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「皆さん、おはようございます」
「おはようございます」
以前のように、サンカイ本社四階の会議室で、新入社員研修が開催され、久しぶりに同期全員が顔を揃えた。
初めに、能山講師はこう切り出した。
「ええ、皆さんがサンカイに入社して時間が経ちましたが、仕事にはもう慣れましたか?もう嫌だな、辞めたいなと思っている人はいますか?」
そう聞かれて、一体誰が答えるというのだろうか。案の定、講師の質問に誰も答えず、会議室はしんと静まってしまった。
だが、それは講師も重々承知のことだったようで、構わず話を続けた。
「例えば、あなた方が仕事をせずに毎月百万円もらえるとします。その状況で、あなた方は仕事を続けますか?それとも辞めますか?因みに、私は仕事を続けます。以前にもお話ししましたが、人は仕事の仲間と切磋琢磨することによって、一人の人間として成長することができます。それは仕事をしていないと得られない「最高の報酬」です。それを手に入れるために私は仕事を続けますが、皆さんはどうでしょうか?渡君はどうですか?」
能山講師は俺を指名した。きっと講師の頭の中では、俺に「続ける」と答えさせて、話を次に繋げようと考えているのだろう。だが、指名した相手が悪かった。
「私は辞めます」
「え、どうしてですか?」
能山講師は、俺の返答が心底意外だったようで、驚きの表情を隠せなかった。
「だって、仕事に拘束されている時間を自由に使えるんですよ?私は今、朝の七時から夜の六時まで拘束されていますが、それだけの時間を自由に使えるなら、読書をしたりゲームをしたり釣りをしたりと、色々なことができます。生活に困らないのなら、私は仕事をせずやりたいことをします」
正直、これは愚問だ。もしこれが研修という場で無ければ、多くの人間が辞める方を選択するだろう。続けると言うのは、仕事しかやることの無い人間の所業だ。
「仲間との切磋琢磨がなくなるんですよ?成長する機会がその分失われるんですよ?」
「成長に関しても同じことです。仕事に拘束されている時間を読書や資格の勉強に使えば十分成長できます。それに、仕事をしていれば交流する人間は自ずと限られますが、仕事の拘束がなければ、交流を自由に拡大することも可能です」
仕事だけが成長の場では無い。仕事以外の場で成長する人はいくらでもいる。むしろ、成長する人は、そこで自分を磨いているのではないだろうかと、俺は思った。
「そ、そうですか。渡君は、仕事をしなくても勝手に成長しそうですね」
能山講師はまごつくと、質問を他の同期に投げた。
すると、他の同期たちは「仕事を続けて成長したい」と、空気を読んで答えたので、講師はその意見を取り上げて話を進めた。
「ええ、皆さんの中では、お金に困っていなくても仕事を続けて成長したい、という意見が多いわけですが、では、皆さんは主体的に仕事に取り組めていますか?浜部さんはどうでしょうか?」
「うーん、あんまり主体的に取り組めていないと思います」
「それでは成長することはできません。また、仕事をやらされている状態では、やりがいを感じることは難しいので、主体的に取り組むことが大事なのです」
浜部さんの答えをバネに、能山講師は得々と自論を展開した。それを見て、俺は怒りを覚えた。まったく、無責任にも程がある。
「あの、良いですか?」
「何でしょうか?」
能山講師が眉を少し顰めた気がしたが、俺は構わず続けた。
「私はこの半年、主体的に行動してきたつもりです。少なくとも、仕事が来るのを待っている瞬間などありませんでした。その過程で成長した部分もあるでしょう。しかし、私はやりがいを失ってしまいました。その上、会社の労働環境に不満を感じ、憤る一方なのですが、能山先生の言う成長とは、一体なんなのですか?」
「ええと、会社に不満を抱いているのは、渡君がまだ仕事をやらされている状態だからです。ですから、やりがいを失ったのではなく、まだ感じていないのです」
能山講師は滑らかに、俺の質問とはそぐわないことを答えた。どうやら理解が追いついていないらしい。
「あの、私の発言をねじ曲げるの止めてくれますか。私は、主体的に行動していると言ってるんですよ?主体的に行動した上で、その意欲を削ぐような社内の体制に不満を抱いているんです」
講師の言葉に、俺は間髪入れず反応した。段々と熱くなっているのが自分でも分かった。
「渡君がそう思っていても、客観的に見れば、まだ主体的と言うには足りないのです。もっと意識して行動してはどうでしょうか?」
一体、この人は何を言っているんだ、と俺は思った。主観でしか測れない物事をどうして客観から見ようとしているのか。そんなに俺の言うことが信じられないのか。
そもそも、俺の質問から話がずれていっている。こうなると何を言っても無駄だと、俺は諦めざるを得なかった。
俺の沈黙を納得と受け取ったのか、能山講師は咳払いをしてから、話を続けた。
「いいですか、皆さん。主体的に行動すると言っても、何の指標もなく好きなように行動してはいけません。我々は社会人なのですから、会社の経営理念に従って行動するべきなのです。サンカイの経営理念は覚えていますか?「私達は、会社の発展と個人の幸せを実現し、お客様の喜びと地域コミュニティの発展のために邁進します」です。経営理念は全文が大切ですが、特に「お客様の喜び」が肝です。皆さんは、これに従うことで、サンカイの一員として主体的に行動することができるのです」
「ちょっと良いですか?」
俺はイライラしながらまた噛み付いた。
「……何でしょうか」
自論の核心となる部分に水を刺され、能山講師は明らかに不満そうだったが、俺は言葉を紡いだ。
「我々新入社員が経営理念を念頭に踏まえて行動するのは尤もですが、この経営理念は要素が多過ぎて、共通の理解が得られずに一致団結することは難しいと思います。抜粋するくらいならもっと単純明快にするべきです」
経営理念が、会社の指標であるのならば、それは誰もが共通の理解に行き着く単純明快なものでなければ、従業員それぞれのベクトルが一致せず、会社として統率の取れた行動をすることができない。そのことについて、能山講師は理解しているのかをまず聞いてみたかった。
俺の質問はそれだけではない。
「それと、先輩社員が経営理念に則さない行動をしていた時、我々はどうすべきでしょうか?先日、あるパートさんが腰を悪くしたために辞めました。どこで腰を悪くされたのかは定かではありませんが、重い物を何度も何度も持ち運んでいたのは事実です。我々がもう少しその人を労って行動していれば、あの人が身体を損なうことは無かったのかもしれない。それを考えた時、従業員の多くは「個人の幸せ」について実践していなかったと言わざるを得ません。このような環境で、少数派である我々が経営理念に従って行動を取るのは難しいと思うのですが、いかがでしょうか?」
二つ目は、中島さんの退職についてだ。何も言わなかった中島さんにも責任はあるが、やはり、中島さんの苦労を見ようとしなかった我々にも責任はある。少なくとも、経営理念上ではそういうことになる。そんな理想だけを書き連ねた理念を、多くの人間が実践できていない現実を、俺は能山講師に突きつけたかったのだ。
「ええと、一つ目については、私はこの会社の人間ではないので何とも言えませんが、二つ目は、先輩社員が経営理念に沿った行動をしている時に、新入社員はどうすれば良いいか、ということかな?」
「まあ、はい。そうです」
俺は一つ目の質問が省かれたことに不満だったが、続きを聞いてみることにした。
「えっと、私は先輩社員の研修を請け負ってはいないんだけど、皆さんみたいな新入社員の研修は請け負っています。今はまだ少数派でも、これを続けていけばいずれは多数派になるから、それまでは、経営理念に即した行動をするという考えを持ち続けてほしいと思います。この答えでいいかな?」
「能山先生は、サンカイで講師をし始めて何年ですか?」
「ええと、五年かな」
「……そうですか。分かりました」
この講師は五年も時間を浪費して何も分かっちゃいない。それだけはよく分かった。
続ければいずれ多数派になるだ?馬鹿が。俺達が多数派の色に染まっていくんだよ。そんなことも見えなかったのか?この五年間の新入社員を悪戯に教育して啓蒙した気になっていやがる。
ただ飯ぐらいめ。
何が主体的に行動しようだ。何が経営理念に従おうだ。
適当なことを吹き込むのも大概にしろ!何もかもが綺麗事をただ並べただけでチグハグじゃないか。現実を見ず理想の字面しか追わないからそんなことが言えるのだ。
研修なんてものはどれもそうだ。真面目に聞いているのがアホらしく感じる。これを主催した会社も会社だ。よくこんな適当な連中に研修の内容を委託したものだ。
……いや違う。自分たちが言うのはマズイから、他所の他人に言わせているのではないか。
給料や肩書きよりも成長が大事?主体的に仕事をすればやりがいを感じられる?その主体性は、いかに効率よく作業が終わるか考えることで身につく?ふざけるな!こんなの、俺たちに「低賃金でコスパの良い社畜になれ」と言っているようなものじゃないか。
こんなものを信じては、自分が馬鹿を見てしまう。助けてくれるのは詐欺師ばかりだ。だから、誰かが助けてくれるのを待ってなんかいられない。口を開けていても、美味しい果物はいつまで経っても落ちてこない。欲しければ、自分から取りに行くしかないのだ。
俺はもう、研修という名の講談を聞く気になれなかった。
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