8 嵐吹き荒れる

 このところ続いていた蒸し暑さがその正体を現した。まだ日本の遥か南をのろのろ動いているだけなのに、この雨風だ。地面に叩きつける大量の雨粒の前では傘も役に立たない。事務所と上屋を隔てるたった十数メートルの道路を渡るだけでレインコートがびしょ濡れになった。受付に入ると端の方でレインコートを脱ぎ、ビニール袋に入れた書類が濡れないように慎重に取り出す。

「どうだった?」

受付には今日も山近さんが居た。さっき午前の担当だった先輩と交代したばかりのようで、引継ぎノートに目を通している。

「やっぱラベルが間違ってますね」

ここでのラベルというのは危険物貨物に貼ってあるシールのことで、書類上の表記と貼ってあるラベルに記載された区分、分類が一致している必要がある。今回は『貨物機専用』のラベルが貼ってあるので旅客機では運べない。実際のところ内容物的には旅客機で運べるのだが、ラベルが貼ってある以上は搭載できない。そういう決まりだし、ラベルの貼り換えができるのは荷主から貨物を預かって航空会社に持ってくる航空貨物代理店、いわゆるフォワーダーだけだ。

「じゃあ先方にラベル交換の連絡しとくね」

「すみません、よろしくお願いします」

山近さんにあとを引き継ぐと事務所の執務エリアに入る。エアコンが全身の汗だか雨だかわからない水分を冷やして、反射的にくしゃみが二連発出た。

「風邪ですか?」

通りかかった藤嶋が心配そうな顔で訊いてくる。

「いや、濡れた服がエアコンで冷えちゃって」

「雨、ひどいですもんね……」

ブラインド越しの窓に、雨粒がバチバチと音を立てて叩きつけられている。周囲を広大な駐車場に囲まれたこの事務所は、四方から雨風をもろに受けて少し揺れている気すらした。

「お互い、体調には気をつけましょうね」

優しく笑うと藤嶋は税関申告用の端末に向かって作業を始める。丸本は無期限の療養中でいまだに浜島さんも復帰しておらず、これ以上の欠員はどうしても避ける必要があった。今日は水瀬さんも体調を崩して休んでおり、責任者席と課長代理の席を佐原さんが行ったり来たりしている。午後の担当で入っている桃井と森村のバックアップとして、藤嶋と俺は午前便を終わらせたあと残業し、危険物のチェックや書類作成を行っている。その桃井と森村も今朝六時ごろ、俺たちが出勤してきたころにはまだ事務所に居た。いくら森村が住む寮や桃井の実家が空港から近いとはいえ、数時間の帰宅ではろくに仮眠も取れていないだろう。

「森村、ラベル貼り換え対応になるけど、この雨ですぐに来てくれるかわからないから、念のため積み付け担当さんに一報しといて」

『カクニン中』と書いた付箋を貼って、該当貨物の書類を森村の隣の席に置いた。新人の教育をしていた時には席が足りずに困っていたのに、今この島には森村と桃井しか座っていない。

「ありがとうございます。宗方さん」

この短期間で森村はずいぶん変わった。最初会ったときはとっつきにくい若者、という感じだったが、徐々にカドが取れて周囲と揉めることもなくなり成長したのかな、と思う。入社してから大して日も経ってないのに、こんな状況に適応できているのは若さゆえか、それともなにか他の理由があるのか。そんなことを考えていると

「宗方さんごめん、サンフランの書類やってもらっていい?」

森村の向かいの席に座る、マスク姿の桃井が鼻をすすりながら頼んでくる。机の上には風邪薬と栄養ドリンクの空きビンが置かれていて、見るからに病人なのが明らかだった。

「わかった。他の便もやっとくからこっちは任せろ」

「ありがとう、助かる」

本来なら「帰って休んだ方がいい」と声をかけたいところだが、それすらできない状況が歯がゆかった。税関申告業務を終えて、午前の便すべての〆作業を完了した藤嶋と一緒に午後便の書類と捌いていると、誰かに見られているような気がした。視線を感じた方向を見ると國井さんだった。手はマウスの上に乗せたまま、体はモニタの方を向いて顔だけがこちらを見ている。メガネが光って目は見えないが、視線がこちらを向いているのはわかった。

「どうかしましたか? 國井さん」

國井さんは少しためらうような間を空けてから

「大変そうだね」

ぼそりと言った。なにを今さら当たり前のことを言っているのかと、発言の意図がわからず黙っていると

「なにが大変か、話を聞かせてもらえるかい」

と続けてきた。そんな暇があるように見えますか、と言いたくなるのをこらえて

「今、手が離せないので、今度にしてもらっていいですか?」

と答えた。精一杯気遣ったつもりだったが、出てきた声はえらく冷たい響きだったので自分でも驚く。國井さんはゆっくり頷くと視線をモニタに戻した。様子をうかがっていた藤嶋が呆れたようなため息をつく。サンフランの書類をすべて処理しドキュメントボックスに入れていると、責任者席の佐原さんが受話器を置いて声を張り上げる。

「関空向けの便が成田にダイバートするって!」

台風の影響で西日本は記録的な豪雨になっており、着陸を断念して途中の成田で降りることになったらしい。

「人手不足のときに限って、こういうトラブルが起きんだよね」

桃井がうつろな目で苦々しそうに言う。

「俺はダイバート初めてです」

森村は少しわくわくしているような感じもした。

「なにも楽しいことないよ、余計な仕事が増えるだけ。今日はトラック便が大変だね」

そう言うと桃井は大きなくしゃみをする。体をブルっと震わせて

「中部に降りればいいのに、どうせ暇でしょ」

と毒づいた。


 午後六時過ぎ、午後の便がなんとか欠航もせずに飛んでいくと、ふっと体から力が抜けた。それは皆同じだったようで、森村は大きく息を吐きながら机にうつ伏せになっている。危険物ラベルの交換も、大雨の中フォワーダーが来てくれて貼替え作業を行い無事に搭載することができた。雨脚は弱まることなくむしろ勢いを増しており、風で窓ガラスがガタガタと音を立てている。無線も沈黙しているので、轟々と吹きすさぶ風がギイギイと不気味に建物を揺らすような音がよく聞こえた。そんな中鳴り響いた電話の音に驚いたのか、机に突っ伏していた森村の体がビクッと動いた。藤嶋が受話器を取り、用件を訊いたあと保留にして俺の方を向く。

「宗方さん、関空の楠木さんからお電話です」

「楠木さん? ダイバートの件かな」

近くの受話器を持ち上げて保留ボタンを押す。

「はい、お電話代わりました、宗方です」

「宗方くん! 久しぶり~、元気……、なわけないか~」

相変わらず元気でハツラツとしている声を聞いて、こちらの気分も少し明るくなる。

「お久しぶりです。元気か元気じゃないかと聞かれたら、元気じゃないですね」

「だよね~。丸本くんのことも聞いたよ。心配だね」

「そうですね……、復帰するには時間がかかるかもしれないです」

「うん。じっくり回復を待つしかないね。それでね、今日電話したのは、國井さんから連絡があったからなの」

「國井さんから、ですか?」

耳を澄ましている藤嶋、桃井、森村が一斉にこちらに視線を向けた。

「そう。宗方くんから成田の現状をヒアリングして、って言われて」

「ヒアリング?」

「そう。こないだの合同会議で浜島さんから成田の輸出の労働環境がひどいことになってるっていう『告発』っていうとなんだか仰々しいけど……、まあ、情報共有があったみたいなの。私の上司が出席してたんだけどね」

おそらく、あのときのことだ。課長との面談を終えて、桃井や森村と一緒に丸本の私物を総務に届けた日。

「でね、私の上司がえらくショックを受けたらしくて、戻ってきてから國井さんに連絡したの。國井さんって昔関空に居たから上司と懇意でね、状況を聞こうとしたんだって。それで國井さん、宗方くんにヒアリングしようとしたけど、どうやら宗方くんに自分は嫌われてるようだから以前成田に居たこともあって一緒に仕事もしていた楠木さんから聞いてもらった方がいい、って私の上司に言ったらしいのね。ってことで私が今電話してるってわけなの」

國井さんがそんな風に思っていたことを知って、ちょっと胸が痛んだ。

「なるほど、なんで今日國井さんから話しかけられたのか不思議だったんですけど、事情がわかりました」

「あ、國井さんが宗方くんに話しかけたのって今日のことだったんだ? ということは國井さん結構急いでうちの上司に連絡してきてくれたんだね」

あの國井さんがそんなに迅速に動いてくれるとは予想外だったが、いずれにしても心配をしてくれているのはありがたい。楠木さんが続ける。

「まあ、そういうことだから今の状況を教えてもらえるかな? 稼働がどのくらい足りてないのかとか、残業とか」

「わかりました」

現在の状況について、手元のシフト表を見ながら説明する。旅客便の担当だけでは手が回らず、貨物便や積み付け計画担当、外航便担当の先輩たちが常に業務を掛け持ちしていること。先日の新入社員教育が失敗してから、皆ほとんど休めていないこと。体調を崩しているのは丸本や浜島さんだけではないこと。それから、

「休憩がきちんと取れなくて、食事する時間がないのも、キツいです」

「ああ、それも聞いた。コーンスープを飲んでるって。あんまりだよね。こないだ事務所に行ったとき、もっとたくさんお土産持っていけばよかったなって思ったよ」

「ああ……、でもあのころはまだ今ほどじゃなかったんで」

「そっか。あのとき私の上司がね、國井さんがあのお菓子好きだからって言って、事務所の皆に渡すのとは別で多めに持たされちゃって。一応その分は國井さんにお渡ししたんだけど、内緒で皆に渡せばよかったね」

「あー……そう、ですね」

いつだったか桃井が國井さんから強奪したお菓子はそれだったのかもしれない。

「それにしても、今聞かせてもらった話。ちょっと信じられないひどさだけど佐原さんの報告書通り、ってことよね」

「報告書?」

「そう。さっき話した会議、私の上司が出席したって言った会議のことだけど、その場で各空港の人員計画と進捗の報告があったみたいで、佐原さんの報告でかなりざわついたみたいなの。今、宗方くんから聞いた内容と同じなんだけど。にわかに信じられないって空気になってたところで、成田空港事業本部長の東田さんが『大げさだ、誇張が過ぎる』って笑いながら冗談めかそうとしたらしいのね。それで浜島さんが『ちょっと待ってください』ってカットインしたみたいよ」

いつだったか悄然とした様子で報告書を作成していた佐原さんの姿と、会議室の前で聞いた浜島さんの声が頭に浮かんだ。

「なるほど、そうだったんですね」

「佐原さんも勇気あるよね~。一矢報いた感じがする。かっこいいな、佐原さんも浜島さんも。二人のおかげで他の空港に現状が知れ渡ったからね。私たち、よその空港がどのくらい忙しいかとか全然知らないじゃない?」

「確かに、成田は同じ空港にいる輸入課ですら、輸出課が忙しいことに最近まで気づいてなかったですからね」

「そうなんだよ~。やっぱり伝えようとしなきゃ伝わらないってことよね」

「まあ、俺たちも関空のことよく知らないですし、お互い様ですけどね」

「うん。お互いもっと横のつながりができるといいよね。人材交流とか。いずれにしても状況がよくわかったよ。ありがとね」

「はい、気にかけてもらってありがとうございます」

「宗方くんも体に気を付けて。皆にもよろしく。そっちに出張するときはまた事務所に顔出すね。お土産たくさん持って行くから!」

「楽しみにしてます」

俺が受話器を置くのとほぼ同時に

「何の話?」

と桃井が鋭い視線を送ってくる。言葉は発さないものの、藤嶋や森村も顔をこちらに向けていた。

「関空でも話題になってるらしいよ、ここの悲惨な状況」

俺はそれだけ言って目の前の業務に戻った。桃井は大きなため息を吐くと

「やっぱ成田がおかしな状況だったってことだよね。あたしたち、入社してずっとここに居るから、てっきりこれが普通なのかと思ってたけど、騙されてた気分」

と大きめの声で言った。誰かに聞かせるかのように。

「声を上げてくれた人が居たから、他の空港にも現状が伝わったってことですよね。私は、佐原さんや浜島さんに感謝したいです」

藤嶋が言う。森村がなにか言おうとしたとき、廊下から強い風が吹いてきた。自動ドアが開いたらしい。外の雨風の音が一層大きく聞こえた。誰かが事務所に入ってきたのかと入り口の方を見ているとスーツ姿の男性が近づいてくる。

「森村くん、ちょっといいか?」

めずらしく事務所に姿を現したのは課長だった。

「あ、えと、まだ〆の作業があるんですけど」

困った様子の森村だったが、課長は俺の方を向いて

「宗方くん、あと引き継いでもらっていいかな」

一方的にそう言うと、森村を連れて廊下の奥へと去って行った。森村は戸惑いながら

「宗方さん、すみません」

と頭を下げていた。

「なんだろうね。普段は佐原さんに任せっきりで滅多に事務所に来ない課長が、森村になんの用事だろ」

桃井はそう言いつつ手を止めてしばらく廊下の方を見ている。

「宗方さん。森村くんの分、私一便もらいますね」

藤嶋は森村が残していった書類を手に席に戻る。桃井もやや不服そうだったが

「宗方さんが倒れたら完全に終わるからね」

と一便分の書類をかき集めて自分の席に持ち去る。

「二人ともありがとな。それにしてもなんだろうな、森村、なんかあったのかな」

課長と森村が外に出るためにまた自動ドアを開けたようで、さっきよりもすごい勢いの風が廊下の奥から事務所の中まで入ってきて、机の上の書類が宙を舞った。


 翌日、台風一過の澄み切った青空が広がる中、駅から事務所に向かって歩いていると、横断歩道で信号待ちをしている森村を見つけた。

「お疲れ。今日はあっついな」

森村は俯いていた顔を上げると、

「あ、宗方さん。お疲れさまです。暑いですね。もう梅雨明けかな」

と空を仰いだ。

「昨日、課長に呼ばれてたの、あれなんだった? なんかあった?」

「あー……。いや、なんでもないです。最近元気か? みたいな。新人で残ったの俺だけですし、気にしてるみたいですね」

「そっか、課長も気にかけてるんだな。そりゃそうだよな。せっかく入った新人が次々に辞めていってるんだから」

信号が青に変わる。俺たちは横断歩道をわたり事務所に向かう。

「そうですね、俺も先のことはわからないですけど……」

そう話す声が、いつもの森村からは考えられないほど弱々しかった。

「どうしたんだよ、やっぱなんかあった?」

「いえ、ほんとなんでもないんです。すみません。ところで、宗方さんが本体に戻るって聞きました」

「え? あ、まあ、そうだな、戻ることになった」

「寂しくなりますね、戻ったら。勤務は都内ですか?」

「うん、本社のビルだから」

「そっか、送別会やりましょうね。皆でなんとか、予定合わせて」

「いや、そんな悪いよ、皆ギリギリでやってんだから。でも気持ちは嬉しい。……ありがとな」

森村と会話しながらだと、いつもは随分と長く感じられる駅からの道のりがあっという間だった。制服に着替えた後、事務所に降りると、香水の匂いがした。

「浜島さん! もう体調大丈夫なんですか?」

速足で責任者席に向かう。浜島さんは手元の書類から顔を上げてゆっくりこちらを振り向く。

「あ、宗方くん。久しぶり。いや、全然大丈夫じゃないよ」

そう言いながら人差し指を曲げてメガネをくいっと上げる。いつも思っていたことだが、浜島さんはメガネの幅が顔に合っていないようで、下を向いて作業した後、いつもメガネが鼻筋の中ほどまで下がっている。キューティクルに元気がなくなったように見える髪は結い上げられていた。

「え……、大丈夫じゃないんですか?」

「うん、大丈夫じゃないけど溜まってた有休も全部無くなったからこれ以上は欠勤扱いになるらしくて、欠勤が続いたらクビだよ、って言われたから来てるの」

早口でそう言った後、さらに

「ちなみに課長にそう言われたんだけど、あの操り人形にそう言えって吹き込んでるのは事業本部長みたい」

と続ける。ロボットみたいな口調なのに怒りが滲み出ていて怖い。なんと返せばいいのか困惑していると

「まあとりあえず、今日も乗り切りましょう。よろしくね」

そう言って浜島さんは書類に視線を戻した。

「はい」

とだけ返事を返して便担当の島に向かう。久しぶりにこの席に座っている水瀬さんと目が合った。浜島さんとの会話が聞こえていたようで、

「課長ってほんと最悪だな。ほとんど事務所に来ないし、居る意味あんのかな」

と話しかけてくる。同意しかない。

「佐原さんの方が課長にふさわしいですね」

今日は出張らしく課長代理の席に佐原さんの姿はない。最近少しだけやつれたような気がするが、それでも疲れた様子は一切見せずに飄々と毎日働いている。強い人だ。水瀬さんも佐原さんの席を見ながら話を続ける。

「でも佐原さんはあれ以上、上にはいけないからね。ほんとどうかしてるよ、この会社。『人財の財は財産の財です』とか言ってさ。知ってる? うちの会社の採用ページに佐原さんの写真が載ってるの。女性管理職が活躍する会社、とかなんとか書いてあるんだけど、実際には面倒なことを全部佐原さんに押し付けて、それにもかかわらず課長には絶対昇進させないんだから詐欺広告みたいなもんだよ、あんなの」

めずらしく怒ったような声の水瀬さんは、話しながら高速で電卓を叩いて、計算結果をシートに記入していく。俺はウェブブラウザを立ち上げると、水瀬さんが言っている採用ページを検索して開いた。確かに佐原さんの写真と、短いインタビューのようなものが掲載されている。ただその内容はおおよそ佐原さんの言葉とは思えず、誰かが会社に都合のいい『女性管理職像』を作り上げて書いたものに読めた。どうしてこういうところに現場の声や状況が届かないのだろう、と歯がゆさを覚えつつサイトを見ていると、ふと気づいた。考えてみたら俺はこの会社の採用ページを見たことがない。そもそも会社のウェブサイトすら見たことがなかった。この職場で働く一員として皆の仲間になった気でいたが、結局俺は親会社からの出向者という意識がどこかにあって、今の状況を他人事に思っているのかもしれない、という思いがよぎった。

「宗方くんはさ」

名前を呼ばれたので反射的に隣に座る水瀬さんの方を向いた。横顔の目鼻立ちがくっきりしたように見える。痩せたのかもしれないが、やつれたというよりは精悍な雰囲気になったように感じて、いつの間にか少年っぽさが薄れていた。

「本体に戻っても現場の気持ち忘れないでくれよな」

本体に戻ることは、俺からはまだ水瀬さんにしか話していない。徹夜明けのあの朝、日の出を見ながら伝えたとき、水瀬さんはかなりショックを受けていたように見えた。

「当たり前じゃないですか、ていうか、なんか寂しくなるからそういうこと言うのやめてくださいよ」

少し無理をして笑いながらそう返すと、水瀬さんもぎこちなく笑顔を作る。

「そうだな、まあ、宗方くんなら大丈夫か」

いつもの調子で言うと席を立ち上がり、俺の肩をパンパンと叩いたあとヘルメットを持って危険物チェックのために上屋へ向かった。


 IAD(ワシントンD.C)が無事に飛び立って行ったあと、引き続きORD(シカゴ)の作業を行っていると、藤嶋が書類を片手に席にやってきた。

「これ、エンバーゴだと思うんですけど」

藤嶋が持つ書類には毒物の記載がされている。

「確かに分類6だけど、区分が6.2だから大丈夫だよ」

そう言いながら、俺は自分のノートに貼り付けていたエンバーゴ一覧表のコピーを見せる。

「あ、ほんとだ。毒物は全部だめだって認識でいました。じゃあ搭載大丈夫ですね、ありがとうございました」

「いや、こちらこそ確認してくれてありがとう」

藤嶋が俺の担当便のエンバーゴのことまで気にしてくれるようになったことに、我ながら偉そうだと思うが感心してしまった。それと同時に、自分が去ったあと、藤嶋や森村たちはどんどん成長していって、俺の知識や経験なんて比べ物にならない航空貨物のプロフェッショナルになっていくのだと思うと、寂しくもあり、少しうらやましくもあった。

「お疲れさまでーす」

外出していた桃井がだるそうに俺の左隣の席につく。辺りを警戒するようにきょろきょろしたあと、小声で話しかけてきた。

「宗方さん、さっきあたし丸本の家にお見舞い行ってきたんだけどさ。お見舞いっていうか偵察っていうか」

桃井が課長代理の席を指差す。どうやら佐原さんの指示らしい。

「そうなんだ、お疲れ。どうだった? 丸本の様子は」

「まだ瘦せてて昔に比べると別人みたいだけど、会話とかは普通。冗談も言うし、四六時中落ち込んでるような感じじゃないみたい」

「それはよかった。回復してるみたいなら」

桃井がうんうんうんと頷く。

「でね、あたしたち勘違いしてたみたい」

「勘違い?」

「そう、あの、これ丸本にはさ、内緒にしといてって言われたんだけど、いやいや、それ内緒にしちゃだめだろって思うから、こうやって今宗方さんに話してんだけどさ」

小声の理由はこれか、と気づいた。桃井が続ける。

「丸本さ、誰のかわからない、人の弁当食べてたんだって。仕事忙しくなって疲れちゃって自分で弁当作って持ってこなくなってから、駐車場のコンビニの弁当食べてたけど、まずいから食べたくなくなって、それである日、冷蔵庫にコンビニ弁当じゃない、さつき亭の弁当が入ってて、つい勝手に食べちゃってたらしくて。その後は、見つけるたびに食べてたって。でも丸本はその弁当盗ったこと全然悪いと思ってなくて、國井さんのだからいいでしょって言うの。あの人仕事してないし楽してるんだから、弁当くらい食べられて当然だって」

「えー……? まじ?」

「そう、で、なんで國井さんの弁当だってわかったの? って聞いたら、國井さんがさつき亭のロゴが入った紙袋持ち歩いてるのを見たことあるからだって言うわけ。でもさ、よくよく考えてみたらさ、普通弁当食べたら空き箱と一緒に袋捨てるじゃん。なのに鞄と一緒に持ち歩くとか変じゃない?」

「んー、まあ確かに」

「だからそう言ったわけ、ふつう袋捨てるでしょ、って。そしたら丸本、僕は紙袋とかレジ袋は再利用するけど、桃井はエコじゃないね、だって。いやいや、弁当の袋再利用するかよって思ってさ、ハイブランドの紙袋じゃあるまいしさ」

「まあ、俺も基本捨てるな」

「でしょ? で、あたしさっき駅から歩いてくる途中、ピンとひらめいたわけ」

「なにを?」

「丸本のロッカーの荷物、総務部に持って行ったときのこと覚えてる? あの時さ、私物が入った段ボールに黄色いレジ袋が丸まっていくつも入ってたんだよね。あのとき気づかなかったんだけど、あれさ、さつき亭のレジ袋じゃない?」

確かにレジ袋のような丸い塊が入っていた気がする。

「つまり桃井が言いたいのは、丸本が俺の弁当食べてたってこと?」

「そういうこと!」

「じゃあ、なんで國井さんはさつき亭の紙袋持ち歩いてるんだ?」

「知らないよ、デザインがお気に入りなんじゃないの?」

「あ」

「なに? 宗方さんもなんか気づいた?」

「俺、そもそもさつき亭の弁当買うとき、紙袋だったことなかったってこと思い出した。いつもはプラスチックのレジ袋なんだけど、水瀬さんと森村の分買ったら、紙袋に入れてくれたんだよ、確か」

「買った個数で袋が変わるシステムってこと?」

「多分、そうなんじゃないか……?」

「ちょっと待って」

桃井はスマホを取り出すと、廊下の方へ走っていく。数分と経たないうちに入って戻ってきた。

「別に一個でも希望すれば紙袋に入れてくれるらしいよ。複数個の場合は紙袋のほうが重ねたとき安定するから紙袋に入れるんだって」

「もしかして店に電話して聞いたの?」

「うん、もやもやするから。店員さんがわざわざ電話してまでこんなこと聞いてきたの初めてって言ってた」

「行動力あるな、桃井」

「とにかくこれでわかったのは、丸本は盗んだ弁当のレジ袋を自分のロッカーに溜めてた、國井さんが持ってたのはプラスチックのレジ袋じゃなくて紙袋、宗方さんの弁当はいつも紙袋には入ってなくてレジ袋に入ってた、ってこと。あたしの推理だと、多分國井さんはあの日朝出勤してきて、休憩室の冷蔵庫に自分の弁当を入れたんだと思うわけ。そのあと休憩のときに食べようと思って冷蔵庫を開けると、朝に一個入れていたはずの弁当が昼には三個になってたの。昼前に出勤してきた宗方さんが冷蔵庫に入れたから。だから國井さんは混乱した。あの日はあたしも丸本も午前シフトで朝六時から働いてたけど、疲れてる丸本がかわいそうで丸本のトレーニーの面倒見ててあげるから休憩行ってきなよ、って言って先に休憩行かせたのね。宗方さんが出勤してくる前。だから丸本はそのとき國井さんの弁当を食べたんだと思う。まあでもそんなややこしいこと抜きにしても丸本の話からすると、宗方さんの弁当を食べてたのは丸本、ってことで間違いないと思う」

「なんてこった」

「ってことは、國井さんに無実の罪を着せてたってことじゃん。ほんとバカだよ、あたしたち。ちょっと國井さんに謝ってくる」

そう言うと桃井は立ち上がる。いつだってまっすぐで感情先行型なのが桃井だ。

「桃井、ちょっと待って。じゃあなんで俺たちそもそも國井さんが犯人だと思ったんだ?」

立ち上がった桃井が、首を傾げながらストンと椅子に座る。

「なんでだっけ?」

二人して黙り込んでしまった。もう遠い昔のことのようでよく思い出せない。しばらく沈黙していると、モニタの向こう、向かい側の席から声が聞こえた。

「それは、俺が國井さんがさつき亭の袋持ってたって、言ったからですね」

俺と桃井がそっとモニタから顔を出して覗くと、森村が息を殺して、一点を見つめて静かに涙を流していた。桃井が飛びあがって森村の横に膝をつき、ハンカチを取り出した。

「え! ちょっと森村、なに、そんなに? え? 泣くことなくない? え? 責任感? 罪悪感?」

桃井が俺と森村を交互に見ながら慌てている。

「國井さんにも迷惑かけちゃって、俺のせいですね。もう、俺なんてクビになっちゃえばいいんですよ……」

森村は制服の袖で目元をぐいっと拭って、俯きながら速足で廊下の奥へ歩いて行った。

「え、まじでなに? どうしたの森村?」

呆気に取られている桃井と俺に、

「二人ともさっきからコソコソずっと喋ってるけど、作業進んでるの?」

生気のない声で浜島さんが注意した。


 今日のすべての便が飛び立ち、俺はコーンスープを飲みながら黙々と作業をしていた。森村はあのあとしばらくして水瀬さんに連れられ戻ってきた。危険物チェックで上屋に出ていた水瀬さんが外に居た森村を見つけ、作業を一時中断して付き添っていたようだ。結局國井さんに謝るタイミングを逃したまま夜になってしまって、すでに國井さんのパソコンは電源が切られ本人の姿もない。なんとも言えない居心地の悪さが漂っていた。それは早く謝ってしまいたいのに本人がその場に居ないという焦りと罪悪感が混じり合ったものが原因で、おそらく桃井も森村も、そして森村から事情を聞いたらしい水瀬さんも同じ感情を共有していた。

「森村くん、やり直し」

力のない声で言うと浜島さんはフライトレコードを森村の机に置いた。森村は申し訳なさそうに頭を下げながら修正箇所を確認している。浜島さんはため息をついて口を開く。

「ねえ、なんか皆どうしたの、今日。どんよりしちゃって」

蛍光マーカーのキャップを付けたり外したりしながら俺たちの周囲を歩いている。

「どんよりしてるのは、いつものことじゃないですか」

桃井がだるそうに返事をした。

「まあそうだけど、いつもはどんよりしつつも、騒がしいというか、うるさいというか、不満たらたらって感じなのに、今日はすっかり落ち込んじゃってる感じ。病み上がりの私ですらこんなにぺらぺら喋ってるのに」

「まあ、皆疲れてるんですよ」

俺が言うと、浜島さんは納得したのかしていないのかわからないような

「そうね」

という言葉を発して責任者席に戻る。森村がフライトレコードを閉じて

「俺、もう辞めます、この仕事」

と言った。

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