生きていくことへの覚悟

 ――入院生活四日目。


 あれから様々なことがわかった。

 こちらの世界で目覚めてからまだ数日だが、毎日のように驚くことばかりで心休まる時が無い。


 まず、繰り返しになってしまうがこの世界は男女間の人口比率が異常なほど偏っている。

 男女比なんと1:100だ。日本では1:120だと言うのだから開いた口が塞がらない。

 その原因については未だ研究中らしく、詳しいことは何もわかっていないようだ。


 そして、それによる人口減少問題は深刻なところまできている。

 科学技術を発展させることで、人工授精技術の高度化、それによる出生数の増加など、現状人口が減少するペースを緩やかにすることはできているが、根本的な解決ができなければ、遅かれ早かれ人類に未来はないだろう。

 なんとも世知辛いというか、生々しい問題だ。

 一般市民にすぎない僕にどうにかすることができるような問題ではないが、全く関係ない問題というわけではない。むしろ、結構重要な役割というか、責任が課されているので、無視することはできない。


 では、僕に課せられた責任とは何か。

 それは、精子の提供だ。

 男性の数が異様に少ないこの世界では、男性の提供する精子によって可能な限り子供を産む以外にないのだ。

 そもそも男女間での人口比が狂っている為、前世の世界のように一夫一妻での子作りだけでは人口の減少に歯止めがかからない。

 その為の精子提供なわけだが、これを知った時には思わず頭を抱えてしまった。

 男性は、満十五歳を迎えた頃に検査を受け、問題が無ければ年に三回以上の採精義務を負う。

 これは採精が可能な限り提供が義務付けられているが、身体または精神的な健康に深刻な問題が発生した場合、またはその恐れがある場合にはこの限りではない。

 要するに、健康である限りは提供を続けてねってことだ。

 これは男性に支払われる生活保障費や特別給付金の査定などにも関係しているので、ただ嫌だからと義務を放棄するのは得策ではないようだ。

 母や川上先生に確認したところ、僕も既に採精と提供を始めているらしい。

 この体は年齢的にも身体的にも、精は有り余っているので問題ないが、精神的には辛いものがある。

 なにせ、僕はつい最近まで還暦を間近に控えた枯れた男だったのだ。

 自慰すらもう何年もしていない人間に、「精子採って提供してね」と急に言われて、素直に「わかりました」と答えられる奴がどれだけいるだろうか。

 ……少なくとも、僕は腹を決めるまで一日かかったよ。


 それではこれからどうするかについて。

 この、表面上は前世の世界によく似た異世界で、僕はこれから生きていかなくてはならない。

 この数日色々考えたが、元の世界へ戻る方法どころか、戻れるかすらわからない状態で、もう一度生まれ変われると信じて命を投げ出すことなど出来るはずがない。

 それならいっそ、この第二の人生を楽しもうと改めて決意したわけだ。

 目覚めた当初の混乱した状態で一度そう考えたが、改めて考え直してみてもそれ以外ないように思う。

 どうあがいても平凡な僕にはどうすることも出来そうにないからね。

 また奇跡でも起きて元の世界に戻る、なんてことでもない限りはここで一生懸命生きていくしかないのだ。


 そして直近の問題である、今後も家庭学習を続けるのかについて。

 お見舞いに来てくれた母や妹のあかねに聞いてみたところ、どうやら以前の僕は典型的な引き篭もりだったようだ。

 この世界の男性は、先程述べたように生活保障費や給付金が支給される為、例外的な問題でもない限りは引き篭もりっぱなしでも生きていける。

 過去には男性が不当に扱われるような時代もあったようだが、そこは現代。

 すでに20世紀中頃には男性の権利回復や、保護の観点から様々な法律や制度が作られ、少なくともこの日本では、男性が安心して暮らせるような環境づくりを積極的にしている姿勢が見られる。

 しかし、今後この世界で第二の人生を謳歌しようと考えている僕は、このまま引き篭もりを続けるなんてことはしたくない。

 だって、それではまた青春を無駄にしてしまうではないか。


 前世での僕は、青春時代を楽しむことができなかった。

 中学にあがる直前に父を亡くし、一人で家庭を支えなくてはならなくなった母の負担になりたくなくて、兄である僕はどんなことも我慢してきた。

 高校に入学してすぐ、家計を助けるためにバイトを可能な限り掛け持ちして働き始め、妹の将来の為に大学への進学費用を貯めるため、卒業後は進学せず就職して母と共に家を守ってきた。

 妹が結婚して子供ができる頃には三十路も半ばを過ぎ、忙しいばかりで稼ぎの少ない仕事のおかげで自分の恋愛などにかまけている余裕はなかった。

 母にも妹にも散々「自分のことをもっと考えろ」と言われてきたが、僕にとっての幸せは家族の幸せであったと信じていたし、還暦を意識する頃になっても自分のしてきたことに後悔したことなどないと思っていた。


 だが、こうしてもう一度生き直すことができるのであれば。


 どうやら僕は後悔塗れで前世を終えたらしい。

 思い返してみればあまりの自分の不器用さに、顔を覆い隠したくなるような気分になる。

 家族の中でも唯一の男であったし、意地みたいなものがあったのだと思う。

 亡き父に代わって家族を幸せにしなければならない、というような強迫観念めいた感情で何もかもを決めてきてしまったのだから、それは後悔も残るだろう。

 ならば、この降って湧いたような第二の人生では、もっとうまくやってやろう。


 この世界でも家に父はいない。

 男性の少ない世界で、結婚できる女性がほとんどいないのだから当然なのだが、前世と違って、家庭の経済状況は悪くないらしい。

 何故かと言えば、男の僕が生まれたおかげで、支援金を受給できるからなんだとか。

 男性の保護に力を入れているだけあってその支給額はそれなりにあるようで、お金の面で心配するようなことはなさそうだ。もちろん、無意味な贅沢ができるわけではないけれど。


 と言うわけで、僕が引き篭もりを続けるつもりがなく、家庭に経済的な余裕があることで後顧の憂いもない。

 ここまで御膳立てされているのに、自分の青春を諦める必要などないだろう。

 その為には何としても共学校へ入学し、失われた春を取り戻す必要があるわけだが、これにもいくつか問題がある。


 一つは共学校が存在するかどうか。

 結論から言えば、存在はするが、存在しないと言ったところか。

 どういうことかと言うと、この世界の男性はどうやら異性に対して強い嫌悪感を抱いているようなのだ。

 簡単に言えば、この世界に生まれた男性は先天的に女性恐怖症を患っているようなものらしい。

 そのおかげで、共学校はあるがそこに男性が入学することなどなく、実質全ての共学校が女子校のようになってしまっているのだとか。

 なんとも理解しがたいことであるが、男性の持つ女性に対する生理的嫌悪感は非常に強く、例え相手が肉親であっても耐えられない程で、“この世界に生まれた以前の進藤 彼方”君が母や妹に対して冷たい態度をとっていたのもそれが理由のようだ。

 だからこそ、今の僕の態度が嬉しいらしくて、お見舞いに来る度に過剰なスキンシップを受ける羽目になってしまっているのだが、それは今は割愛する。


 二つ目は、この世界での貞操観念。


 これは非常に頭の痛い問題でもある。

 どうやらこの世界の女性は、とても男性が好きらしい。

 というか、明け透けに言うならば、この世界の女性は皆スケベらしいのだ。

 女性にとって、通常、性の対象には男性がくるわけだが、その男性からは先天的に嫌悪感を持たれてしまっている為、近付こうにもその手段がない。

 仮に近づくことができたとしても、その先に進むことができる相手男性などほぼ皆無と言っても良いのだ。

 当然その想いを拗らせることになるだろう。

 拗らせすぎてしまい、理性を失った女性に襲われる男性が少なくないことも問題だ。

 それによって一層男女間に溝が生まれ、大きくなっていく。

 男性にも多少性欲のようなものはあるらしいのだが、そうした理由もあって、その対象は同性へと向かっているのだとか。

 どんだけ歪んでんだよと悪態を吐きそうになるが、いや、それを知った時には実際に悪態を吐いたが、そういうわけで、前世の世界での貞操観念では考えられないような逆転が起こっている。


 これは母や妹に言われて初めて自覚できたのだが、普通に入院生活を送っているだけなのにも係わらず、病室を一歩出れば常に纏わりつくような視線を感じるのだ。

 そしてその視線を送ってくるのは皆女性。

 川上先生や、看護士の桜井さん他、お世話になっている病院の職員さんを始め、他の入院患者も通院や見舞いで訪れる人も、ほぼ全員例外なく僕を見てくる。

 母や妹に気付かされるまでは多少の違和感としてしか感じなかったが、二人して妙に入院生活で嫌なことはなかったかなどとしつこく聞いてくるものだから問い質してみれば、僕のような冴えない陰キャ男ですら女性にとっては十分性の対象になるのだとか。

 そう言われてしまえば、日々感じる違和感も、視線の意味もわかってしまう。

 滅多に見ることすらない男が目の前に現れたことで、日々悶々と抑えることしかできなかった願望が、視線や態度に表れてしまうのだそうだ。

 母に「多少慣れている私でもかなちゃんに対しての想いを抑えるのに苦労しているのだから、他の女性たちはもっと大変だと思うわよ」と言われた時に僕がどれだけ気まずい思いをしたか、わかってもらえるだろうか。


 そういうわけで、例え通える共学校があったとしてもそこにいるのは女性ばかりで、そんなところに男の僕が放り込まれてしまえばどうなるか。

 おそらくだが碌なことにはならないだろう。


 最後に、僕が童貞であること。


 うん。

 いや、何を言っているんだと思われるかもしれないが、これは僕にとっては大きな問題なのだ。

 前世での60年近い人生でも家族以外の異性とはほとんど接点などなく、恋愛経験皆無の童貞拗らせ喪男の僕にはこの世界はレベルが高すぎる。

 なにせ出会う女性のほぼ全てから性的に見られているとわかってしまった現在では、正直どんな顔をして他の人と接していけばいいのか、その取っ掛かりすらわからないのだ。

 要するに物凄くモテるということで間違いないのだろうが、普通の恋愛すら手に余る僕にとってそんなものは過剰にも程がある。

 もちろん僕だって以前はモテてみたいというような人並の願望はあった。

 しかし、これはモテるとかいう次元を逸脱しすぎている。

 別人のように美人になってしまった母や妹にすら照れてしまうのに、こんな環境で同世代の異性に囲まれた学生生活を送るなんてのは僕には無理だ。


 などと問題点を挙げてみたものの、結論からすれば“共学校は存在するし、そこに(僕の貞操の)安全が確保された環境さえ作ることができれば、後は自分の気持ち次第”という答えになってしまったわけだ。

 もちろん安全な環境を作ることが簡単というわけではないが、それは不可能というわけでもない。

 なにせ日本政府はかねてより男女間の恋愛について積極的に推奨しているのだ。

 その理由について調べてみれば、出てきたのは“直接性交による男児出生率の増加現象と、恋愛感情の多寡が与える影響について”という小難しい論文のようなもの。

 それによると、男女が恋愛を経て結ばれ、直接性交によって妊娠すると、男児が生まれる確率が増えるということらしい。

 何を馬鹿なと僕も思ったが、どうやら極少数ではあるものの、恋愛をして結ばれる男女というものもなくは無いのだとか。

 そうして結ばれた夫婦が子供を授かると、どういうわけか男の子がよく生まれてくるらしい。

 科学的に証明されたものではないが、正に藁にも縋る思いなのだろう。世界的にも男女間での恋愛はかなり強く推奨されていて、なんでもいいから男性の数を増やしたいという思惑が透けて見える。

 そうした背景もあって、例えば僕が急に「共学校へ通いたいので、安全な環境を作ってください」と訴え出たとしても、受け入れられる公算は高いと思う。

 まあ、確実にそうなるというわけではないけれどもね。


「あ゛―――……結局僕がどうしたいかだけか……」


 枕を胸に抱えてベッドへと倒れこむ。

 この数日、考えてきたのはほとんど同じようなことばかりだ。

 もちろん目を覚ました直後や、その翌日なんてほとんど頭の整理なんかついていなかったし、それから数日経った今でも、しっかり整理がついたとはとてもではないが言えないと思う。

 そんな中で考えてきたのは、『自分がこれからどうしたいのか』についてばかりだ。

 何度も繰り返し同じようなことを考えてきたけれど、浮かぶのはいつも同じ答え。


「……覚悟決めて、妥協を捨てて生きていく……」


 これが僕の考える“後悔しない”生き方だ。

 具体的に何がどうなんてないけど、少なくとも“あれは嫌だ”とか“これは面倒だ”なんてことばかり考えて逃げていては、前世の繰り返しかそれ以下にしかならないだろう。

 青春を取り戻したいのならば全力で青春を追いかけ、恋愛がしたいのにそれから逃げるようなことをしない。

 そう覚悟を決めて楽しく一生懸命生きて、最期を笑って迎えることができれば最高だ。

 例え想像したものとは違う最期が訪れたとしても、そこに後悔が無ければ今のように惨めな思いをする事は無いと思う。

 だったら後は覚悟を決めるだけ。

 苦手だとか経験が無いからとか言い訳ばかりを言うのではなく、自分がどうしたいのか、それを叶えるために何ができるのかを真剣に考えて行動する方が余程生きていて気持ちがいいだろう。


「――よっし!」


 体を起こしてベッドから降りる。

 覚悟さえ決めてしまえば、やることはもう決まっている。


「まずは報・連・相だよな」


 充電器に繋がれたスマホを手に取り電話をかける。

 かける相手はもちろん母親だ。この世界で頼れる大人は母一人なのだから仕方がない。

 少しだけ窓を開ければ、夕刻の冷えた空気が病室へと流れ込んでくる。


「――あ、母さん、今大丈夫?」


 何度かのコール音の後に母親と電話が繋がり、僕は今後について考えていたことの報告と、それについて何ができるかの相談を始めた。

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