4 ヒヤリハット係

「ヒヤリハットって知ってる?」

ある日、責任者席に座っていた浜島さんが立ち上がってそう言った。地平線に夕日が沈むか沈まないかの時間帯、俺は丸本と「ずいぶん日が長くなったな」なんて会話をしていたときの唐突な質問だ。

「事務所散らかりすぎてると思わない?」

俺たち皆に呼びかけるように浜島さんが続けた。午後便がほぼ飛び立った後だったので、それまで各便の状況に向いていた浜島さんの全神経が、事務所の汚さに移ってしまったのかもしれない。皆一斉に浜島さんに視線を向けたものの、なんと返事をしていいのかわからず困惑していた。そのとき

「確かに」

「汚いかも」

「うーん」

と順に声を発した森村、藤嶋、そして俺がその場で浜島さんに指名され、即席の『ヒヤリハット係』が発足したのだった。

 というわけで今、俺は事務所の端っこで二人と向かい合って座っている。二人とも自分の担当便を〆終えているが、俺はまだ相田と黄さんが残していった仕事を処理していた。

「とりあえず俺、作業しながら会話に参加するから」

作業をしつつチラリと二人の様子を伺う。藤嶋はかろうじて何か解決策を考えようとしているが、森村は普段残業することもないので、余計な仕事を押し付けられたという態度が見え見えだった。仕事はできても中身は子供だな、と思いつつ、相田のフライトレコードに書かれた誤字を書き直す。

「とりあえず、整理整頓できる仕組みを考えよう」

二人を交互に見ながら話を振ると、

「罰金取ればいいと思います。散らかしたやつから」

森村が即答した。

「それはちょっと、会社としてよくないんじゃないかな」

藤嶋が異議を唱える。

「じゃあ、藤嶋さんはどうしたらいいと思うんですか」

やや森村が苛立っているのがわかる。

「整理整頓を呼びかけるポスターを作って貼る、とか?」

藤嶋の提案を聞いた森村がフッと鼻を鳴らした。

「ちょっとちょっと、人のアイデアを鼻で笑ったりするのは無しだぞ」

すかさず注意すると、

「すみません、悪気はないんですけどつい。だってそんなので皆の行動が変わったら苦労しないですよ」

今度は大人みたいなことを言う。正直乗り気ではない三人である。うーんと唸るばかりで話が前に進まない。それ以前に三人とも業務で疲れ果てて余力ゼロなので、思考が働かなかった。

「なにやってんの」

ヘルメットを被った水瀬さんが声をかけてきた。手元のバインダーに挟まれた書類の束を見る限り、危険物チェックをしてきたようだ。ヘルメットを脱ぐとその辺の机に置いて、俺の隣の席の椅子を引く。

「どうやったら整理整頓できるかを考えてます」

藤嶋がヘルメットを見ながら答えると、水瀬さんは「へえ……」と言いつつ、ヘルメットを手に取り壁際のフックに持って行って掛けた。戻ってきてチェックした書類の確認を始める水瀬さんの前に森村が移動してきて座り、質問をする。

「水瀬さんは、なにか散らかってて困ったなってことありますか?」

水瀬さんはだるそうに首を回しながら考えている。

「えー、特にないかなー。俺、家も結構散らかってるし、散らかってる中で物探すのとか得意なんだよ」

「あー、わかりますわかります」

繰り返し頷きながら全面同意の森村だが、それじゃあ質問した意味がない。

「え、水瀬さんの家って散らかってるんですか? 意外です。すごくきちんとしてそう」

藤嶋もその話題に乗っかるのか。

「うん、空き缶とか、すげーたまってるし、てか狭いんだよな、寮の部屋。引っ越したい」

「引っ越すなら俺手伝いに行きますよ」

森村が提案すると

「え、いや、当分は引っ越さないよ、寮安いし」

と水瀬さんは真顔で答える。

「じゃあ今度私、掃除手伝いに行きましょうか?」

藤嶋の提案には

「いや、恥ずかしいからいいよ」

と即答する。なんとなく、この三人の間に漂うなにかが気になったが、とりあえず二人を水瀬さんと会話させているうちに、自分の便〆作業に集中することにした。まだ一度も提出していない社内報記事の執筆も広報部から催促され続けている。正直なところ、整理整頓のアイデア出しをしている時間はない。その後も藤嶋と森村は水瀬さんにあれこれと話しかけては、水瀬さんに適当にあしらわれていた。

「イタっ」

水瀬さんが指先を見ている。ほんの少しだけ血が出ているようにも見えた。

「どうしたんですか」

俺が聞くと、水瀬さんはキーボードを持ち上げて見せてきた。よく見るとUとIの間にホッチキスの針が挟まっている。

「大変、絆創膏とってきます!」

藤嶋が更衣室の方へ走っていく。森村は絆創膏など持ち歩いていないようだった。俺は安全管理グループのメンバーなので、目の前の棚の上段に救急箱が入っているのを知っているのだが、黙っておくことにした。

「どうしたの~、陽ちゃん」

水瀬さんの声が受付まで聞こえたのか、壁の向こうから山近さんが出てきた。

「ああ、ホッチキスの針がキーボードに挟まってて、タイピングしてたら指に刺さったんだよ。ったく誰だよこんなとこに針落としやがって」

「どれどれ、見せて」

山近さんが水瀬さんの手を握って傷口を確かめる。腕を組んだ森村がその様子をめちゃくちゃ凝視している。

「なんだ、大したことないじゃん、絆創膏貼っとけば治るよ」

そう言って笑いながら棚に向かう山近さんも、安全管理グループのメンバーだ。

「あ、ちょっと、山近さん?」

俺が声をかけると微笑みながら振り向く。

「ん? なに?」

「えーと、救急箱なんですけど、在庫の点検が終わってないから、できるだけ使わないでって、総務に言われてます」

嘘だけど。

「え、そうなの? でも陽ちゃん怪我してるし……」

ダンダンダンと駆ける足音が聞こえた思うと、息を切らして藤嶋が戻ってきた。

「はい、水瀬さん……! どうぞ……!」

差し出された絆創膏はピンク色をしていてハローキティがあしらわれている。水瀬さんは一瞬戸惑った様子だったが、受け取って

「サンキュー」

と自分の指に巻き付けた。山近さんが俺の方を見て、声を出さず「そういうこと」と大げさに口を動かした。俺はうんうんと軽く頷いて返事をする。席に戻った藤嶋に、

「後ろの棚に救急箱あったみたいですよ」

と森村が言い放つ。明らかに面白くなさそうな顔をしている。受付に戻ろうとしていた山近さんは振り向くと眉を上げて目を見開きながらまた俺の方を見てくる。俺はうんうんと頷いて返事をした。藤嶋は「え! そうだったの!」と恥ずかしそうに両手で口元を覆って顔を赤らめている。隅っこの席から一連の流れを眺めていた國井さんが「ふっふっ」と笑った。ずっと身動きせず寝てるのかと思っていたので少し驚いた。ネットニュースの画面が反射しているメガネからは紐が垂れ下がっている。それを見て俺はひらめいた。

「あのー、整理整頓の件なんだけど」

森村と藤嶋に話しかけると、二人して何のことを言っているのかわからないといった顔で俺を眺めて、「あ、そうでした!」と藤嶋が俺の前の席に座った。森村もこちらに向き直る。

「備品をさ、ホッチキスとかハサミとか、便担当の島の席から移動できないように紐で繋いどくのはどうかな?」

「なるほど、まあそれなら行方不明になりにくいですね」

森村は乗り気のようだが上から目線なのがちょっと気になる。藤嶋は少し考えてから口を開く。

「でもそれだと、ちょっと席移動して作業するときとかに、不便じゃないですか? 今座ってるこの席に移動してきたときとか」

「んー、確かに」

かといって事務所のすべての席に備品を置くのは非効率だし、コスパもよくなさそうだ……。

「だったら、備品をセットごとに収納する箱を作って、その箱とホッチキスとかを繋いでおくのはどうですか? 持ち運びするときは箱に入れられるし、かと言って箱単位で管理できるからばらばらにもならないですよ」

森村が得意げに言う。一瞬想像するのに時間がかかったが、なんとなくうまくいきそうなアイデアだ。これ以上時間を使っても仕方ないので森村案を推すことにした。

「いいね! それでいこう! ありがとう森村」

謙遜するように「いえいえ」と笑う森村の隣で、心なしか藤嶋が不服そうな表情だ。ちらりと俺の隣の席に目をやると水瀬さんが怪我した中指をぴんと伸ばして、不器用そうにタイピングしていた。

 

 現場研修の合い間に差し込まれた座学の日、季節外れのインフルエンザに罹った丸本の代わりに、俺は総務部が用意した会議室に居た。座学だというのに、なぜかロの字型に長机と椅子が配置されていて、早めに着いた俺はそれらをセミナー型の配置に変更していた。

 半分ほどを動かし終わったところで國井さんが入ってくる。こちらをチラリと見てきたので「お疲れさまです」と声をかけると、「ふっ」と息の漏れるような音をさせて軽く会釈してきた。俺が動かし終えた半分の席の一番前に座ると、ステンレスの水筒を取り出しお茶かなにかを飲み始める。

 國井さんと同じ長机に座ってしばらく経つと、部屋の後方にある入り口から、ぞろぞろと新人が入ってくる。新人に混じって水瀬さんと藤嶋も入ってきた。

「あれ、なんで水瀬さん居るんですか?」

藤嶋と談笑しながら歩いていた水瀬さんが俺の方を見て

「いや、むしろなんで宗方くんが居んの?」

と返してくる。藤嶋は俺に軽く一礼すると、空いていた最前列左端の席に座った。

「俺は丸本の代わりですよ。丸本が話す内容の資料あるんで、それをもとに話をします」

「へえ……」

水瀬さんは通路を挟んで三列ならんだ長机を見回した。

「俺ら座るとこないね」

「え?」

同じく見回すと、確かにすべての席が埋まっていた。受講者十人+國井さん+藤嶋。

「まあいいや、俺らあの丸椅子に座ろうぜ」

端の方に重ねてあった丸椅子を二つ、会議室後方の壁の前に持ってきて置く。部屋の右手の壁半分から上が一面窓になっていて、明るい陽射しが差し込んでおり、そう遠くはないところに滑走路も見える。水瀬さんと並んで腰かけると、すでに國井さんが前方にある講演台に立って話し始めていた。

「なんで水瀬さん居るんですか?」

さっき答えてもらえなかった質問をもう一度してみた。

「俺は今日、危険物講習の先生なんだよ」

「ああ、じゃあもう新人たちも危険物チェックやるんですね」

「そう。人足りないからか、なんかいつもより早い気がするんだよな」

それは水瀬さんの気のせいではなく、実際、新人の教育はこれまでよりも簡略化されている。

「じゃあ、藤嶋の代で入社した社員が本来、今回の講習を受けるタイミングってことですね」

「そう。藤嶋のついでに新人たちにも教えるって感じだね。そう考えると藤嶋の座学が新人たちに合わせて先送りにされてたって感じかな」

 藤嶋の代の社員は早い段階で藤嶋以外が退職し居なくなったので、現場の人員が講師として取られる座学は後回しにされていた。それが今回の新人たちが入社してきた途端開催されたというわけで、藤嶋にとっては今さらな内容になるし、新人たちにとってはやや時期尚早な座学になる。

 前方では國井さんが過去に起きた飛行機事故について話をしていて、後ろから見る限りでは、皆真面目に聞いているようだった。國井さんの話はそれから、昔は旅客部門に居て部長だったとか、貨物部門に来てからは関空に長いこと居たとかそういう身の上話が続いて、しだいに緩んだ空気が室内に漂い始める。舟を漕ぎ始めるやつもいれば、隣の席の同僚とヒソヒソと話をして、クスクス笑っているやつもいる。森村は肘をついてずっと窓の外を眺めていた。

「はい、終わり。質問がある人はいますか」

誰も声を出さなかった。気まずい沈黙が続く中、國井さんにはそれが全く苦ではないのか、目の前の若者たちを右から左へじっくりと見回している。

「昔のことはよくわかったんですけど、國井さんの今の仕事について教えてください」

声は俺の隣の人から上がり、新人たちが一斉に後ろを向いた。窓の外を見ていた森村も素早く振り向く。國井さんが「ふっ」と笑ったような声を出して話し始める。

「今は、ULDを管理する業務をしています。皆さんULDはわかりますよね」

ULDは貨物を積載するパレットやコンテナのことだ。新人たちもそれはもちろん知っている。

「あれを点検して、壊れてたら修理に出したり、新しく購入の手配をしたり、そういうことをしています」

隣で水瀬さんがやや大げさに頷きながら相槌を打っている。

「なるほどー、じゃあ毎日ULD不足にならずに貨物を運べるのも國井さんのおかげなんですねー」

水瀬さんはそう言うと、俺の方を向いて

「ありがたいね」

と同意を求めてきたので、

「ほんとですね」

と答えた。正直なところ、便担当からすれば毎日楽そうな仕事をしてるな、と思っていたが、誰かがULDを管理する仕事をしないといけないのだから、便担当の仕事と比べること自体意味がないな、とも思った。とはいえ、ネットニュースばかり見てるのはどうかと思うのだが……。國井さんはやや満足気な表情をすると、「では質問の時間終わり」と切り上げて席に戻って行った。代わりに水瀬さんが立ち上がり、講演台に向かう。水瀬さんの講習を聴くのは初めてだったが、思っていたよりもずっと軽快な語り口で、慣れたものだった。自分が二十二歳のときを思い出すと、毎日怠惰に過ごしていた光景しか浮かばなかったので、つくづく人間は年齢よりも経験で形作られるものだなと思った。

「えー、というわけで、A320の時は気を付けるようにしてくださーい、じゃあ次に……」

ブーブー、と携帯の震える音が鳴った。話が止まり、水瀬さんの鋭い視線が新人たちの間を縫うように駆け抜けたが、俺が手刀で合図を送り謝ると、水瀬さんは安心した顔でまた話を再開した。俺は携帯を耳にあてつつ部屋を出る。

「はい、宗方です」

がらんとした廊下の端の方まで声が響く。誰も聞いている人はいないが、少し気になる。

「あ、宗方くん? 浜島です。ごめんね、今座学中?」

「はい、今水瀬さんが危険物講習やってます」

「そう。悪いんだけど桃井さんもインフルになっちゃったらしくて、今日遅番来られないみたい。宗方くん事務所に戻ってこられる? 何かそっちで仕事残ってる?」

「残ってる仕事……、丸本が用意した資料で話をするのと、机のレイアウト変更したのを戻すことですかね」

「その資料の説明は國井さんに引き受けてもらってくれる? あの人話すの好きだから。内容も基礎的なことだし。あと机のレイアウトなんて、そんなの講習終わったあと新人たちにやらせればいいから。じゃあ宗方くん戻ってこられるってことで。あと水瀬くんにも説明しといて。よろしくね」

電話が切れた。会議室に戻ると、そのまま前の方へ進み出て、水瀬さんに話しかける。

「水瀬さん、すみませんお話し中、ちょっといいですか」

「なになに?」

二人で部屋の隅に行って、浜島さんから聞いたことをそのまま伝える。別に内緒話しなくてはならないことでもないのだが、なんとなく小声になった。

「じゃあ、この後の座学どうすんの?」

浜島さんは國井さんに依頼するように言っていたが、俺には考えがあった。

「藤嶋ごめん、SLACとかエンバーゴとか、あれこれまとめた資料があるんだけど、このあと、この資料で座学やってくれない? 俺、急きょ事務所に戻らないといけなくて」

藤嶋が俺の手元の資料に目を落とす。

「でも、私自身まだあまり詳しくないですし、教えられるかどうか……」

「大丈夫、藤嶋はもう実務で経験してることばかりだし、丸本がいい感じの資料作ってくれてるから。資料の流れに沿って話してくれればいいよ。わからない質問がきたら國井さんに聞けばいいし」

「そうですけど……」

不安そうな表情の藤嶋に、

「大丈夫だって! 藤嶋もう独り立ちしてんだし、自信もてよ」

明るい声で水瀬さんが言うと、途端、藤嶋の顔から不安が消えた。代わりに奮い立っているような雰囲気すらある。

「……わかりました! 頑張ります!」

なんだか少しもやっとしたが、とりあえずこのあとは藤嶋に任せることにして、俺は一足先に事務所に戻ることにした。水瀬さんにも危険物講習が終わり次第戻ってもらうことになった。


 事務所は相変わらず慌ただしい。貨物専用便担当にもインフルエンザが出ており、祖父江さんが異動になって居ないこともあってか、先輩たちがひいひい言いながら走り回っていた。それを見ながら佐原さんが

「早く新人たちに一人前になってもらって、“丸本さんたち”の代があっちの席に行かないと、事務所回んなくなっちゃうね」

と他人事のように言って去っていく。“丸本さんたち”というのは、要するにこの会社のプロパー社員ということで、そこに俺は含まれていない。それはあの仕事を担当する前に俺がこの事務所を離れるということを意味しており、こういうときに、自分が外様であることを再確認するのだった。

 少し経って水瀬さんも戻ってきた。ここ最近は新人の子守りをしながらの作業が定常化していたので、久しぶりに自分一人で仕事をすると、身軽さに驚いた。余計なトラブルが起きないか、不必要に神経を尖らせることもなく、順調に仕事が進んでいく。

「いやー、子守りしなくていいって、めちゃくちゃ楽ですねー。自分一人だとすごく身軽に感じますよ」

隣の席に座る水瀬さんに話しかけると、こちらを見て共感の笑顔を見せてくる。

「だよなー? あのあれ、悟空が重い服とか着ててさ、それ脱いだら、すごい速く動けるみたいなあれ、あれみたいだと思うんだよね、俺」

「悟空、ってドラゴンボールですか?」

「そう、ドラゴンボール」

「俺ドラゴンボール読んでないんで……」

「え、嘘、宗方くんってその世代じゃないの」

「いやいや、俺何歳だと思ってんですか、全然世代じゃないですから」

「あれー、そうだっけ、うちの兄貴と同じくらいかと思ってた」

「お兄さん何歳なんですか?」

「三十くらい」

「いやいや、俺水瀬さんと三つしか違わないですからね? ていうかお兄さんだって全然ドラゴンボール世代じゃないでしょ……」

「あれ? そうなんだっけ、よくわかんないねー、人の齢って」

そう言うと水瀬さんはさっさと書類を捌きに席を立ってしまった。普段は気にもしなかった、パソコンのモニタにうっすら映る、自分の姿に目が行った。そんなに俺は老けてるだろうか、と顔を撫でていると、

「私はわかったわよ、さっきの例え」

各便の状況を見回っていた浜島さんが俺の席の前に立ち、メガネの奥に笑みをたたえている。

「いや、それは水瀬さんに言ってあげてください」

ていうか浜島さんもドラゴンボール世代じゃないでしょう、と喉まで出かかったが、女性に対して年齢に関することを話題にするのは地雷であり、いつどのように爆発するかわからないため、なにも言わなかった。ただなんとなく、浜島さんは、そのツッコミ待ちだった気もするので、マナーというのは難しい。

「……ところでこの備品箱、いいわね、宗方くんが考えたんでしょ?」

この島のそれぞれの机に置かれている小さな箱を手に取り、浜島さんが言う。立方体の一面が開いているアクリルのボックスに、ホッチキスや電卓など業務で使う小物が入っており、それぞれ三十センチの紐でアクリルボックスに開けた穴に繋がれている。いいネタができたので、社内報の寄稿記事には、新入社員たちが発案した整理整頓ボックス、ということにして広報部に送った。これでひとまず催促から逃れられそうだ。

「まあ、俺が考えたっていうより國井さんを見て思いついたんですけど」

「國井さん?」

「國井さん、メガネを紐で繋いで首から下げてるじゃないですか。あれです」

「ああ、そうだっけ?」

まったく覚えてない、むしろ興味がない、といった様子だ。

「そういえば、國井さんってなにやってるかわかんないなって思ってたんですけど、今日、新人向けの座学を聞いてて、結構ちゃんと仕事してきた人なんだなってわかりました」

「へえ、そうなの?」

「はい、あとULDの状態とか確認してくれてるのもありがたいことだよなあって」

浜島さんは手に持っていた備品箱をそっと机に置くと、いつになく早口で

「ULDの状態確認してるのはアウトサイドよ。積み付けしてたり、運んでたりするときに壊れるのを見つけたら連絡してくれるの。國井さんがULD置き場をパトロールしてるわけじゃないから」

とまくし立てる。

「え、そうなんですか?」

「そうよ、それに國井さんは……」

そこまで言いかけて、

「まあ、なんでもない、そろそろサンフラン積み付け終わるんじゃない? FINALのシート、早めにローコンに送ってあげてね」

そう言うと、責任者席に戻って行った。ローコンというのはステーションコントロールの担当者たちのことで、俺たちと同様、複数人で旅客便の運行を担当している。こちらが送った積み付け状況の情報をもとに、旅客のバゲージを含めた機体のウェイト&バランスを調整していて、こちらが最終の積み付け情報を送ると、それをもとに彼らが最終の搭載プランを返してくる。このプランを見れば、どの貨物が機体のどこに搭載されているかがわかるというわけだ。プランはコピーされてAWBなどの書類と一緒に飛行機に運ばれる。FINALのシートをローコンにFAXしていると、書類棚の方から水瀬さんの声が聞こえてきた。

「宗方くん、サンフランのドキュメントボックス、もう準備できてるよ」

振り向くと年季の入ったジュラルミンの箱にきっちりと各種書類が収まっている。

「はやっ! 今やろうと思ってたんですけど、水瀬さんやってくれたんですか?」

「いや~、俺じゃないよ」

そう言うと書類棚付近でAWBを手早く捌く人たちの方を見た。彼女たちは今月から入社した派遣社員で、便の担当はしないものの、こうやって書類の準備をサポートしてくれている。彼女たちが居続けてくれれば事務所はだいぶ楽になるはずだ。

「ほんとありがたいですね、ドキュメントのことやってくれるだけで、めちゃくちゃ助かりますもんね」

「ほんとほんと、大助かり」

よーいしょっと声を出しながら席に座ると、水瀬さんも担当便の作業を再開する。今日はLAX(ロサンゼルス)、PVG(上海浦東)、HNL(ホノルル)を担当しているようだった。

「そう言えばこないだ、台北から成田経由してホノルルに行くの貨物で、ダメージがあったとき、藤嶋が対応してましたよね、あれどうなったんだろ」

俺の問いかけに水瀬さんがこちらをチラリと見る。

「あー、そんなこともあったね。祖父江さんが引き継いでたけど。よくそんなの覚えてるね」

「いや、藤嶋すごい英語できるなーと思って印象に残ってたんで。今日も座学変わってくれたし、なんだか成長してる感じしますよね、藤嶋」

水瀬さんの方を向きながら言うと、無言で積み付けシートに目を落としてパチパチと高速で電卓を叩いている姿が目に入り、自分の無駄口を少し反省した。久しぶりに子守り無しで作業しているからか、気が緩んでいるのかもしれない。

「前から思ってたんだけどさー」

電卓の音が止み、水瀬さんは計算結果をすばやくメモしながら言う。

「宗方くんって、藤嶋のこと好きでしょ」

俺が反応するよりも早く、責任者席の浜島さんのがすごい勢いでこちらを見た。長い髪がシャンプーのCMみたいに宙になびく。それに驚いた俺と水瀬さんが浜島さんを見ると、浜島さんは逆方向にも首を向けて、今度は傾けたりして「あー首がこってるなー」と独り言を言う。俺は水瀬さんの方を向いて

「なに言ってんですか、そんなことないですよ。ていうか事務所の真ん中でなに言うんですか」

と少し抗議した。聞いているのかいないのか、また水瀬さんは電卓を叩き始める。さっきの計算結果に納得がいかなかったようだ。サンフランのFINALプランが来てもよさそうな時間だったので、複合機に向かうと、紙の山に混じってFINALが来ていた。コピーを取ってその一枚をドキュメントボックスに入れる。書類がすべて揃っていることを確認すると、ホワイトボードのサンフランのところに準備完了のチェックを入れた。床にずらりと並んだドキュメントボックスはまだ大半が口を開けたままで、書類が入るのをいまかいまかと待っているようだった。ちょうど書類の束を持って派遣社員の吉田さんがやってきたので、

「サンフランの書類まとめてくれたのって吉田さんですか? すごい助かりました」

と声をかけると

「え、私じゃないです。水瀬さんですよ」

とやや困惑した声で返ってきた。

「あれ? そうなんですか?」

そう言いつつ便担当の机に座る水瀬さんの方を見ると、まだ電卓を叩いていて、その細い眉をひそめていた。

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