*閑話* 進藤 あかね と 進藤 彼方
グラウンドに響く部員たちの元気な掛け声を聞きながら、私“進藤 あかね”はトラックを走っていた。
新入生の入学式も無事に終了し、軽いHRの後、明日以降始まる新入部員勧誘についての最終確認を済ませた私達陸上部は、折角だからと少しだけ練習をすることになり、こうしてグラウンドで各々の種目に分かれて活動している。
「――ふふっ」
本来は練習をする予定ではなかった為、部員全体でどこか緩い空気の中楽し気に体を動かしているのを見ていたせいだろうか。今朝の慌ただしい我が家の様子をふと思い出して我慢できずに吹き出してしまった。
「どしたのあかね?面白いやつでもいた?」
練習中であることを思い出し、慌てて真面目な表情を作って取り繕いはしたものの、流石に隣で走っていた友人には気付かれてしまった。
「ううん。ちょっと思い出し笑いしちゃっただけ」
正直に答えるのは恥ずかしいけれど、ここで誤魔化そうとしても勘の鋭いこの友人のことだ、どうせ走っている間中ずっと質問攻めにされるだけなので隠そうとする方が疲れてしまう。
別に今日は自主練の延長のようなものだし、おしゃべりをしながら走っていてもいいのだろうが、一応これでも部長なのだ。自ら率先して気の抜けた姿を晒すのはまずい。
「……ふ~ん?」
「な、なに?」
ニヤニヤしながらこちらを見る友人を見るに、なんとなく嫌な予感はするものの、表面上は平静を装いながら少しだけペースを上げる。
案の定その後は私の内心など知ったことかと根掘り葉掘り聞きだそうとする友人に辟易としながら走る羽目になったのだけど、早めのペースで走り続けたおかげでそう長い時間質問攻めが続くことはなく、一人で先頭を駆けながら少しだけ以前のことを思い返していた。
「あかねちゃんにお兄さんがいるって本当!?」
それは確か私が小学生の頃だったはずだ。
いつものようにクラスで仲の良い友達とおしゃべりをしていた休み時間、突然そんな風に声を掛けられてびっくりしたのを覚えている。
「ぅえっ?な、なんで知ってるの……?」
本来であればあの時、しっかりと否定するなり誤魔化すなりしておかなければならかったんだと今ならわかる。しかし、当時の私は突然のことに驚いたのもあるけれど、兄の存在を周りに知られることでどういう事になるかなんて全く考えてもいなかったのだ。
その後の展開は言わずもがなだと思う。
瞬く間に学校中にその話が広まり、四六時中兄のことを聞かれる生活が始まった。
兄がどんな人なのか。性格や容姿、趣味に好きな物、苦手な物、挙句の果てには何時頃に寝て何時頃に起きるのかなど、それを聞いてどうするのだろうというものまで様々。
初めの内は私も聞かれたら素直に答えていたのだけれど、時間が経つごとに段々と億劫に感じてしまって、無視することも増えていった。
それはそうだろう。
なぜなら私だって兄のことなどほとんど知らないのだ。
本当に小さい頃、記憶も曖昧な頃には仲が良かったと母からは聞いているけれど、私が物心つく頃には兄は自室に引き篭もるようになってしまっていたのだから。
兄が何を好きなのか?
……私だって知りたい。
兄が何時に寝て何時に起きているのか?
私だって知らない……!
そういう事を繰り返す内に兄のことを聞かれるのが苦痛になっていったのは間違いないと思う。
家に兄がいるのは間違いないが、顔を見るどころか声さえ聴くこともほとんどないのに、そんな状態で本当に私たちが家族だと胸を張って言えるだろうか?
小学校を卒業し、中学に進学しても特に私を取り巻く環境は変わることはなく、本当に仲の良い友人以外とは話すこともしなくなっていた。
その後陸上競技と出会って、憧れの先輩ができたり、友人の大切さを痛感したりしたのだけれど、私のそれまでを大きく変える事件が起きたのはそんな風に少しずつ私が変わり始めたある日のことだった。
その日もいつものように部活があって、憧れていた先輩から託された部長という大任にも段々慣れてきた頃。
帰宅する途中でふと、久しぶりに兄に声をかけてみようと思ったのがきっかけ。
どうしてそんなことを思い付いたのか今でもよくわからないのだけれど、本当にふっとそんな考えが頭に浮かんで、それがとてもいいことのような気がしたのを覚えている。
「……兄さん」
家に帰ってすぐ着替えを済ませ、兄の部屋の扉をノックして声をかけてみた。
こうして私から兄の部屋を訪れるのは本当に久しぶりだ。最後に来たのはいつだっけと考えなければ思い出せない程に。
「……」
しばらくそのまま待ってみたけれど返事はなし。
薄々そんな気はしていたけれど、こうして現実を突きつけられると中々心情的に辛いものがある。
「……ごめんね。また来るからね」
自分の部屋へと戻る途中、兄は私の言葉を聞いてどんな風に感じているのだろうかと考えてみた。
鬱陶しい?懐かしい?それとも、何も感じない?
友人や仲間、先輩達に恵まれて少しずつ良い方向へと変わりつつあると感じていた自分を打ちのめすには十分な程、返ってきたのが沈黙だったという事実は重かった。
「あかねちゃんも彼方ちゃんのお部屋に行ったの?」
自分の部屋で少しだけ泣いた後、仕事から帰ってきた母にそのことを話してみると、少しだけ驚かれてしまった。
自分でもどうしてそんなことをしたのか説明できないし、まあ驚かれるのも無理はないかな、なんて考えていると、母の表情はどんどんと曇っていって最後には今にも泣きだしてしまうのではないかと思う程になっていた。
気になって聞いてみれば、どうやらここ数日母や家のお手伝いさん達がいくら声をかけても兄から返事が返ってくることはなかったらしい。それどころか、食事をしている様子もなければお風呂やトイレに行くところすらも見ていないのだとか。
「……まさか」
頭の隅に湧いた嫌な考えは瞬く間に広がって、悪い方へと思考は傾いていく。
居ても立っても居られなくなった私達は急いで兄の部屋に向かい、どうか自分の考えすぎであって欲しいと祈るように扉をノックした。
「彼方ちゃん?彼方ちゃん返事をしてもらえないかしら?」
いつもに比べたら少しだけ乱暴なノックの後に声をかける母。顔を見なくても焦っているのがよく分かる。きっと私も同じような顔をしていたと思うし。
繰り返しノックをして声をかけるも、兄の部屋から返ってくるのは沈黙のみ。
嫌な予感が頭の中を支配して、震える喉で母に無理にでも部屋に入るべきだと告げた時には目から零れる涙を止めることができなくなっていた。
その時、本当に久しぶりに兄の部屋に入って感じたのは懐かしさなどではなかった。
色々と散らかっているなと感じたことは覚えているけれど、部屋の真ん中でうつ伏せに横たわって身動ぎ一つしない兄の姿を見た瞬間に頭の中は真っ白になってしまって、気が付いた時には病院のベンチで横たわっていた。
後から母に聞いた話だと、混乱してどうしたらいいかわからなくなってしまっていた自分に代わって、兄の意識の有無の確認や救急車の手配、病院に着いた後もどの様な経緯があったのかを説明したりなど、とても冷静でいてくれて助かったと聞かされたけれど、自分にはそのどれも記憶にない。
病院に駆け込んだ後、集中治療室にすぐさま入れられた兄が心配で家に帰ることも出来ず、そのまま夜を明かして朝を迎えてしまったらしい。
「あかねちゃんはお家に帰って休みなさい。今日はお母さんから学校にお休みの連絡と事情を説明しておくから、彼方ちゃんのことは心配しないでお母さんに任せなさい」
私と違って夜も眠れていなかった様子の母も心配だったけれど、私自身も疲れ切ってしまっていたので大人しく家に帰ることにした。
それからの一週間のことはほとんど覚えていない。
学校には行っていたし、部活にも出ていたのは覚えているのだけれど、そこで誰と何を話したとかどんなことがあったとか、そういうことを全く思い出せないのだ。
そうして半ば抜け殻のような状態で過ごしていると、夜中に病院から兄が意識を取り戻したと連絡が入った。
可能であればすぐにでも病院に向かいたかったけれど、意識を取り戻した直後であることに加えて兄も具合が良くなく、大事をとって翌朝の面会開始時間を待ってお見舞いに行くことになったらしい。
私はと言えばもちろん早く兄の様子を見に行きたかったけれど、無事だったのだから学校を休んでまで行く必要はないと母に説得され、学校が終わってからお見舞いに行くことに。
翌朝母に見送られて学校に行ったものの、どうにも落ち着かないまま一日の授業を受け、事情を話して部活は休ませてもらった。
急いで向かった病院で、元気に母と話している兄の姿を見た時には心から安心して思わず泣いてしまった。
そして驚いたのはこの後だ。
今思い返すととっても恥ずかしいけれど、声を上げて泣き始めてしまった私を慰めてくれたのは母ではなく、兄だったのだ。
優しく頭を撫でてくれたり、「心配をかけてしまってごめん」と謝ってくれたり、その時自分が何を言ったかはちょっと覚えていないんだけれど、嫌な顔一つせず話を聞いてくれたり。
まるで人が変わってしまったかのようだと感じたのはその時だったと思う。
嬉しいと思ったのは間違いない。けれど、少しだけ。ほんの少しだけおかしいと思ったのも間違いなかった。
今まで私がどんなに兄と仲良くなりたいと思っていてもそれが叶うことなどなかった。
当然それは仕方のないことだし、自分でも諦めのついた問題だと納得していた。
それがどうだろう。
今目の前で優しい表情を浮かべて話し相手になってくれている兄は、まるで今までのことなど嘘の様に自然体で私や母を受け入れてくれているように見える。
“この人は誰だろう?”
そう思ってしまってからはもう駄目だった。
兄の姿、兄の声、記憶にある兄と同じ様にしか見えない目の前のヒトが、別のナニカにしか見えなくなってしまった。
面会時間が終わり帰宅してから思い切って母に打ち明けてみれば、母も同じようなことを感じていたらしい。
これは兄本人には告げられていないことだけれど、実は一度兄の心臓はその動きを止めていたのだ。
ICUでの治療中、意識を失った原因などを調べている最中、一度生死の境を彷徨っていた兄が幸いにも一命を取り留め、その後順調に回復に向かっていたものの目を覚ますことはなかった。
しかし目を覚ましたと聞いて会ってみれば、別人のように変わってしまった兄がそこにいたというわけだ。
見た目は少し瘦せたように見える以外は変わっていない。外見は兄で間違いないのに、その中身が兄ではないような気持ち悪さを感じたのだ。
「でも、お母さんは彼方ちゃんが別の誰かになったなんてことはないと思うわ」
そう言った時の母の表情は今でもよく覚えている。
母にとっても今までの兄とは全くの別人のように映ったのは間違いないらしいけれど、その後会話を続けるうちに兄が進藤彼方であると確信できたんだそうだ。
正直、そんな風に母が話しているのを聞いていた時には、何を言っているのか理解することはできなかった。
根拠だって「母親としての勘」だって自信満々に言っていたけれど、それをそのまま信じられるほど私は子供じゃなかったんだと思う。そして、その言葉の意味を深く考えられるほど大人でもなかった。
それから数日、面会に行けない日が続いた。
上に一つ上級生がいる中での新部長として部活動に集中したかったこともあるし、春休み前に決めておかなければいけないことが多かったというのもある。
けれど、一番の理由はやっぱり、兄のような別の誰かに会うことに恐怖を感じていたこと。
兄の姿をした得体の知れないナニカ。そう見えてしまった事が心のどこかにずっと引っかかっていて、どうしても自分から病院に足を運ぶことができなかった。
しかし、久しぶりに部活動もなく一日お休みの日、母にお見舞いに行こうと誘われ断ることも出来ず、ついていくことになってしまった。
「……はぁ」
兄が入院している病院は隣町にあるそこそこ有名なところだ。そこの結構立派な個室に入院している兄は、一時は命の危機に瀕していたなんてとても信じられない程元気になっていた。
母と兄が楽しそうに会話しているのに混ざるでもなくぼうっと聞いていると、何やら何かを始めるとかで大変盛り上がっていたのを覚えている。
そうしてしばらくすると、いつの間にか兄と二人きりになっていた。
母はどこに行ってしまったのかわからないし、直前まで二人が何を話していたのかもわからず気まずい思いをしていると、兄から声をかけてきた。
「迷惑をかけてしまって、本当にすまない」
確かこんなようなことを言っていたと思う。私に対する謝罪の言葉だったのは間違いない。
これまでもたくさんの迷惑をかけてしまっていたこと、その上で今回の入院騒ぎだ。妹が部活で部長になったり大変な時期に余計な心配をかけてしまったと、心の底から申し訳なく思っているのだとか。
「兄として申し訳ない、情けないと思うよ」
そう言って頭を下げる兄を見て、「ああ、この人はやっぱり別人なんだ」と確信したのはこの時だったと思う。
よく様子を窺えば、嘘を吐いているわけでも取り繕っているわけでもないことはわかる。
だからこそ目の前の光景に違和感しか感じられないし、心のどこかで自分が考えすぎているだけなんじゃないかとか、何か思い違いをしているんじゃないかと信じていた部分を砕かれたような気持になってしまったんだと思う。
「……あなたは、誰なの?」
そんなことを言うつもりなど全くなかった。今にして思えば、ほとんど反射的に出てきてしまったんだとわかるけれど、当時はその言葉を口にした瞬間に自分でも驚いてしまったくらいだ。
それ程自然に口から零れた言葉に、当然兄も驚いていた。“鳩が豆鉄砲を食ったような顔”というのはああいう表情のことを言うのだろう。今思い出してもすごく可愛らしくて笑ってしまう。
大変だったのはその後だ。
実の妹から突然「あなたは誰」なんて言われて平然としていられる人間がどれほどいるだろうか。
顔色を真っ青にして自分は間違いなく“進藤彼方”で、私の兄なのだと何度も何度も説明をしてくれたのだけれど、正直始めの内は支離滅裂すぎて聞けば聞くほど不自然な部分が増えていってしまっていた。
必死な様子であたふたと身振り手振りを交えながら弁明しているのを黙って聞いると、この人はほとんど嘘を吐いていないんじゃないかと気付いた。
不自然な部分が多いことは確かだけれど、それは何か大きな秘密のようなものがあって、それを誤魔化すために“自分が進藤彼方であること”と“進藤あかねの兄であること”以外は何一つはっきりと説明することができない様に見える。
多分そう。嘘を吐いているのではなくて、話すことができない部分を話していないだけ。
一体その秘密とはなんなのだろう?
「……お兄ちゃんは私に謝ってくれたけれど、それが嘘じゃないって信じてもいいの?」
そう兄に聞いた時、自分でも信じられない程自然に目の前の人物を“お兄ちゃん”と呼んでいた。
今でも不思議なのだけれど、あれだけ不気味で怖いと思っていた人をお兄ちゃんと呼ぶなんて、私も十分混乱していたということだろうか。
この時の兄の返答は、さっきまであれ程慌てていたのにもかかわらず、しっかりと私の目を見ながら「嘘じゃない。あかねや母さんに迷惑をかけてしまっていたことを申し訳ないと深く反省しているのは、心からの本音だと誓う」と、はっきりとしたものだった。
何がどうしてそうなってしまったのかは全くわからないけれど、“物心つく頃には家族ですら敬遠して引き篭もっていた人間が、有り得ない程女性に寛容になっている”部分にさえ目を瞑れば、家族思いの誠実な人物に見えなくもない。
思考がぐるぐると巡る中、何が間違っていて何が正しいのか曖昧になってしまっていたけれど、先程自分でお兄ちゃんと呼んだこの人が、私の知らない誰かなのは間違いない。
でも、それでも、目の前で真剣な表情で私を見つめるこの人が、赤の他人であるとはどうしても思えなくなってしまっていたのも、間違いないことだった。
正直な話、退院したお兄ちゃんと同じ屋根の下で暮らし始めた今でも、どうしてあの時あんなにもあっさりと、手のひらを反すようにお兄ちゃんのことを信じる気になったのかわからないままでいる。
客観的に見れば気が触れてしまったのではと疑われてもおかしくはないと自分でも思う。
けれど、もし無理矢理にでも理由付けをするならば、“妹としての勘”が働いたのではないかなんて考えてしまったりもする。
あの時母が言っていたのと全く同じなのは少し業腹だけれども、それ以外に言葉が見つからないのだから仕方がない。
なんだか拍子抜けしてしまったというか何というか。あれ程悩んでいたのが嘘のように兄に対する蟠りのようなものがものがなくなってしまって、その後は面会時間が終わるまでずっとお喋りを続けていた。その時お兄ちゃんが高校に通おうと計画していると聞いて、腰が抜ける程驚いたのを覚えている。
時間が来て病院を後にし、帰宅してから改めて母と話し合った。
正直にその時の気持ちを母に打ち明けると、母は静かに微笑みながら頭を撫でてくれた。
その時にようやく私と母は、大事な家族を失ったことを認めて、新たな家族を迎え入れる決意をしたんだと思う。
とっても悲しかったし、この気持ちがなくなることは生涯ないと思う。
世界で唯一の、たった一人の兄を失ってしまった事は消えようのない事実なのだから。
「――あかねー!いい加減あがるよー!」
「はーい!」
気が付けば結構な時間が過ぎていたようだ。
今日はお兄ちゃんの生まれて初めての入学式の日。
グラウンドの端、部活棟の前に集まり始めている部員たちの背中を追いかけるように走り出した私は、家に帰ってからお兄ちゃんの話を聞けるのを楽しみに、走る速度を上げた。
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