7 ランボルギーニ

 梅雨の中休み、雨が降らない代わりに大気中の湿度は百パーセント、といった感じの蒸し暑さのある日、やっとすべてのトレーニーたちが独り立ちをした。と言っても、ほとんどが脱落してしまったので、すでに独り立ちしていた森村に加えて、黄さんが試験に合格したことで、今回の新人教育は終了となった。相田も休みがちになって、先週正式に内定辞退をした。もともと専門学校に籍を置いてのインターンシップのようなものだったので、次は相田に合う職場に巡り会えるとよいなと思う。いずれにしても教育に割かれる人員が居なくなることと、黄さんが独り立ちしたことで、少し稼働は増えるし一人ひとりの仕事も軽くなるだろうと誰もが思っていたのだが、待ってましたとばかりに物量が増えた。会社としては織り込み済みだったのだろうが、現場の落胆は計り知れない。むしろ新人が二人しか残らなかったのは想定外で、貨物の量に比べると人員的には以前にも増して厳しい状況だった。しかも丸本がうつ病で長期療養に入ってしまったため、全体の戦力としては低下してしまった。

「丸本さん、今とは別人みたいですね」

森村がのぞき込む桃井の携帯には、入社して間もないころ同期全員で撮った写真が表示されている。次から次へと離脱していき、今では桃井と俺しか残っていない。

「ガリガリに痩せちゃったからね。丸本はいつもにこにこしてたけど、心の中で誰にも言えないプレッシャー抱えてたのかも。あたしも余裕なくて気づいてあげられなかったな」

ため息を吐くと、桃井は携帯を制服のポケットにしまって、担当便の業務を開始した。今日は森村、桃井、俺が午前のシフトで入っている。

「十人中、独り立ちまで残ったのが二人っていうのは厳しいねえ」

課長代理の席に座る佐原さんが他人事のようにつぶやきながら、報告書をまとめていた。事業本部長に詰められるのは目に見えているので、ここのところずっと浮かない顔をしている。それでも俺たちインストラクターが佐原さんに責められたことは一度もない。現場に居る人は毎日嫌でも現実を目の当たりにするので、責めたところで新たな欠員が出るだけだとわかっているからだ。

「あたしたちだけでも残れるように頑張らないとね、宗方さん」

寂しそうに微笑む桃井にそう言われて、胸を強くぶたれたような衝撃を覚えた。

「そうだな、なんとか乗り越えよう。桃井も無理すんなよな」

「あたしはいつでも好き勝手泣いたり怒ったりしてるから大丈夫だよ」

桃井はまだ、脱毛部分を隠したヘアスタイルを続けている。山近さんにヘアスタイルの相談にのってもらってなるべく目立たないようになったらしい。その山近さんは今日も受付で貨物の搬入処理をひたすら行っていた。

AWBを取りに受付に行くと、俺に気づいた山近さんが手招きする。

「ねえねえ、今日すごい車が来てるらしいよ、ほら、あそこ」

自動ドアの先、事務所の目の前の道を隔てた向こう側、上屋の大きくせり出した屋根の下に、濃いシルバーの車が止まっている。

「ちょっとだけ見に行こっか!」

山近さんはそう言うと、事務所の奥に小走りで向かい、桃井と森村を呼んできた。

「ほら、急いで急いで」

山近さんから両手で背中を押されてのけ反るようになりながら、事務所を飛び出す。トラックが来ていないことを確かめて道をわたると、鉛色に鈍く光る、のっぺりとした車の前に立った。山近さんがにやりとして言う。

「これ、一億五千万円するんだって」

「一億五千万!?」

三人の声がハモって上屋に大きく響く。中で作業していたアウトサイドの人が「あいつらもか」といった感じで微笑んでいる。きっと今日、この車はすでに何人もの見物客を迎えたあとなのだろう。

「ランボルギーニ、って車らしいけど、知ってる?」

山近さんの問いに対する俺たちの答えは「名前は聞いたことあるかも」くらいだった。山近さんは書類を手に持ち、難しそうな顔で見ている。

「それってカルネですか?」

森村が興味深そうに訊く。

「そうだよ。森村っち、よく覚えてるじゃん。えらいえらい」

まるで幼稚園児を褒めているようだったが、山近さんだと嫌な感じはしない。森村も少し得意げに笑っている。

「これ、たまにしかこないからさ、処理の仕方忘れちゃうんだよね」

カルネは『物品の一時輸入のための通関手帳に関する通関条約』に基づく書類のことで、展示会への出品などで一時的に国内に入れる際、通関や課税なしに輸出入通関するためのものだ。俺も実際にカルネを見るのは初めてだった。

「今日の受付が山近さんじゃなかったら誰も対応できなかったんじゃないですか?」

桃井が言うと、山近さんは少し考えて

「まあ、最終的には佐原さんが居るから大丈夫だよ」

と笑った。佐原さんはこの職場の生き字引なのだ。

「それにしても、一億五千万円もする車をこんなところに置いといていいんですかね」

森村が怪訝そうにつぶやく。確かに周囲に警備員らしき人影もないし、屋根があるとはいえ、砂埃混じりの風が吹く中、こんな管理でいいのかと心許ない。

「トラックの運転手が野次馬になる前にどこかに移動させた方がよさそうだけど、まあ、その辺はフォワーダーとうまいこと調整してるんじゃない? さ、仕事もどろ」

そう言って桃井は振り返ると速足で事務所に戻る。気晴らしに誘ってくれた山近さんにお礼を言うと、俺と森村も事務所に向かう。その途中、社内報の原稿執筆をずっと催促され続けていたことを思い出した。すでに破綻してしまった新人育成についてはこれ以上書きようがない。

「ごめん森村、お願いがあるんだけど、写真に撮られてくれない?」

「え、俺の写真ですか?」

森村を連れて、車体の写真を撮る山近さんのところに戻る。

「山近さん、搬入記録用の写真撮り終ったら、カメラ貸してもらってもいいですか?」

「え、いいけど、なに撮るの?」

「本体の広報部から新人レポート記事書けってうるさく言われてるんですけど、もう育成レポートも書けない状況なんで、森村とランボルギーニの写真を撮らせてもらって、それで楽しそうに勤務してます感を出せないかなーと思って」

森村に手を合わせて頭を下げる。

「頼む、森村しか頼める人がいないんだ。頼む、助けて」

「いや、おおげさですね。別にいいですよ写真くらい」

「まじで? さすが森村~。素晴らしい後輩」

森村は見た目がいいので写真映えもしそうだ。これで広報部の矢の催促から解放されると思うと心が軽くなった。第一あの人達は現場のことを知らなすぎる。自分たちが現場に来て取材することもなく記事だけ寄越せなんて言っても、そうやって作った社内報に読者を引きつける魅力が出せるだろうか。

 山近さんが細部を念入りに撮影している間、離れた場所で柱に寄りかかって待っていると、一台の社用車が駐車場に停まった。中からスーツ姿の数人が降りてくる。その中に事業本部長の姿もあった。

「あれ、なんかこっち来てますね、あの人たち」

気づいた森村が顎で指す。スーツ姿の人に話しかけられた山近さんが二言三言会話をして、こちらに来る。

「なんか事業本部長がランボルギーニ見に来たんだって。撮影してたのに中断させられて困るよ」

そのとき、貨物搬入トラックのトライバーが書類を片手に事務所に入っていくのが見えた。

「あ、ごめん晋ちゃん、カメラ預けるから、森村っちの写真撮るついでに、最後ランボルギーニの引きの画だけ記録残しておいてくれる?」

そう言うと、近くの柱の出っ張りにカメラを置いて、事務所に向かって走って行った。ランボルギーニの周りでは事業本部長とその取り巻きが談笑している。しばらく続きそうなので、なんとなく森村と雑談を始めた。

「森村って、今いくつだっけ」

「二十歳です」

「若いな~、そんなに若いのにこうやって働いてるの、ほんと尊敬するよ」

「まあ……、空港好きなんで。飛行機好きだし。こうやって空港の敷地に居るだけで安心するっていうか、満足するんで。別に偉くないですよ」

「いやいや、偉いよ。でも好きなこと仕事にできるのはうらやましいな」

「宗方さんは、この仕事好きじゃないですか?」

「うーん……、好きではないかな。得意じゃないっていうか。ただここで働いてる人たちは好きだけど」

「ああ、それなんかわかります。仕事キツいけど、人のつながりでカバーできてる部分ありますね」

バタンッと車のドアが閉まる音がした。駐車場から車が去っていく。いつの間にかランボルギーニ見学会は終わったようだ。意外に早く帰ってくれて助かった。事業本部長と取り巻きたちがいなくなったあと、森村にランボルギーニの近くに立ってもらった。

「なんか、緊張しますね、一億五千万円の車って。あんま近づかないでおこうっと」

森村が一歩、二歩と車から離れたので、俺も少し後ろに下がって森村が見切れないようにする。

「はい、んじゃ撮るよ……、ってあれこれ動画になってんじゃん」

山近さんがカメラを置くときに慌ててボタンを押したのか、録画画面になっている。録画を止めて、写真モードに切り替えると、もう一度森村にカメラを向けた。画面に写る森村は、やはりどこからどうみても高校生くらいにしか見えず、少しこわばった笑顔が、いっそう幼さを際立たせていた。


 写真を撮り終えると走って事務所に戻る。今日の俺の担当便は、PEK(北京)、BKK(バンコク)、HGH(杭州)に加えてCDG(パリ=シャルル・ド・ゴール)で、貨物もフル搭載なので気が抜けない。業務を始めると皆無言になり、無線と電話の音だけがけたたましく鳴り響いていた。

「森村くん、NOTOCの個数、違うよ、作り直し」

「桃井さん、上海の積み付け終わってるんじゃない? 先に終わらせちゃって」

「宗方くん、パリの朝搬入インタクトのトラック、今受付に到着したから」

今日も責任者席には浜島さんが座り、メガネの奥から鋭く目を光らせてトラブルの芽を摘みまくっている。いつもと違って制服ではなくスーツを着ていて、長い髪も首の少し上くらいの低い位置でまとめられている。

「今日、なにかあるんですか?」

北京の出発準備完了をホワイトボードに記入しながら、責任者席の浜島さんに訊ねると、手元の書類から顔を上げてこちらを向く。

「今日は羽田や関空のスタッフも来る会議があって、佐原さんと一緒に出るの」

小さくため息をついて、人差し指でメガネをくいっと持ち上げた。

「もちろんこの業務の後、残業でだけどね」

書類に目を戻す。なんと声をかけていいかわからなかったが「大変ですね」とだけ返すと「皆も大変でしょ」と力のない笑顔が返ってきた。

 通常通り、それぞれの担当便でいくつかのトラブルが起きて精神力がすり減ったものの、なんとか全便出発までこぎつけることができた。以前であればトラブルで泣いていただろう桃井も、今はモニタを見下すように顎を上げて淡々と〆作業を行っている。壁の時計を見れば既に正午を過ぎていた。俺は午後一時から管理職との面談があるので、それまでにはすべてを終わらせなくてはならない。午後便の担当者に座っていた席を譲って、いつもの事務所の端の島へ移動する。國井さんは今日もインターネットを楽しんでいるのか、それとも寝ているのかわからないが置物のように微動だにしない。最近は弁当を盗まれることがなくなったので、やはり國井さんが犯人だったのではと思っている。

「よっこいしょっと」

そう言ってドスンと〆関連の書類を置く桃井に続いて、森村も書類一式を両手に抱えてやって来る。書類を机に置くと制服のポケットから財布を取り出した。

「コーンスープ買ってこよっと。お二人のも買ってきましょうか?」

森村が小銭を確かめながら訊ねる。

「あーじゃあお願い、はいお金。お釣りはお小遣いね」

桃井が机の上で百円玉を滑らせる。

「じゃあ、俺も頼む。お釣り要らない。ありがとな」

俺の百円玉も受け取ると、森村は小さく頷き小走りで自販機の方へ向かった。もう梅雨も半ばを過ぎたというのに、ここの自販機にはあたたかいコーンスープが残っている。春先に一度無くなったときにはちょっとしたパニックが起きたくらい、コーンスープは俺たちの心身を支えていたのだった。

「はいどうぞ」

紙コップと一緒に、百円玉が戻ってきた。

「あれ? なんで?」

森村から受け取ったスープをフーフーと冷ましながら、桃井が訊ねる。

「俺の前にコーヒー買ってた浜島さんが、おごってくれました。三人分」

森村は屈託のない笑顔でそう言いながらスープを飲むと「五臓六腑に染み渡りますね」と大げさに言う。一時期俺が言ってたことの受け売りだ。

「浜島さんやさしい~」

桃井が浜島さんの方を見ながら拝むようなポーズをする。俺もスープを口に運びながら、後ろを振り向き向こうの方に居る浜島さんに目をやった。手元の書類を指差しつつ、佐原さんと立ち話していた。

「浜島さんも大変だよな。佐原さんも」

そう言う俺に森村が「そうですね」と同意した。桃井は眉根を寄せながら

「佐原さんも飄々としてるけど、大変だよね、課長代理で。所詮、課長は本体からの出向者で現場のことはわからないお飾りだし」

そこまで言って、はっとしたように

「ごめん、宗方さん」

と言う。

「いや、気にしなくていいよ。事実だと思うし」

そう俺が返すと

「宗方さんは別だから。あたしたちの同期だし、仲間だから」

桃井は念押しするようにまっすぐに目を見て言ってきた。ありがたいと思う反面、胸が痛むのも感じた。

「宗方さんは、出向者?」

インターネット中の國井さんが会話に入ってきた。いつも微動だにしないので、俺たちの会話は聞こえていないと思っていたが、この至近距離では当然聞こえていたようだ。

「はい、そうです」

「そうか、そりゃご苦労さんですね」

それだけ言うと、また國井さんはインターネットの世界に戻り、会話は終わった。


 〆の作業を終わらせて事務所から歩くこと十数分、管理部門が入居しているビルに到着した。エレベーターで上階に昇り、フロアの半分を占める管理部門の部屋に入ると、現場とは違って落ち着いた雰囲気が漂う。制服姿の俺に気づいた女性が

「あら、ご用ですか?」

と用件を訊いてくれた。面談のために来たことを伝えると、廊下を隔てた場所にある小綺麗な会議室へと案内してくれた。ブラインドの隙間から光が差し込み、照らされた空気中の埃が舞っているのを眺めていると、ドアがノックされ、まもなく課長が入室してきた。立ち上がろうとすると、そのままでいいと促され、奥の椅子に回り込んだ課長も腰かける。

「帰任の日付が決まったよ。ご苦労様だったね」

胸の痛みはますます大きくなった。

 

 面談を終えて、西日が差す廊下を歩いていると、エレベーターから降りてくる二人の姿があった。森村が両手に二つ段ボールを抱えて、その横で桃井がきょろきょろしている。

「あ、宗方さんだ」

こちらに気づいた桃井が近づいてきた。

「なにやってんの?」

訊ねてくる桃井への返事は保留にして、とりあえず森村が持つ段ボールを一つ受け取る。

「ありがとうございます」

森村は小さな頭をぺこりと下げた。

「俺は課長と面談があったんだよ」

振り返って桃井に伝えると、

「へえ、珍しいね。あたし課長とは年に一回も話すことないよ」

と言いつつ、空いている会議室を覗いたりしている。

「桃井と森村こそ、どうした?」

そう訊ねたものの、自分が持っている段ボールを見て、用件を察した。

「丸本さんの荷物を総務に持ってきたんです」

森村は俺の質問に答えたあと、総務の担当者を探して部屋に入っていく。俺もそれに続き、桃井も後ろをついてきた。なんとなく居心地の悪さを感じながら、入り口付近の壁にもたれかかって森村を待っていると、桃井がやや大きな声で話しだした。まるで誰かに聞かせるように。

「ここの人たちもあたしたちと同じ会社の社員なのに、毎日日勤で働いて、昼ご飯食べて、少しは残業するかもしれないけど、平和に暮らしてるんだねえ」

聞こえているのかいないのかわからないが、こちらを見向く者はいなかった。向こうの方で総務の同僚と会話をしていた森村がこちらを見て手招きする。

「とりあえずここに置いといていいらしいです」

森村に指定された壁際の棚の前に段ボールを置くと、総務の女性が「念のため」と言って中身をあらためていた。ノートや歯ブラシ、デオドラントスプレー、安全靴などを保管用の箱に入れながら、古い社内報や、要らなそうなプリント、丸まったレジ袋などは処分用のゴミ箱に放り込んでいく。事務所に持って帰らないといけなさそうな備品などはなさそうだったので、あとのことは総務に任せて俺たちは部屋を出た。エレベーターに向かって廊下を歩いていると、口論のような声が聞こえてくる。会議室のドアが少し開いており、そこから漏れてきているようだった。桃井が息をひそめてドアに近づき、耳をそばだてる。注意しようとする森村に「シッ」と人差し指を立てた。

「こんなのが人員計画と言えるんですか! うちの事務所の子たちは食事を取る時間もなく、コーンスープをすすりながらひたすら残業をしているんですよ!」

涙声のそれは、浜島さんの言葉だった。

「この業界に希望を持って、胸を躍らせて入社してきた二十歳そこそこの子たちが、毎日押しつぶされそうになる時間のプレッシャーと業務量の中で、瞳からどんどん光を無くしていくんです!」

耳を澄ましながらぽろぽろと涙を流しはじめた桃井が今にも嗚咽しそうだったので、森村と俺で慌てて腕を引っ張りエレベーターに乗る。運転できそうもない桃井の代わりに俺がハンドルを握って事務所に戻ったときには、すでに上屋の照明が煌々と光っていた。


 次の日の午後、更衣室でネームプレートの外されたロッカーを見ていると、水瀬さんから声をかけられた。

「浜島さん、昨日会議でキレたらしいよ」

「ああ、やっぱりあれ浜島さんの声だったんですね」

「え? 聞いてたの?」

水瀬さんが制服のボタンを留めながらこちらを振り向く。

「昨日偶然、会議室の前を通りかかったんです」

「そっか、成田含む各空港の事業本部長たちの前だったから、結構ヤバい空気になったらしくて、佐原さんがなんとか執り成したみたいだね」

着替え終わった水瀬さんと一緒に事務所に降りる。今日も責任者席には浜島さんが座っていた。

「浜島さん、お疲れさまです」

「ああ、宗方くん。お疲れさま。今日もよろしくね」

いつもと変わらない様子に、少しほっとする。自分の担当する便を確認して作業席に座ると、隣に藤嶋がやってきた。

「あれ、今日藤嶋、午前のシフトじゃなかった?」

藤嶋はこちらを見ると、気まずそうに

「黄さんが内定辞退したいって言ってるらしくて、まだ確定ではなく説得してるみたいですけど、とりあえず今日、私が代わりに入ることになりました」

と言って作業を始める。俺はなんと返していいのかわからなかった。自分の教え方が悪かったのか、または厳しすぎたか、もしかしたらフォローが足りなかったかもしれない、という考えがぐるぐると巡っては、目の前の仕事に集中するよう頭を振った。

 出発便の作業が一段落してきたころ、受付が騒がしくなった。浜島さんと山近さんが、誰かに怒鳴られているような声が聞こえた。

「ランボルギーニ、運ばれてった先で傷が見つかったらしいよ」

受付の様子を見てきた水瀬さんが藤嶋と俺に教えてくれた。どうやら怒鳴り声の主はフォワーダーと荷主のようだった。とはいえ、山近さんは搬入時、念入りに、あらゆる角度から写真を撮って残していたのを俺たちも見ていた。その記録写真をもとに浜島さんが丁寧に説明しているように見える。俺たちが担当する便が出発していくにつれ、無線や電話の音も落ち着き、受付の会話がより事務所の中まで響いてくるようになった。

「だから、あなたみたいな若い女性じゃ話にならないからさ、もっと上の、責任者出してくださいよ!」

はっきりと聞こえてきたその声に、藤嶋がため息を吐く。自分の席で電話をしていた佐原さんが「あ、ちょっとすみませんねえ、かけ直します、はい、はいすみません」と謝りつつ受話器をガチャリと置くと、駆け足で足音を響かせながら受付へ向かう。俺たちを含めて、事務所内のほとんどの人間が佐原さんを目で追っている。佐原さんは山近さんと浜島さんに一声かけると、二人を受付から事務所の中に移動させて、自分ひとり、荷主とフォワーダーの前に立った。

「はい、若くない女性の責任者ですが、ご用件は?」

水瀬さんが眉を上げて大きな目を見開くと、こちらを見てにやりとした。佐原さんが説明した内容は、浜島さんや山近さんが言っていたこととさほど変わらなかったが、その迫力に気圧されたのか「車を引き取った後の対応に問題がなかったかをもう一度調査する」と言って男たちは帰って行った。

「どうせ保険に入ってるんだろうに、細かいやつらだよ」

佐原さんはめずらしくプリプリと怒りながら自分の席に戻って行った。浜島さんは立ち去る佐原さんにお礼を言って、怯えていた山近さんに謝った後、責任者席の目の前まで歩いて、椅子に手を伸ばし、座る直前でその場に倒れた。


 午前四時を過ぎたころ、水瀬さんが数時間座りっぱなしだった責任者席から立ち上がって俺のところに来る。

「宗方くんごめんね、明日、てか今日休みなのに」

次の日の便の準備をする席に一人座る俺に話しかけたあと、申し訳無さそうに壁に掛かる時計を見上げた。

「いや、仕方ないですよ。もう少しで午前便の準備終わります」

「そっか、じゃあそろそろタクシー呼んじゃって。あとは俺がやるからさ」

初めての責任者業務でさすがの水瀬さんも疲れたのか、微笑む顔も青白い。浜島さんが倒れた後、水瀬さんの業務を俺と藤嶋で手分けして受け持ち、水瀬さんが責任者業務を臨時で代行した。貨物便の方も人員不足で切迫している状況で他に代われる先輩もおらず、祖父江さんに次ぐ社歴とはいえ、未経験の業務をいきなりこなすのは水瀬さんもこたえたようだった。

「水瀬さんの方は一段落したんですか?」

責任者席に積み上げられていたフライトレコードがすべて無くなっているのが見えた。

「うん、なんとか。先輩たちにも手を貸してもらったし」

別業務に携わる先輩たちも巻き込んでなんとか今日の仕事は完了することができたが、これを毎日やるとなると、いよいよ長くは持たないだろう。

「ちょっと外の空気でも吸いに行かない?」

水瀬さんの誘いに乗って、事務所の外に出る。頭上はうっすらと曇に覆われているが、地平線の方は白んで、雲の切れ間から強い光が差し込んでいた。湿気を含んだ朝の匂いが、すぐそこまで来ている夏を予感させる。ガードレールに腰かけて日の出を眺めていると、隣の水瀬さんが立ち上がり、両手両足を広げて大きく深呼吸をした。

「ラジオ体操の匂いがするなー」

「ラジオ体操ですか?」

「そう。夏休みにさ、朝っぱらから近所の子供たちが集まって、ラジオ体操してたじゃん、毎日カードにハンコを押してもらってさ」

「ああ、ありましたね、ハンコ」

「あれさあ、毎日必死で早起きして行って、ラジオ体操係? の子の苗字のハンコ押してもらってさ。でも別に何か景品があるわけでもないし、誰がチェックするわけでもないし、意味わかんない制度だよね」

「そう言われたらそうですね、ていうかあのカード、先生に提出してませんでしたっけ?」

「えー、俺はしてなかった気がするけど、してたのかな。忘れちゃったよ」

「でも先生もあのカード回収したところでどうすんだ、って感じはしますけど」

「確かに、先生もあれ提出されても困るよな」

一度白み始めると、あっという間に空は明るくなってきて、自分だけがまだ『昨日』気分でいることに焦り始める。

「てかもう帰らないとやばいな。ごめん宗方くん、引き止めちゃった」

「いや、全然。事務所の中、空気淀んでるから気分転換になりました」

「それならよかったけど。タクシー呼んじゃってよ」

「はい。あと水瀬さん、俺実は」

貨物搬入受付時間外はスイッチを切っている自動ドアを、手動でこじ開ける水瀬さんが振り向いた。

「来月いっぱいで出向元に戻ることになりました」

ドアを開ける手が止まる。

「えー……、まじでー……?」

そう言いながら中に入ろうとした水瀬さんだったが、開けたドアの幅が狭すぎて思い切り頭からぶつかる。ぐわんぐわんとガラスのドアが波打った。

「っ痛え……。えー、てかまじで?」

中途半端に開いた自動ドアの前で、水瀬さんはどうしていいかわからないようだった。

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