の椅子に腰かけているみよの足元には、白いねずみが三匹、硬くなって死んでいた。

「殺しちゃったの」

 私が、食べさせたかった。貴女の子供に、猫いらず。そう続けると、みよは答えた。

「いいえ。殺したのは、お嬢さまですよ」

 お父さまも、お母さまも。私の子供たちも、みんなみんな、貴女が殺してしまったのですよ。

 みよはそう言って、手にした盃を飲んだ。そうして私を抱き寄せると、口づけをした。

 甘い匂いのひと雫。唇に湿らせるだけで、体中カッと燃え上がるよう。

 燃える火の口づけ。聞かなくても、わかる。溶けているのね。猫いらず。貴女の手に溶かされて。

 憎んだのね。私のこと。貴女はあの男より、私を選んでくれたのね。殺したいほど憎む相手に、私はなることが出来たのね。

 よしそれとても春の夜の、夢のうちなる夢なれや。せめて時雨よかし。独り寝の寂しきに。降る降る雨は、焼夷弾の雨。焼けたの。全て。戦争があって。私たちが死んだ後、悲しかったことも寂しかったことも全部、燃えて一面、焼け野原。私はそれを、あなたの膝の上で腐肉をとろかせながら見ていた。赤い炎に照らされたあなたの横顔は、やっぱり怖いくらいに綺麗。落ちてくる火も地上で燃える火もまるでこの世の終わりみたいに美しくって、二人で声を合わせて歌った。夢のうちなる夢なれや。

 ふじ。黒ぶち。白。熊。まめ。種々のねずみが、私の体を這い回る。良いわ。おべ。私もべた。だから私、今から地獄にゆくの。未練は無いほうが、良い。さらさら、きれいな白骨になって、後は満天の星の下、野中で風に吹かれたい。

「幽霊というのは、人が死んでから、棺の中で燃え尽きるまで、ねずみに肉をかじられながら見る夢のことですもの」

 みよの声がした。アッと小さく叫ぶ間に、唇から体が燃えた。やがて棺ごとごうごうと燃え尽きて、私の微睡まどろみはそこで、終わる。



(「閑吟集」より)

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子の日 海崎たま @chabobunko

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