第6章 第二の誕生
⑴
ガタンゴトン!ガタンゴトン!
電車の車輪のレールを噛む音が衝撃となって響き渡り、車両は俺の目の前を通過していく。
車窓には高校生、サラリーマンの顔が颯爽と映り変わってゆく。なんとなく、みんな意識のないように見えた。
ガタンゴトン、ガタンゴトン……。
たった数秒の間に、電車は闇の向こうへと遠ざかっていった。
俺の車は動かなかった。よく見ると、何故かギアがドライブではなくニュートラルになっていて、エンジンを蒸しただけで事が済んだのだった。
遮断機が上がる。
俺は何事も無かったかの様に、ギアをドライブに入れ直してアクセルを踏んだ。
「人は、無意識に死ぬのかもしれないな」
運転をしながら、俺は至って冷静にそう思った。
たった今経験したことだが、人は案外簡単に死のうとする生き物のようだ。
俺は、自分が自殺を図ろうとすることは無いと思っていた。自らの命に終止符を打つことほど愚かで嘆かわしいことはないのだ。
だから、俺が自殺を図ろうとしたなど、今でも信じられない。それだけ、俺の精神が疲弊しているということだろうか。
「とにかく、早く帰って休もう」
家路を急ぐ俺の手は、ハンドルを強く握りしめていた。
目が覚める。
今日は休みだった。
何も考えたくない。
俺は横になったまま、スマホをいじる。何か見たいものがあるわけではない。スマホをいじりたいから、スマホをいじっているのだ。いつも通り、時間が足早に過ぎてゆく。
実に、怠惰なひと時。
「もうそんなことは止めたらどうだ?」
誰かにそう言われた気がした。
勿論、この部屋には俺しかいない。声が聞こえたと言うなら、それは単なる幻聴だ。ありもしない声に耳を傾ける必要はない。
だが、今まで画面をスクロールしていた俺の指はピタッと止まった。これ以上新しい情報に触れるのは良くない。そう思った。
俺はスマホを手放すと、体を起こして部屋を見回した。
……随分と散らかっている。
最後に掃除をしたのが何時なのかも覚えていない。そう言えば、昨日は洗濯もせずに眠ったのだった。
俺は、取り敢えず掃除と洗濯をすることにした。なんてことはない。床に掃除機を当て、要らない物を捨てるだけの単純な作業。単純と言っても、こんな日にしかできない作業だ。
三十分もかければ、部屋は十分綺麗になった。特に、テーブルの上が整理されているのが良い。この表面の多くが露出している感じが堪らないのだ。
俺はテーブルの前に腰を下ろした。
「さあて、次は何をしようか」
考えてみたが、特に思いつかない。
釣りは、竿が折れてしまって行けないし、修理してもらうくらいなら、新しい物を買った方が良い。兎に角、今はできない。釣りは無しだ。
ではゲームでもしようか。いや、もう買ったものは全部プレイしたし、二周目をするのは今じゃなくても良い気がする。
何も思い浮かばず、ただ部屋の一点を見つめる。折角の休みなのに、こうもする事がないのでは、俺は何のために生きているか分からなくなる。
「生きる意味、か」
俺は、昨日の出来事を思い出していた。その中で、特に竹村バイヤーとのやりとりが、鮮明に記憶に焼き付いている。
バイヤーは、俺に存在意義は無いと言った。今にして思うと、とんでもないハラスメント発言だ。それに殴打のおまけ付き。
いっそのこと、名誉毀損や暴行罪で訴えてやろうか。
だが俺は、俺自身の存在意義を説明できない。
よくよく考えてみると、生物が存在する意義は、本質的に無いのではないだろうか。
よく、全ての生命には存在する意義があると言う人がいるが、それは詭弁だ。
もしそうなら、何か一つが欠けると、この世界から意義が一つ消え失せることになる。詭弁論者は、その意義一つ一つが大層なものであるかのように吹聴しているが、それが事実ならば、何か一つが欠けただけで、この世界は回らなくなってしまうのではないか。
知っておかなければならない事がある。
それは、この世界は、社会は、絶えず機能するように作られているということだ。それを維持するためには、失われる定めのものに意義など与えなてはいけない。意義があっては、それが失われた時に大惨事となる。
だから、俺たち一人一人に意義なんてものは無い。
学校では「一人一人に価値がある」などと、誰にも優しい緩いことしか言われなかった。中傷や体罰はもっての外で、それは俺が中学の時ぐらいから衆目を集め始めた。そうして、今の教師は保護者を恐れ、叱ることもできないそうだ。
それが今や社会にも普及しつつある。
この社会においても、今ではハラスメントとかコンプライアンスとか横文字を並べ立てて、害ある教育を潰そうとしているのだ。
それが悪い事だとは思わない。いびって人を育てる時代は終わって然るべきだ。特にあのデブは許せん。
しかし俺は、バイヤーの言葉を否定することができない。
人の有様は昔とちっとも変わっていない。いくら暴力を否定しても、差別用語の禁止に努めても、人は結局昔のままなのだから、社会の本質は変わらない。いじめはどうしたって起こるし、差別的発言は言葉を代えて繰り返される。そうやって鼬ごっこは延々と続き、新参者が真実を知る機会だけは益々失われているのだ。
人間は、怪我をしてはじめて危険を認識するごく普通の生き物だ。人間と言うと、他の生物を凌駕する高次の存在だと思われがちだが、そんなことはない。俺を含め、大半の人間は凡骨だ。
それなのに、ごく限られた者たちの叡智に預かって、知的生命体のフリをしている。
その結果がこれだ。俺たちは痛い思いをしなくてもその痛みを知ることができると、盛大に勘違いしている。
自分自身の偽装にまんまと嵌っているのだ。
だから、敢えて言おう。俺たちに存在意義は無い。あるのは勝手に与えられた役割だけだ。
言うなれば歯車。
俺たちは、単なる歯車に過ぎない。俺たちの代わりはいくらでもいる。歯車が壊れたのなら、別の物と交換すれば良い。それが壊れればまた別の物。それも壊れればまた別の物。
そうやって人は、互いに摩擦し合って、寿命を奪い合ってきたのだ。
「辞めよう」
自然と言葉が出た。小売業における歯車の回転は早すぎる。このまま働いたら、俺の寿命があっという間に尽きてしまうことは明白だった。
死ぬと分かっていて、その場に居続けることはできない。
生き物は常に自分の事が全てだ。
そうして気付かぬうちに、他人に厳しく、自分に甘くなる。いや、他人からの追及を恐れて、どちらにも甘くしているのかもしれない。政府のウイルス対策と一緒だ。
兎に角、こんな現状は嫌だ。
俺は紙とペンと封筒を用意した。
辞表の正しい書き方など知らないが、取り敢えず封筒の表に「退職願」と書いて、紙の方には「一身上の都合により退職します」と書いた。そうして紙を封筒に収め、辞表は簡単に出来上がった。
俺は明日、店長にこれを渡すことにした。
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