⑸
「店長、私は有休を申請します」
研修終了後、俺は店舗に赴いて、店長に有休申請書を突きつけた。椅子に座っていた店長は、店にいないはずの俺を見て驚いたが、ペラの紙に目を移すと怪訝な顔をした。
「渡君、これは受理できないね」
店長は神妙な顔でそう答えた。
「どうしてですか?」
俺は間髪入れずに聞き返した。
「まず、理由がいけない。何だい?この「私用のため」というのは。サンカイでは冠婚葬祭や病気の時に有休を認めるというルールがあって、私用では有休を上げることができないんだよ。それに、新人が有休を申請したことはこれまでにない。だから、君に有休をあげることはできないんだ」
「そうですか。なら労働基準監督署に相談させてもらいますね」
俺は語気を荒げた。店長は、そんな俺を見上げながら、背もたれに体を預けた。
「渡君、君は社会人になって日が浅いから分からないのも無理はない。ただね、社会人ならば会社のルールぐらいは守ってもらわないと困るよ」
店長はあくまで冷静だった。それが無性に癪で、俺は正論を振りかざした。
「会社のルールが国のルールよりも勝ると言うのですか?冗談はよしてください。繁忙期でもないのに、有休の取得を妨げることはできません。それに、有休を取得するのに理由は必要ないと、厚生労働省が見解を示していますので。管理職ならば、会社のハウスルールよりも厚労省のホームページを見た方が良いですよ。では、私は長時間労働で疲れているので、お先に失礼します」
俺は早口で反論すると、速やかに事務所を出て帰路についた。これ以上、有休について店長と話をする気はない。「会社のルール」という言葉を使っていた時点で、俺と店長の意見が一致しないのは目に見えている。どうせ、上司という立場を武器に、ああだこうだと難癖をつけてくるに違いないのだ。
俺は安心して、且つ、ちょっとした達成感を胸に帰ることができた。もし、上司をぞんざいに扱ったとして有休が握り潰されたり、万が一クビを切られたりしたら、その時は本当に労働基準監督署に行って訴えるだけだ。
腹はすでに括っている。後顧の憂いは全く無かった。
「加藤さん高山さん、やってやりましたよ」
翌日、店舗に来るなり、俺は加藤さんと高山さんに有休を申請したことを報告した。
「おお、よくやった渡君。あとは、実際に有休が認められるかどうかやな」
加藤さんが、自分のことのように喜んで言った。
「認められなかったら、その時は労働基準監督署に行くだけですよ」
言っている内容は重々しいが、俺の心は、言葉と裏腹に身軽だった。ぶっちゃけ、もう有休を取れるかどうかなんてどうでもいい。俺は行動したことに意義を見出していた。
「じゃあ俺は、渡君に有休が当たる方に英世の魂を賭けよう」
高山さんはそう言うと、財布から千円札を取り出した。
「ええ、卑怯や山さん。当たらない方に賭けるなんてできんやん。あ、じゃあ俺は、渡君が将来幹部になる方に一葉の魂を賭けるわ」
俺が清々しい気分でいる傍で、何やら賭け事が行われている。
この人たちは、本当に面白いと思う。いつもこんな馬鹿をやって、笑って、心の内に何があろうと楽しくしている。
「ちょっと加藤さん、幹部は気が早いですよ。なれずに辞めるかもしれませんよ」
「ぇええ、ダメやぞ渡君。俺の一葉がいなくなってしまう」
ああ、幹部か。もし、本当に幹部になれたとしたら、俺は現場の意向を汲み取ることができるのだろうか。幹部になれば、今以上に金と向き合わなければならない。金と人のどちらかを迫られた時、俺は、この愛されるべき人達を選ぶのだろうか。
きっと、金を選べば大人と評され、人を選べば子どもと言われるのだろうと、俺は思った。
「おはようございます」
「おはようございます」
俺たち三人は声のした方を振り返った。そこには朝早くにも拘らず、人事係長の小堀さんが立っていた。
「朝早くにごめーん加藤君。忙しいところ悪いんだけど、ちょっと渡君借りて良い?」
小堀さんは申し訳なさそうに言った。
「え?あ、はい。良いですよ」
加藤さんは二つ返事で俺を差し出した。
「じゃあ渡君、商談室まで行こうか」
「あ、はい」
俺は、加藤さんたちに売場をお願いして、小堀さんの背中を追いかけた。
なぜ、このタイミングで小堀さんが来たのか。
思いつく理由はいくつかある。
セミナーで講師に迷惑をかけたことを咎めるため?店長に有休を突きつけたことを叱責し、有休は認められないと告げるため?或いは、その両方か。
「さあさあ、お腰をお掛けになって」
小堀さんは戯けた言葉遣いで俺を椅子に誘導した。俺は従うままに椅子に座ると、小堀さんはテーブルを挟んだ向かい側に座った。
「店長から聞いたよ渡君、有休を申請したんだって?」
「小堀さんは、有休を付与しないことを告げに来たんですか?」
俺の口調がつい攻撃的になった。小堀さんは会社側の人間だ。きっと、社会人とは斯くあるべしと教育しに来たに違いない、俺はそう思った。
「え?違う違う違う。君の有休は付与されるよ。何があっても、僕が間違いなく付与するから、それは心配しないで」
小堀さんの答えは意外なものだった。
「え?じゃあ何を言いに来たんですか?」
「今日は、渡君を心配して来たんだよ。何せ、一年目の新人が有休を取ることは滅多にないからね。相当な不満が溜まってるんだろうなと」
「ええ、まあ」
「何が不満だい?」
小堀さんにそう聞かれて、俺の心のタガが外れた。
「……そうですね。休みが少ないとか労働時間が長いとか残業が多いとか有休が取れないとか色々ありますけど、それらを引っ括めて、上の人たちは理想に固執して現実を見ようとしていないし、現場の人たちは現場の人たちで、会社のためにと異常なまでの努力を強いられているのに、それに抗わないでいることが不満ですね。ブラック企業ですよ、ここは」
「うーん。僕は他の業界でも働いたことがあるけど、どこもそんな感じだったよ。そりゃあ、どこも同じだから別にこのままで良いだろう、と言う訳じゃないけど、ここはまだマシな方だと思う。それに、会社のためを考えるのは当然だよ。ブラックは言い過ぎじゃないかな」
「小堀さん、僕は、この会社を貶めたいわけじゃないんです。ブラック企業と言うと、まるでその企業が悪いように捉えられますが、ブラックと揶揄される責任は、概念としての企業には無いと思っています。
企業というのは人の集合体です。人が寄り集まってできた組織です。だから、企業を構成する我々一人一人に責任がある。
ところが、当の我々にそのような認識はありません。過労死が出たら会社の責任。会社の不祥事は重役の責任で、待遇が改善されないのは上司の責任です。そして、上司の失敗は部下の責任。たとえ、その不始末の影響が自分に及んだとしても、当の本人は決して自分のせいにはしない。「全て会社が悪い」と言うのです。皆、一貫して受身なのです。
にも拘らず、ここには、仕事でしか人生を豊かにできない人間が多すぎる。だから、仕事を休めない。労働者の権利も主張しない。定時になっても進んで残業をする。
生活残業という恐ろしい概念があります。僕は、それは単に生活に必要な賃金を得ることだけが目的ではないと思います。そこには、精神的に満足する目的、日々が充実していると自ら錯覚させる目的もあるのではないでしょうか。皆、仕事をするために生活しているのです。仕事に寄生しているのです。そして、誰もそのような現状を変えようとしません。みんな受身だから、たとえ家が燃えていても火を消そうとしない。そうやっていつの間にか焼かれてしまう。
決して、会社がブラックなのではありません。ここには、燃え尽きた炭のように黒く染まった人間しか残っていないんです」
俺は言いたいことを言い切った。
話している内にすっかり熱が入り、支離滅裂なことを言った気がしたが、そんなことは気にならなかった。
小堀さんは、俺の言葉を聞いて、黙るわけでもなく何か話すわけでもなく、仕切りに頷いていた。
きっと、論理的でない俺の言葉を納得するのに時間を要しているのだろう。
俺は、申し訳ないことをしたと思った。
「渡君の不満は大体分かった。やっぱりずいぶんと溜め込んでいたみたいだね」
暫くして小堀さんが口を開いた。
「後出しジャンケンになるけど、僕からも話すことがあるんだ。実は今、僕と幹部の数名が、従業員の満足度調査に乗り出していてね。調査時期はまだ未定だけど、そう遠くない内にアンケートが行われると思う」
「え、そうなんですか?」
それは本当に思いがけない言葉だった。この会社でそんなことを耳にするとは予想だにしていなかった。
「うん。まあ具体的な改革や変更はその後だから、渡君にはまだ暫く迷惑をかけるけど、もう少し辛抱して欲しいなあ」
てっきり上から目線で説教をされると思っていただけに、小堀さんの一言は衝撃だった。
俺は次の言葉を失ってしまった。
「ただいま」
俺は帰ると横になった。
そして、小堀さんとの面談を思い返している。
俺は一人自立して行動する気でいたのに、いつの間にか小堀さんに言いくるめられてしまっていた。
それはまさに甘い誘惑。
俺は、すっかり骨抜きにされた気分だった。
「俺がやろうとしていることは、二番煎じなのか」
上の人がやってくれるなら、わざわざ俺が動く必要は無い。俺には力が無いのだから、会社を変えようにも時間がかかる。
だが、上の人ならばそう長くはかかるまい。
もしかしたら、今は、ブラックから脱却する過渡期なのかもしれない。その潮流に乗っていれば、いずれ俺の不満が解消され、会社の居心地が良くなることも或いは。
俺はそんなことを考えながら、いつの間にか眠りに落ちていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます