俺は、昼過ぎの暇なタイミングを見計らって、店長に辞表を出す算段でいた。

 しかし、生憎と店長は休みで、チーフの桜戸さんも休みだった。店長の机に辞表をそっと置くことも考えたが、店長がいないのでは無意味な気がした。

 そこで、俺は上長である加藤さんに辞表を渡すことにした。

「待て!待つんだ渡君!」

 加藤さんは手渡された辞表を見るなり、血相を変えて俺の双肩に手を当てた。

「もう決めたことですから」

「渡君早まるな!兎に角話をしよう」

 加藤さんは俺の言うことに耳を貸さず、俺の手をグイッと引っ張って歩き出した。自販機を経由して着いた場所は、何時ぞやの喫煙所だった。

「これでも飲むんだ」

 加藤さんはそう言って、俺に微糖のホットコーヒーを手渡した。俺は渋々それを受け取ると、プルタブを引いてコーヒーを口に流した。

 相変わらず苦い。

「やっぱり一昨日のことけ?」

 暫くして、加藤さんが口を開いた。

「まあ、そうですね」

 一日の勤務時間が長いとか、休日が少ないだとか、言いたいことは色々とあったが、それを加藤さんに言っても仕方ない。なので、俺は適当に相槌を打った。

「確かに、存在意義が無いって言われるのはきついよなあ。でも、渡君にはちゃんと存在意義はあるよ。だから……」

「加藤さん、俺に存在意義なんてものは無いんですよ」

 俺は黙っていられず、加藤さんの言葉を遮って話し始めた。

「想像してみてください。もし俺がこのままここを辞めたとします。そうなると、ただでさえ人手不足の青果部は、いよいよ業務の遂行が不可能になります。そうなった時、会社は俺を呼び戻すことに努めると思いますか?いいえ、そんなことはしません。ハローワークに募集をかけて、別の労働者を雇うんです。要は誰でも良いんですよ。俺がいなくなっても青果部は回ります」

 俺は言いたいことを言い終えて、コーヒーを一口飲んだ。俺達の間には沈黙が流れているが、俺の気分はいくらか晴れた。このまま会話が進まないのならば、コーヒーを飲み終え次第作業所に戻ろうと思った。

「ようし分かった!じゃあ俺も辞める!」

「……はい?」

 加藤さんの突然の発言に、俺は戸惑った。一体何を言っているんだこの人は。

「いやあ、俺も不満が結構溜まっとるげんて。それにさ、辞表を出したことがあるのは、なにも渡君だけやないげんて。俺もそうや」

「そうなんですか?」

「おう。何年か前に不満が爆発して、当時の店長に辞表を叩きつけてやった。そん時は冷静に考えろって言われて取り消したけど、新人に辞表を出させるような会社が良い会社なわけないな。二人一緒に辞めればええねん」

 加藤さんは陽気に言ってのけた。今もベンチから立ち上がって「俺は辞めるぞ」と高らかに言っている。加藤さんには家庭があるはずだが、本当に大丈夫なのだろうか。

 俺は加藤さんのことが心配になった。

「でもさ」

 そう言って、加藤さんは俺を見た。

「どうせ辞めるんだったら、今辞めるんじゃなくて、散々暴れ回ってクビ切られた方が良いんじゃないけ。渡君は若いんだから、好きにしても次の仕事があるから大丈夫やって。だから、これは受け取れない」

 加藤さんはそう言って、俺に辞表を返してきた。俺はそれを受け取ると、静かに相槌を打った。

「……そうですか」

 具体的に何がどう大丈夫なのか。無責任なことを言わないでほしいと思ったが、確かに、やられっぱなしで辞めるというのも味が悪い。

 何も変えようとせずに辞めるというのは、負け犬のすることだ。一度負け犬に堕ちれば、別の企業に行ったとしても、また遠吠えをして逃げ出してしまうだろう。

 それは看過できない。

 それに、折角仲良くなった人たちがこれからも苦しんでいく様は見ていられない。彼らの労働をより良いものにするためにも、一つ暴れてやった方が良い。

 俺は静かに頷くと、コーヒーを飲み干して立ち上がった。

 俺たちは空き缶をゴミ箱に投げ捨て、喫煙所を後にした。

 確かに、俺に存在意義は無い。だが、意義を見出すことはできる。

 まずは、理想を盲信し、現場の努力に縋っている会社の経営理念に盲従することを止めて、現実的に現場の環境を改善することだ。

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