5 DIP、VAL、STAND BY

 夕暮れの地平線がぼんやりとオレンジ色を放っている時間帯が好きだ。空が綺麗だから、という理由ではない。ほぼすべての午後便が出発済みだからだ。事務所の雰囲気も一段落した感じがあり、無線のモニタリングに神経を尖らせる必要もない。ただ、今日はそうではなかった。俺は受付担当のシフトに入っていて、無線を手に外を歩いている。上屋の照明が強力に貨物を照らしても、太陽の光には及ばない。太陽の偉大さにしみじみと感謝しながら、上屋の外に張り出した、大きな屋根の下をあちこち見て回っている。

「え? もう持ってったって言ってますけど」

アウトサイドの責任者に聞くと、そう返事が返ってきた。俺はアウトサイドと相性が悪い、というか苦手だ。俺たちインサイドはなにかとアウトサイドに借りを作ることが多く、それは搬入遅れに伴う積み付けの遅延や、書類紛失によるドキュメント搬出の遅れなど、さまざまな理由があるのだが、その都度下手に出ているうちに、上下関係のようなものができ上がってしまった気がする。それが苦手意識に繋がっているのではないか、などと考えながら、貨物の裏を覗いたり、柱と貨物の隙間に目を凝らしたりしていた。しかしどこにも目的の物が見当たらない。

 一通り上屋を見て回るころには、地平線のオレンジは既に消え去って、ターミナルの灯りが煌々と輝いていた。事務所の自動ドアを通り抜け、受付に戻ると、山近さんが立ち上がって手招きする。

「あ、晋ちゃん、あったよ、DIP」

「え、まじすか?」

携帯していた受付用の無線を充電器に戻すと、歩き出した山近さんについて行く。事務所の端にあるセキュリティロックのかかったドアの前に立つと、山近さんが端末に番号を入力する。事務所内はすでに落ち着いた雰囲気で、便の担当者たちは〆作業に没頭しているのか、特に会話も聞こえてこず、静かだ。ピー、という音が鳴って、セキュリティが解除される。山近さんがドアを開けると、何か、匂いがした。

「これ、さっきアウトサイドが持ってきた」

山近さんが指差すそれは、薄汚れたズタ袋で、Diplomaticの文字がくっきりと印字されている。外交文書が入っているはずのこの袋の端には赤紫の染みが広がっていた。

「ワイン、ですかね」

「多分そうだねー、さっき持った感じだともう瓶は入ってないみたいだけど、袋に染みちゃってるみたい」

「中身、手紙とか大丈夫なんですかね、入ってればですけど」

「大丈夫なんじゃない? どっちにしろ私達は勝手に開けることできないし」

「持ってきたアウトサイドの人、なんか言ってました?」

「中身が漏れてたけど、処理済みって言ってた」

「じゃあ、このまま運べばいいですね、触らぬ神に祟りなし」

「部屋に匂い移りそうで嫌だけどね」

結論づけて俺たちは部屋を出た。セキュリティドアのロックが作動する音が鳴る。DIPと呼ばれる貨物には外交文書が入っていて、俺たちは勝手に中身をあらためることができない。明らかに文書ではない、なにかが入っていても、それはあずかり知るところではなく、飛行機に搭載されて飛んで行ってくれさえすればいいのだ。

 受付に戻って、中断していた仕事を再開した。俺がDIPを捜し歩いていた間に、山近さんが大量の貨物書類の搬入対応をしていて、預かったAWBが山積みになっている。それらをそれぞれの着地向けに整理して、各便の棚に収めていく。

「ていうか、さっきアウトサイドにDIPについて確認したとき『もう持ってったって言ってますけど』とか言ってたの、あれ嘘だったんですかね」

右手に書類の塊を抱えて、左手で棚に置きながら山近さんに話しかけた。

「うーん、嘘っていうか、ほんとに持って来るために出発してたんじゃないのかな、でも途中で中身が漏れたから持って帰ったとか」

山近さんはどちらかというと、アウトサイドに好意的だ。それはアウトサイドの面々が山近さんに好意的だからではないか、と思っているが、基本的に山近さんは人のことを悪く言ったりすることを憚る性格なので、それもあって皆に好かれているのだろう。若くてかわいいだけではなく、中身も伴っているところが山近さんの素晴らしいところだ。しかも仕事もできる。

「そうそう、今日はVALの搬入もあるみたいだから、気をつけないとだね」

思い出したように言う山近さんは、どんな貨物が搬入されるかの情報も頭に入っている。本人曰く、システム上の予約を全部見ているわけではなくて、貨物の搬入に来たトラックドライバーとの世間話で、いつごろ、どんなものを運んでくるかの情報を仕入れているとのことだった。

「どこ向けでした?」

「台北だったと思う」

搭載予定の便まで把握している。さすがだ。俺たちはひたすら書類の山を整理し続けながら、VALの搬入を待っていた。VALはValuableのVAL、要するに貴重品のことだが、宝石や高額商品など、これもセキュリティが完備された場所で搭載まで保管する必要がある。VALを待ち続ける間、次から次に搬入されてくる書類の量から察するに貨物の量が増えていることは明らかで、営業部門の努力が実っていることを表していた。一方、現場の体制は追いついていないのが現実で、黙々と作業をしている便担当たちは、今日も休憩を取っていない。


 次の日の正午過ぎに出社すると、便担当の席で相田と黄さんがじゃんけんをしていた。何度かあいこを繰り返して、勝った黄さんがガッツポーズをする。

「なになに、なにじゃんけん?」

二人に訊ねると、どの便をどちらが担当するかを決めていたらしい。

「じゃあ相田さん、私、台北と上海担当しますから」

「えー、ずるいだろ、中国語できるからって」

「この仕事で、中国語使うことないでしょう、なに言ってるんですか」

負けた相田はしぶしぶロサンゼルスの画面をパソコンで開いていた。俺は昨日の搬入を思い出す。

「黄さん、ちょっと積み付け情報見せてもらっていいですか?」

台北便の積み付け情報が記載された書類に目を通す。昨日搬入したVALがきちんと反映されていた。さらに昨日のDIPもこの便に搭載するよう記載があった。

「今日はDIPとVAL、両方が搭載されるみたいなので、それをローコンさんにもきちんと伝えてくださいね」

「わかりました、任せてください」

自信に溢れた笑顔で黄さんが応える。比べるのはよくないと思うものの、相田に比べると黄さんはきちんとメモも取るし、ミスも少ないので、じゃんけんで勝った黄さんが台北を選んでくれてよかった、と安心した。貨物量ではロサンゼルスの方が多いものの、特殊な運用が必要な便を相田に任せるのは、正直不安があった。黄さんが自分のメモ帳を見て、思い出したように口を開く。

「あと、さっき出社してすぐ、鳴ってた電話に出たら、台北担当のローコンさんから今日は旅客が満席でバゲージが多いって言われました」

こうやって、こまめに状況をメモしているのも黄さんのいいところだった。積み付けプランを見たところ、日にちに余裕のある貨物がまとめて一つのコンテナにしてある。おそらく午前中のうちに情報が来ていたのだろう。

「黄さん、このコンテナの備考欄にSTAND BYと記載してからローコンに送ってください。このコンテナには今日中に輸送しなくてもいい貨物が集められています。バゲージでコンテナを多く使いそうな場合はこのコンテナを積まないようにしてスペースを確保する、という意味です」

「はい、わかりました。ありがとうございます」

黄さんは笑顔でメモ帳に指示を書き足した。

 いつものように、最初のブリーフィングを終えると、二人それぞれに便を任せて、自分はサポートにまわる。書類をあらかた捌き終えると、ヘルメットを持った。最近は危険物の搬入が多く、チェックする人手も足りていない。事務所の外に出ると、青空が広がっていた。梅雨の訪れを前にして少しずつ湿度が高くなってきたような気もするが、まだ春の余韻が残っている。目の前の道路を渡り上屋に入ると、危険物が保管されているエリアへ向かった。近づくと、しゃがんで危険物のチェックをする後姿が目に入る。

「森村、お疲れ」

脅かさないよう少し離れたところから声をかけると、顔をこちらに向けて

「お疲れさまです」

と返ってきた。

「今日はどこ担当してんの?」

「サンフランです」

お互い危険物が格納された貨物のチェックをしつつ、背中を向けたまま会話をする。

「サンフラン大丈夫なの? 危険物チェックやってて」

返事はわかっているのだが、一応聞いてみる。

「大丈夫です。もうESTIMATE出し終わって、書類も捌き終わってます」

森村は新人の中ではとびぬけて仕事ができる。新人では唯一、すでに独り立ちの試験をパスしていて、俺たちと同じように業務を行っているくらいだ。この仕事は向き不向きがはっきりと分かれるが、森村はこの仕事をするために生まれてきたのではないかというくらい、飲みこみが早く、決断力があって、度胸がある。

「宗方さんとこは、大丈夫なんですか?」

「うん、二人ともだいぶ慣れてきたからな。今日は黄さんがアジア、相田がアメリカやってるよ」

「そうなんですね、でも注意した方がいいですよ、あいつら本当に適当ですから」

森村からそんな言葉が出るのは新鮮だった。あまり人に干渉せず、いつも集団から一歩引いているような印象があり、良くも悪くも人に興味がないと思っていたので、こんな風に忠告してくれるのは意外だった。

「なにかあった? あの二人と」

後ろを振り向いて訊ねた。

「別に……、まあ、基本舐めてますから」

「舐めてるって、仕事を?」

「仕事も、人も、全部です」

そう言うと、立ち上がり俺の隣に来てしゃがみこんだ。

「こないだ、座学あったじゃないですか」

「うん」

「あのとき、宗方さんと水瀬さんが事務所に戻った後、藤嶋さんが講師やってくれましたけど、あいつら、黄と相田ですけど、ずーっと関係ない話してうるさかったんですよ。藤嶋さん困ってました。やんわり注意してましたけど、無視されてて」

初耳だった。

「そうだったんだ、藤嶋、なにも言ってなかったから知らなかったよ。悪いことしたな」

「別に宗方さんは悪くないですよ、悪いのはあいつらで。でも藤嶋さんはちょっとかわいそうでしたね」

そこまで言うと、森村はまたさっきの場所に戻った。その後は二人、一言も喋らずにチェックを続けた。

 事務所に戻ると、受付で山近さんから呼び止められる。

「ちょうどよかった。晋ちゃんとこ、今日台北やってるでしょ?」

「はい、黄さんがやってます」

「DIP引き取りに来るって連絡がきたよ。やっぱなにかまずいものでも入ってたのかもね。明らかにワイン漏れてたし。そういうわけだから、今日の便には搭載しないって黄さんに伝えてくれる?」

「わかりました。ありがとうございます」

便担当の席に戻ると、藤嶋に目が行った。新人たちに占拠された島ではなく、離れたところにぽつんと座っている。特に変わった様子なく仕事をしているように見えるが、自分のせいで嫌な経験をさせてしまったと思うと申し訳なく、先輩気取りで接していた自分が恥ずかしかった。後ろを通り過ぎて、相田と談笑する黄さんのところへ行く。

「黄さん、ESTIMATEのシート見せてもらっていいですか?」

「はい、これです、どうぞ」

受け取ったシートを見ると、備考欄にDIP、VALの記載があった。

「これ、DIPは搭載しないことになったんで、DIPの記載は消して、ESTIMATE2でローコンさんに送ってくれます? 念のため電話もしてください」

「わかりました」

指示をしながらESTIMATEのシートを見ていてあることに気づいた。

「あとSTAND BYの記載がされてないですよ。さっき言ったコンテナの備考欄に追加しておいてくださいね」

「わかりました、ありがとうございます」

そう言って笑顔で頭を下げる。俺に対しては丁寧な態度を崩さないところにも、なんだか嫌気がさした。指示を伝えると藤嶋のところへ向かった。

「ごめん、藤嶋、ちょっといい?」

モニタから顔を上げて、藤嶋が微笑んだ。

「はい、なんでしょう?」

「さっき森村から聞いたんだけど、こないだ座学代わってもらったとき、大変だったらしいね。押し付けちゃって悪かった。ごめんな」

そう言って頭を下げると、藤嶋は慌てるように手をブンブン振って

「え、どうして宗方さんが謝るんですか。宗方さんだって仕事で事務所に戻ったわけですし、宗方さんはなにも悪くないですよ」

笑顔でそう言ったが、すぐに表情が曇る。

「どちらかというと、森村くんの方が嫌な気分になったんじゃないかと思います」

「森村が? なんで?」

藤嶋は、はっとした表情で

「いえ、なんでもないです」

と答えた。なんでもないことないことは明らかだったが、藤嶋の様子から、これ以上ここで深追いするべきことではなさそうだったので、

「そっか、わかった」

それだけ伝えてその場を去った。アウトサイドの積み付け担当者が黄さんのところへ来ているのが見えたからだ。

「VALを受け取りに来ました」

そう言う担当者と、黄さん、相田の二人を連れて事務所の端へ向かう。セキュリティを解除して、中にある小さな箱を手に取ると、担当者に手渡し、搬出されたことを記録に残した。アウトサイドの担当者は両手で大事そうに抱えて事務所を出ていった。

「VALはこうやって、アウトサイドの人が取りに来るから、便担当がきちんと手渡して記録も取るようにしてください」

二人に伝えると、相田が元気に「はい!」と返事をする。黄さんは熱心にメモを取っていた。相田が担当するロサンゼルスも順調に積み付けが進んでいて、先回りして〆の作業に入れそうだった。

「じゃあ、相田はFINALのプランを待ちつつ、〆の作業も並行してできるところをやっていこうか」

「わかりました!」

相田は返事をすると、黄さんと二人揃って席に戻って行った。俺はその間にロサンゼルスの書類をまとめることにした。

 書類を捌き終わり、すべてが揃っていることを確認した後、ロサンゼルスのドキュメントボックスに入れる。あとはFINALのプランを待つのみだ。もしかして来ているかもしれないと思い、複合機に行って確認してみると、ロサンゼルスはまだだったが、代わりに台北のFINALのプランが来ていた。コピーを取って、黄さんに渡そうと持って行く途中で、あることに気づく。

「……VALの記載がない」

急いで黄さんの席まで走る。

「黄さん、これ、FINALのプラン来てたんですけど」

にこやかに黄さんが振り返る。

「ああ、ありがとうございます」

「そうじゃなくて、これVALの記載がないから、ローコンさんに記載するよう伝えてくれますか?」

「わかりました、ローコンさんのミスですね。仕方ないですね」

呆れた、という表情で受話器を手に取り、黄さんがステーションコントロールのローコンに電話をかける。

「お疲れさまです。台北担当ですが、FINALのプランにVALの記載がありません。直してください」

受話器の向こうからなんと言われているかわからなかったが、スムーズにやり取りがすすんでいないのはわかった。

「ああ、そうでしたか、わかりました、はい」

黄さんは受話器を置くと、俺の方を向いて口を開いた。

「宗方さん、VALは載せないって私に言いましたよね? だから私はさっきローコンさんにもそう連絡しましたよ」

少し気色ばんでいて、語気が強い。いつものにこやかな表情はどこかへ行ってしまっている。

「黄さん、俺が載せないって言ったのはVALじゃなくてDIPです。VALは載せます。さっき積み付け担当さんが取りにきたでしょう?」

できるだけゆっくりと、落ち着いた口調で伝えたが、もう出発まで時間がない。落ち着いている状況ではないことは、これまでの経験から身に染みてわかっていた。黄さんの手元にあったFINALの積み付けシートを確認する。ESTIMATEと比較して見ていくと、ESTIMATE1で備考欄に記載されている、DIP、VALの文字が、ESTIMATE2で両方消されていた。代わりにそのコンテナに『STAND BY』と追記されている。ローコンから送られてきたFINALのプランと見比べると、予想通り最悪な事態であることも判明して、一気に全身が熱くなり、冷や汗が吹き出してくるのを感じる。『今日は旅客が満席でバゲージが多い』という情報があったのを思い出した。それでもできるだけ、落ち着いた口調を心がける。

「黄さん、これはローコンさんではなくて、こちら側のミスです。こちらがVALの記載を消して送ったので、ローコンさんはその通りにプランを変更したんです。あと、このFINALのプランを見てください。黄さんが送った積み付けシートには記載されている、VALが搭載されているはずのコンテナが、ローコンさんのFINALのプランからは消えています。つまり、このままではVALを載せたコンテナが積み残しになるということです」

そこまで言ったところで、黄さんが机を激しく叩いた。隣に居た相田も驚いてこちらを見る。

「宗方さんが、『さっき言ったコンテナにSTAND BYと追記しろ』と言ったんですよ!」

「いや、さっき言った『さっきのコンテナ』ってのは今日載せない貨物を集めたコンテナのことで……」

頭がこんがらがってきて、少し言葉に詰まると、黄さんがまた机を叩いてさらに激昂し始める。

「宗方さんは、私のこの積み付けシート見ましたか? 見ていないですよね? あなたはふらふら事務所を歩いていたが、私のインストラクターであれば、このシートもきちんと目を通して間違いを見つけるのが当然でしょう! それをしていないのだからこれは宗方さんの責任ですよ!」

別にふらふらしていたわけではないし、顔を真っ赤にしてまくし立てられると、こちらもつい頭に血が上りそうになるが、言っていることは正論っぽいので、反論ができない。いずれにしてもここで言い争っている時間もない。すでに異変を察知した浜島さんがこちらに歩いてきていた。黄さんの意見にはあとで答えることにして、自分でローコンに電話をかけるが、台北担当がつかまらない。

「どうしたの?」

浜島さんが後ろに立つ。責任者が後ろに立っている便はトラブルが起きていることを示しており、事務所内の注目が一気に集まる。なにかあれば助ける必要があるからだ。

「VALを載せたコンテナが、このままでは積み残されそうです」

俺がそう答えると、浜島さんが

「ローコンに連絡は?」

と電話に目をやる。

「電話してるんですけどつかまりません」

そう言い終わる前に、浜島さんは机上の無線をつかみ取った。

「ZA813便ローコンさん、輸出貨物です」

返事がない。

「ZA813便ローコンさん、輸出貨物です」

またしても返事がない。旅客担当がブレイクしてきた。

「ZA813便、お客様の――」

「ブレイクしないでください、ZA813便ローコンさん、輸・出・貨・物です」

相田と黄さんが啞然とした表情で浜島さんを見上げていた。いつもの浜島さんの印象からは想像できない迫力がにじみ出ている。

「はい、ローコンです」

どこかで聞いたことのある声だった。

「あら、祖父江さん? 浜島です」

「ああ、浜島さん、祖父江です。お久しぶりです」

ステーションコントロールに出向になっている祖父江さんだった。そのまま無線で会話を続ける。

「VALの件ですよね?」

祖父江さんはすでに状況を把握していた。旅客担当がまたブレイクしてくる。

「バゲージのコンテナですが本日は満席なので――」

言い終わらないうちに祖父江さんがブレイクする。

「バゲージ用のコンテナばらしまーす。バルクにします」

「いえ、お客様の大切なバゲージですからコンテナで――」

旅客担当者の声がやや怒りを帯びている。それに対して祖父江さんが

「貨物も大切なお客様ですから!」

と返した。一瞬、上屋に大きく掲げられた看板にでかでかと書かれた『貨物はもの言わぬお客様、丁寧に扱おう』というスローガンが頭をよぎる。旅客担当からの無線は返ってこなくなった。

「えー、輸出貨物さん、ローコンです」

あらためて祖父江さんが呼びかけると、浜島さんが応答する。

「はい、輸出貨物です」

「VALが載ってるはずのコンテナを搭載しないのはおかしいって、搬出担当が教えてくれました。すでに機側に持ってきてくれてます」

「では、搭載をお願いできますでしょうか」

浜島さんがそう言うと、

「もちろんです。積み付けシートのFINAL2、送ってもらえますか。すぐにFINAL2のプラン送ります」

「了解しました」

俺は黄さんに席を代わってもらうと、急いで積み付けシートを修正し、ローコンにFAXした。1分も経たないうちに送り返されてきたFINAL2のプランをドキュメントボックスに入れると、搬出担当に持ち出しを依頼する。すでに出発時刻の一時間前を十五分過ぎていた。俺は今まで呼吸するのを忘れていたかのように、大きく深く息を吐く。制服の中に着ているTシャツがぐっしょり濡れているのを感じた。

「宗方くんお疲れさま。搬出担当さん、気が利く人でよかったわね」

浜島さんの言う通り、こうやってまた一つ、借りが増えていく。つくづくここで働いている人はアウトサイドもインサイドもプロフェッショナルばかりだ。浜島さんは黄さんの方を向くと、

「黄さん、今日は祖父江さんがローコンで命拾いしたわよ。あんなに貨物のこと分かってる人あそこに居ないんだから。あとでお礼の電話しておきなさい」

そう言って、責任者席に戻って行った。

 その日の黄さんとのブリーフィングでは、拍子抜けしてしまった。あんなに怒っていたにもかかわらず、まるですべて夢だったかのように、にこやかな表情で

「今日は、とても勉強になりました。VALとDIPは別ということですね。STAND BYもよくわかりました」

そう言いながらメモを取っている。なにを言われるか身構えていたこちらとしては、頭の切り替えがついていかず、きっと文化の違いなんだろう、と自分を納得させるしかなかった。

「祖父江さんに、連絡はしましたか?」

そう訊ねると、

「はい、祖父江さんはとても頼りになって、素晴らしい方ですね!」

と返ってきた。俺は台北便で体力と精神力を消耗してしまったため、相田が担当するロサンゼルス便が何事もなく飛んでいったことは不幸中の幸いだった。ただ、〆の作業がまったく追いついておらず、黄さんが休憩に行って帰ってきても、まだ相田はまだシステムと格闘していた。俺は遠くから見守りつつ、明日の午前便の準備をする水瀬さんの手伝いをしている。二人で手分けし、明日搭載される貨物のAWBが到着しているかを確認して、蛍光マーカーでリストを消しこんでいく。

「今日大変だったらしいじゃん、宗方くんとこ」

そう聞いてくる水瀬さんの表情は、面白いことを見つけた子供のように活き活きとしている。

「大変でしたよ、慣れてきたからって油断してた俺の責任ですね。いい勉強になりました」

「やけにしおらしいね、他にもなんかあった?」

なにかあったかと聞かれて思い返すと、藤嶋の件を思い出した。なんだか心がずっともやもやしていたのはこれが原因だったと気づく。

「まあ、いろいろ……」

ついため息が出た。

「どうした~、休憩行ってきなよ。そんな根詰めることないって。俺やるからさ」

水瀬さんはそう言うと、俺の前にあった書類をごっそり自分の方にかき寄せる。

「すみません、んじゃちょっと飯食ってきます……」

「おー、いってらっしゃい」

トボトボと事務所を横断して休憩室に向かう。正面から歩いてきた森村が

「あれ、宗方さんが休憩ってことはひょっとして水瀬さん今一人で作業してますか?」

と聞いてきた。俺が

「うん」

と答えると走って水瀬さんのところへ向かう。そう言えば森村は水瀬さんのトレーニーだったな、と思い、自分のトレーニーの相田がまだ便を〆ている途中だということに気づく。少し立ち止まった後、まあ、ちゃっちゃと飯を食って戻ればいいだろうとそのまま階段を上った。

「まじか」

まただ。冷蔵庫に入れていた生姜焼き弁当が無くなっている。よくないとは思いつつも、つい休憩室を見回してしまう。俺が休憩室に来た時点で居たのは、藤嶋、山近さんだった。今も二人並んで座り、テレビを見ながら楽しそうにおしゃべりしている。弁当を盗まれるのはこれで何度目だろう。疲れ切った自分の中にはまだこんなにエネルギーが残っていたのか、と驚くほど俺は怒っていた。

「どうしたの? 晋ちゃん」

山近さんに声をかけられて、はっとする。開いたままの冷蔵庫から、ピーピーと音が鳴っていた。

「いや、あの、俺の弁当、無くなってて」

声に出してみると、疲れたかすれ声のせいか一気に悲壮感あふれる雰囲気になった。

「そうなの……、かわいそう」

山近さんはそう言うと、ポケットからクッキーを二枚出して俺にくれた。大きなチョコチップクッキーと、ココアクッキーだった。

「貨物搬入トラックのドライバーさんがくれたやつ。あげるね」

「ありがとうございます……」

つくづく山近さんは人々に愛されている、と思いながら、クッキーを食べる。

「でも誰だろうね、晋ちゃんのお弁当盗った人」

腕組みをしつつ、片手を顎に当てて考える仕草を見て、こりゃ愛されるわ、と思いながら、もう一枚を食べる。

「二人以外に誰か、居ました?」

クッキーを食べ終わり、包装をゴミ箱に捨てつつ聞くと、藤嶋が一瞬、なにか言おうとして、また考える素振りを見せる。

「私と藤嶋ちゃんが来たときは森村くんがいたかなー」

藤嶋が「あ」という表情をした。「言っちゃうんだ」という感じの。

「でも森村くんじゃないと思うよ、あの子はそういう子じゃないと思う」

並外れたコミュニケーション能力を持つ山近さんの言うことだから、説得力を感じる。それに俺も森村が人の弁当を盗ったりするとは思えない。

「そうですね、俺も森村じゃないと思います。クッキーごちそうさまでした……」

そう言って休憩室を後にした。

事務所に戻ると相田が電話で何か話していて、さらにガチャ切りしていた。

「どうした?」

「いや、なんか英語で電話かかってきてて、キャシーじゃないですかね」

「ああ、キャシーか」

「それより宗方さんどうしたんですか、幽霊みたいな顔してますよ」

「え? そう?」

夜の窓に映る自分の姿に目をやると、ひどい猫背でびっくりした。目の下のくまも濃くなっている気がする。

「あと口の周りになんか黒いのついてますよ」

「んん?」

ココアクッキーのかけらだった。ポケットからハンカチを出して拭う。

「あとどのくらいで終われそう?」

「もうちょっとです」

「そっか、頑張れ」

そう伝えるとそのまま歩き続け、気づいたら水瀬さんが作業するデスクの椅子に座っていた。

「あれ、もう飯食ったの?」

向かいの席の水瀬さんが蛍光マーカーで線を引きながら聞いてくる。隣には森村が居て、同じ作業をしている。

「いや、弁当が無くなってて」

「え! また!?」

水瀬さんは多分自覚していないのだが、リアクションがでかいのと、あと声もでかい。

「最悪じゃん、なんでいつも宗方くんの弁当ばっか無くなるんだろうね」

隣の森村がこちらをずっと見ているので、目を合わせると、それを合図にしたかのように喋り始める。

「宗方さんの弁当って、さつき亭の弁当ですか? 旅客ターミナルにある」

「そうだけどなんで知ってんの」

出勤時に時間があるときは、わざわざ遠回りをして買ってきている。

「それなら、國井さんが持って帰ってましたよ。俺が休憩室入ったときにすれ違いました」

「なんで持って帰ったってわかんの?」

水瀬さんが横を見て言う。

「だって制服からスーツに着替えて鞄も持ってたんで。鞄の他に袋も持ってて、それがさつき亭の袋でした。花が印刷されてるやつ」

國井さんはスーツで出勤している。俺も一応スーツで来ているが、これは東田事業本部長の目が光っているからだ。一方、この会社のプロパー社員である水瀬さんたちは私服で出勤している。

「そっか、それなら間違いないかもなあ」

水瀬さんはそれで納得した様子だった。俺はまだそれだけで疑うのはどうかと思っていたが、

「じゃあ明日、張り込みましょう」

森村が提案する。

「張り込み?」

俺が聞き返すと、森村は頷いて

「そうです。俺と水瀬さんで張り込みましょう」

「え? 俺も?」

水瀬さんが不意打ちを食らったように言う。

「ていうか、宗方くんは?」

俺の方を見る水瀬さんに向かって森村が首を横に振る。

「宗方さんはダメです。たぶん國井さんは宗方さんがあの弁当の持ち主だって気づいてます。この事務所で弁当盗られてるの宗方さんの生姜焼き弁当だけですし、狙い撃ちしてるところを見ると、持ち主とその行動パターンを把握していると考えていいと思います」

森村探偵の推理に、水瀬さんはほうほう、と感心している。

「んじゃあ、張り込むためにはとりあえず囮の弁当がないといけないから、明日宗方くん弁当買ってきて。お金出すから俺の分も買ってきてよ」

「じゃあ、俺の分もお願いします。料金は支払います」

二人でまっすぐな目をして言う。

「それって、俺ただのパシリじゃないですか……」

「張り込み代ってことでいいじゃん、なあ」

水瀬さんが森村の肩を叩いて笑顔で言う。

「そうですね」

森村はなんだか嬉しそうにしている。とりあえず俺は明日、弁当を買ってくることにした。

 もうひと仕事、と思って書類の整理をしていると、目の前に置かれた電話が光る。取ろうとすると先に誰かに取られた。声の聞こえる方を見ると、相田がガチャ切りしていた。おかしいと思って電話を見つめていると、また光ったので今度は素早く手を伸ばす。受話器を耳にあてると、声が聞こえた。今度は俺の方が早かった。相田の方を向くと、受話器を置くのが見えた。ただ、この電話の主は怒り狂っていた。英語でなにやらわめいているが、まったく何を言っているのかわからない。ただ、尋常じゃない様子からトラブルであることを確信して、

「アー、ジャスタモーメンプリーズ、アイウィル、ゲット、サムワン、フー、スピークス、イングリッシュ」

そう伝えると即、保留ボタンを押す。わめいていたので果たしてこちらが言っていることを聞いていたかはわからない。急いで休憩室に向かうと、ちょうど階段から山近さんと一緒に藤嶋が降りてきていた。

「藤嶋、ごめん、英語の電話かかってきてるんだけど、出てくれない?」

「え? あ、はい、わかりました」

階段を速足で駆け降りると、藤嶋は一番近いところにある、相田の前の席の受話器を手に取った。

「あ、ちょっと待って藤嶋」

「はい、なんでしょう」

「電話の相手、めちゃくちゃ怒ってるから、気を付けて」

「わ、わかりました」

周囲が見守る中、藤嶋がおそるおそる保留ボタンを解除する。

「Hello, How can I help you?」

藤嶋の問いかけに、爆発するような勢いで向こうが喋り倒しているのが受話器から漏れて聞こえた。俺にはなにを言っているのかがまったくわからないが、藤嶋がきょろきょろしながら手を動かしメモをとる仕草をしたので、とっさに近くにあった裏紙と、自分の胸ポケットに刺していたボールペンを手渡す。藤嶋は聞き取りながら断片的に内容をメモしていく。

「LAX, delay, cannot open, system……」

書かれている文字列を眺めていると、なんとなく意味がわかってきた。藤嶋は終始丁寧に、穏やかな対応をしていて、徐々に電話相手もトーンダウンしていく。受話器からの声もはみ出てこなくなった。藤嶋は一度保留ボタンを押すと、

「相田くん、今どんな状況?」

そう言って、相田の画面を覗き込んだ。数十秒見つめて状況を理解した後、保留を解除して説明する。向こうも冷静に話せばわかってくれる人だったようで、最終的には藤嶋も笑顔で

「Thanks, Bye.」

と言って電話は終わった。藤嶋は「ふう」と一息つくと、相田と俺に向かって状況を説明する。

「えーと、ロサンゼルスの輸入課からの電話でした。『早く便を〆てくれないとこちらで作業ができないから、困っていると伝えるため、さっきから電話をしているが、話も聞かずに突然電話を切られるので、怒っていた』らしいです。でも今の作業状況と、あとは新入社員の教育期間であるため、彼も一生懸命やっているから大目に見てもらえるとありがたい、ということを伝えたら、事情を理解してくれました」

俺が相田の方に視線を移すと、気まずそうに画面を眺めているのが見えた。藤嶋は相田の画面を覗き込み、

「ああ、そのエラーが出たときは、一度別画面で貨物を登録して戻ってこないと、こっちの画面に出てこないんだよ」

そう言うと代わって操作をしてくれていた。

「ありがとう、藤嶋、助かったー」

両手を合わせつつ俺がお礼を言うと、藤嶋は「いえ、ぜんぜん」と笑顔でボールペンを返してくる。

「ありがとうございます……」

相田も藤嶋に頭を下げて、申し訳なさそうにしていた。

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