退院と初めての帰宅
日が明けて翌日。
自身が確実に若返っていると強く自覚させられる体験を経て、今日僕は晴れて退院となる。
昨日提出した精液の一部は改めて検査され、結果に問題が無ければ無事にお国の為に利用されるらしい。
義務を果たした後は、自分で言うのもなんだが、憑き物が落ちたかのように開き直ることができた。
死ぬほど恥ずかしくて、できれば二度とやりたくないという本音を隠してしまえば、世の為人の為になる素晴らしい善行であることは間違いないのだ。
採精室に入って精液を提出するのだから、そこでナニをしていたかなど周囲の人間にはバレバレなわけだが、別に直接見られるわけでなし、自分以外の男性だってしていることだ。
以前の検査で優秀な精子を持っているとわかっているのだから、恥ずかしいなどと言ってそれを利用せずに腐らせておくなど勿体ないではないか。
採精室へと向かうまでに向けられる視線と、ナニを終えた後の羞恥心にさえ耐えればどうということもない。
それが例え毎週一回以上こなさなければならないものだとしても、大したことではないのだ。
少なくともあの採精専用の服だけは二度と着用しないと、固く誓って病室を出る準備を終えた。
「かなちゃん、忘れ物は無い?」
迎えに来てくれた母が病室の前で僕を待ってくれていた。
目が覚めるまでの一週間と、目が覚めてからの一週間。合わせて半月もの間入院していたので、荷物はそれなりにある。大きめのボストンバッグに詰め込まれた僕の着替えと日用品は、肩にかけた部分が食い込むほど重たくなっている。
「多分、大丈夫だと思う。大事なものは母さんに預けてあるし、忘れて困るものも無いしね」
財布やスマホなどの貴重品は、母が今朝病室へ顔を出してくれた時に予め預けたので忘れる心配はない。
その他は暇つぶし用の小説や携帯ゲーム機、お風呂セットに洗面道具、後は着替えと下着類。
うん。改めてチェックしてみたが、しまい忘れもないようだ。
最後にもう一度病室内に残したものが無いか確認し、母と二人で病院の正面玄関へと向かう。
すると、何故か玄関の周囲に人だかりができていた。
「あれ、なんだろ?有名人でも来てるのかな?」
不思議に思って母にそう聞いてみると、ここまで人が集まるほどの有名人が来るなんて話は聞いていないそうだ。
しかし、あれだけの人が集まっていると、簡単には通してもらえそうもないな。
そこそこ離れた位置から人だかりを見ているのに、熱気のようなものがこちらまで届いている。
玄関を出た先には職員の方々も集まっているようで、どんな人を迎えるのかはわからないが、相当なVIPのようだ。
「母さんどうする?あれだと出るのに相当苦労しそうだけど……」
「そうねぇ……車までちょっと歩くことになりそうだけれど、裏から出ましょうか」
母もあそこを通るのには苦心しそうだと判断したのだろう。
少し歩くことにはなってしまうそうだが、あんな大勢の人の群れを突っ切っていくよりは余程マシなのですぐさま同意して歩き始めた。
僕が入院していたこの病院は、市内でも一番大きな病院だそうで、普段ならばどこを歩いていても誰かとすれ違うくらいには人が多い。
しかし、何故だか今日はすれ違う人どころか、先程玄関で見た人だかりが嘘のように誰一人姿を見かけない。
まあ、あんな風に一か所に人が集まっているんだし、偶々見かけないだけで特段おかしなことでもないだろう。
お世話になった川上先生や桜井さんなど、退院前に挨拶しておかなければとナースセンターを覗いてみたが誰もいなかったので、タイミングが悪かったと諦めた。
手押しの両開きになっている金属製の扉を開き、久しぶりに院外へと出る。
入院中は色々あったので、結局退院する今日まで外に出る機会はなかった。
「それじゃあ、駐車場までは少しあるけれど、行きましょうか」
あと一週間と少しで四月になる。
春とは言えまだまだ空気は冷たいが、風はなく日差しもあるので歩いている内に気にならなくなった。
肩にかけたボストンバッグが重くて少し邪魔だけれど、このまま歩いて帰るのも悪くないと思う。
まあ、そんなことをしたら道行く女性達から声かけられまくって、大変なことになりそうなのでやらないが。
「……これが母さんの車?」
「そうよ?」
程なく駐車場まで辿り着くと、そこに駐車されている母の車の大きさに驚いた。
前世で見た事のある車種と似ているが、同じものではないようだ。エンブレムも若干違うし、記憶に間違いが無ければ、こんな派手なピンク色をしているのは見たことが無い。
家は三人家族のはずだから、こんな何人も乗れそうな大きな車は必要なさそうなものだが。母の趣味なのだろうか。
「うーん、色はちょっと派手だけど、でかくてかっこいいね」
「まあ!」
車を褒められたのが余程嬉しいのか、荷物を積むのも忘れてどこが気に入ったのか語り始めてしまった。
自分の好きなものを褒められて嬉しいのは僕もわかるので、このまま大人しく聞いていたいのは山々なのだが、別に車に乗ってからでも話は聞けるし、とりあえず乗り込ませてもらって出発しようと母に告げる。
病院から家まではそれ程距離があるわけではないらしいので、短い時間でも母とのドライブを楽しみにしていると併せて言えば、更に笑顔を深めて喜んでくれた。
自分の母のチョロさに若干不安を覚えるものの、こうして喜んでもらえることならばいいだろうと思い直す。
僕が助手席に乗り込んで、肩に下げた荷物は後部座席に。
シートベルトを締めてから間もなく、母の運転する車が家に向かって出発した。
母が運転席で楽しそうに話すのを聞きながら、助手席から見える街並みに視線を向けていると、記憶に残っている過去の地元の風景とは似ても似つかないはずなのに、何故か雰囲気だけは懐かしさを感じてしまう。
道路を走る他の車も道に並ぶ建物も、歩道と車道を隔てる街路樹も何もかも似てはいても別物だ。
懐かしく感じるものなどないはずなのにそう感じてしまうのは、どういう心理からくるものなのだろうか。
「――この体に残る記憶、とか?」
小さく呟いては見たものの、荒唐無稽であってもあり得なくはないというのが正直なところだ。
それくらいのことが起こっていたとしても別に不思議でも何でもない。
それ以上の不思議な体験をしているのだから、仮にこの体に記憶や意思が残っていたとしても受け入れられるだろう。
まあ、懲りずに驚きはするだろうがね。
市内を横断する国道を外れ、街の中心から少し外れた地区までくると通る車の数も減り、住宅の並ぶ静かな風景に移り変わる。
都会ではないが田舎でもないという、日本にはいくらでもある街の一つ。それが僕がこれからまた生き直す場所になるわけだ。
「そろそろ着くけど、どこか寄りたいところある?」
「ううん。このまままっ直ぐ帰っちゃって大丈夫だよ」
病院を出てから既に30分程経っているだろうか。
段々と住居の密集具合も疎らになってきており、視界に映る田んぼや畑の割合が増えてきた。
「了解っと」
“エイトテン”という名前のコンビニを通り過ぎ、いよいよ実家に辿り着く。
途中見たコンビニやスーパーの名前も、前世のものと微妙に似たものだったけれど、こっちの世界ではどう略して呼んでいるのかが気になるところだ。
「――ってぇ!」
でかっ!家がでかい!
先程からしばらく同じ家のものと思われる塀の脇を進んでいるなと思っていたが、まさかそれが自分の家だとは思わなかった。
二階……いや三階建てか?門だってこれ僕の身長の倍以上あるし、どこのお貴族様の庭園だよってくらいに庭が美しい。
てか敷地どこまであるんだよ!
確かに経済的な不安は無いとは聞いていたけど、そりゃそうでしょうよ!これだけでかい家に住めるくらいなんだから!
「今日はお手伝いさん達も皆かなちゃんの退院祝いに来てくれてるから、良かったら顔を出してあげてね?」
「う、うん……」
家の敷地内に入ってからも少し走らせなければならない程ガレージが遠くにあるとか、季節柄たくさんの花が咲き誇っている花壇の数々とか、見間違いじゃなければ家の前にはこれまた立派な噴水があったりとか……。
まあこれだけでかくて色々ある家なんだからお手伝いさんも必要だろう。
さも当然のように何台も高級そうな車が止められているガレージを出てからも、実家のあまりの変わりように驚きすぎて、曖昧に返事を返すことしかできなかった。
いやいやいや。
いくら男性が優遇される世界だからって、それだけでこんなことになるか?
多少暮らしが楽になってて、僕がアルバイトする必要がなくなってるくらいの想像しかしてなかったけれど、これはもう富豪とかそういうレベルじゃないか?
「――そっ、そういえば母さんって、仕事何してるんだっけ……?」
僕の家族は前世と同じく母と妹の二人だけなのは確認している。
そうなると、男の僕が生まれたことで莫大な資産を築くことができたか、若しくは母さんが何か物凄く稼げる仕事に就いているかのどちらかだろうか。
あとは母さんの実家が元々資産家とか?
その可能性も十分にありそうだが、だとしても理解しがたいのは変わらないので一旦置いておく。
「あら。かなちゃんはお母さんの仕事なんて興味無いかと思ってたのに、気になるの?」
うっ……。痛いところを突かれてしまった。
この世界での過去の記憶をもたない僕は、以前の自分がどのような人間だったのかがわからない。
全く同じように振舞うことができないことは当然だと思っているし、それでもこの“生まれ変わり”という秘密を守ると決めたからには、なるべく怪しまれるような言動は避けたいところだ。
今のところは僕が変わってしまったことを肯定的に捉えてもらえているが、あまり下手なことをして痛い腹を探られてしまってはどんどん苦しくなっていくだろう。
「い、いや、その……ぼ、僕ももう高校生になるし、将来のことを考えると母さんがどんな仕事してるかっていうのもすごく参考になるかなー、なんて……」
可能な限り不自然でない言い訳を必死に考えて出てきたのがこれだ。
自分でも何故そんなことを今、唐突に聞いたのか問われてしまえば答えに窮することは知っている。
でもこれ以外浮かんでこなかったのだから仕方がない。
アドリブが苦手なんだ僕は。
「ふふ。そんな風に言ってくれるなんてお母さん嬉しいわ……でも、私の仕事ってちょっと特殊というか、かなちゃんの参考になるのかはわからないんだけど……」
どうやら上手く誤魔化せたようで、内心ほっとしたのも束の間。
母が教えてくれた事実に、僕は再び固まることになってしまった。
「お母さん、大学時代に友人と一緒に興した投資会社の代表をやってたんだけど、なんだかそれがすごく上手く行っちゃってね?大学を卒業する頃には幾つか会社を吸収するくらいになっちゃってて……今では30社以上の巨大企業グループにまでなってて、そのグループのCEOっていうのをやってるんだけど……参考になるかしら?」
「…………」
いや、母さんには申し訳ないが、参考になるかならないかで言えば全く参考にならない。
え?CEOってあれだろ?最高経営責任者とかいう、何だかよくわからないけど偉そうなあれ。
日本ではあまり一般的ではなかったように記憶しているが、こちらの世界ではそうでもないのだろうか。
「まあ、今ではグループの中でも何社かしか経営には口出ししていないし、殆どお飾りのようなものなんだけれどね?お母さんはもう代表なんて似合わないし、後進に譲った方がいいって言ってるのに、創業当時の仲間がなかなか許してくれないから困ってるのよね~」
「明日の晩御飯に何を作るか迷ってるのよね~」くらいのノリでとんでもないことを言っているが、どうやら僕の母さんは物凄い人物のようだ。
おそらくだが、会社名やグループ名なんかもかなり有名であるに違いない。
そんなグループを束ねる地位にいる母さんが有名でないなんてあり得ないだろう。
「……そ、そそ、そうなんだぁ~!母さんはやっぱりすごいなぁ~!」
内心の動揺を隠しきれず、誤魔化しようのないくらいに声が震えてしまった。
兎に角、母さんの話からすると、この豪邸を建てたのは母さんの稼ぎによるもので間違いなさそうだ。
もう驚き慣れたと思っていたけれど全然そんな事はなかったようで、本気で腰が抜けるところだった。
「そう?お母さんすごい?……えへへへ♡」
目の前で照れている人物が大企業グループのCEOだと聞いた後だと、これまでのように素直に可愛いだなんて思えないが、とりあえず喜んでいるようなので良しとしよう。
茫然自失と言うと大袈裟かもしれないが、ガレージから玄関までの道程を覚えていないくらいには意識が飛んでいた。
「「「お帰りなさいませ。彼方坊ちゃま」」」
そして玄関を入ってすぐのホールに並ぶ“お手伝いさん”と母さんが呼んでいた大勢のメイドさん達を見て、戻りかけていた意識がまたどこかへと飛んでいくのをはっきりと感じた僕は、家のことについて深く考えるのはやめようと新たに誓いをたてたのだった。
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