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久しぶりの休日。
俺の心とは裏腹に、空は巻雲模様の心地良い秋晴れだった。風も穏やかで、まさに絶好の釣り日和だった。
俺は外洋に面した堤防に来ている。秋になるとアオリイカが釣れるというのは、ここら辺の釣り人にとっては一般常識だ。
そのため、この時期に堤防や磯を訪れる釣り人の多くはイカを狙っている。俺もその一人だ。
堤防に上がると、何人もの先客がおり、コンクリートのあちこちにはイカ墨が付着していた。まだ色褪せていないことから、それらは比較的新しいものだと見受けられる。もしかしたら、既にいる誰かが釣ったのかもしれない。
更に海を覗くと、多くの小さいイカが水中を漂っているのが見えた。これは期待できそうだ。
俺は釣り竿以外の荷物を下ろし、仕掛けの準備に取り掛かった。準備と言っても、ラインシステムはチニングからの流用なので、特に手間取ることはなく、すぐに釣りを始められる状態になった。
イカ釣りのことをエギングと言う。使う擬似餌のことをエギと呼ぶことから名付けられたそうだ。エギは、漢字で餌木と書くことから分かる通り、古くは木を材料として作られていたが、現代ではプラスチックの本体にカラフルな布が巻かれている。エギの外観はエビに似た形で、その前方にはシンカー、後方にはカンナが付けられている。何故エビに模しているのかは知らないが、これで釣れると言うのだから使う他ない。
エギングは前にもやったことがある。中学の時、叔父に勧められてやってみたものの、結局一杯も釣り上げられなかった。だから、頭の中に知識を詰め込んではいるが、俺はイカの当たりがどんな感じなのかすら分かっていない。そういえば、その時も、この釣竿で挑戦したのだった。
ふと、俺は釣り竿を捉えた。
思えば、こいつとは長い付き合いだ。俺が大学にいた四年間は、埃の中に放置するという捨て子同然の扱いをしてしまったが、俺の釣りは常にこいつと共にあった。ついこの前も俺にチヌを届けてくれた。もはや、俺とこいつはマブダチと言っても過言ではない。素人同士、これからも仲良くやろうじゃないか。
俺はエギの重みを感じながら、マブダチを振るった。エギはチニングで使うルアーよりも重く、より遠くへ飛んでいき、より派手に着水した。
ここからがエギングの肝である。エギングの場合、着水してすぐに糸を巻くのではなく、エギを一旦底まで沈めなければならない。エギングの一般的な動作としてシャクリというものがある。シャクリというのは、竿を振ってエギを激しく動かすことで、何度も連続でシャクる際は、十分深く沈めないと、水面から飛び出してしまうのだ。
俺はエギが底に沈んだのを確認してからシャクり始めた。
シャクり始めてあっという間に一時間が経過した。イカは相変わらず見えるのに、当たりはまだない。エギのカラーを変え、シャクリ方を変えてみてもダメだった。
素人の俺には、他に方法が思いつかなかった。何も思いつかないから、ただ只管エギを投げて当たりを待つしかない。待つのは苦手ではない。
しかし、いくら好きなことをしていても、何の変化も無い退屈な時間を過ごしては、集中も切れてしまう。今の俺がそれだ。俺は釣りをしているはずなのに、いつの間にか仕事のことを考えてしまっている。
何度思い返しても腹が立つ。俺は、あの三時間強を怠惰に過ごしたわけではない。俺はいたって真面目に働いたのだ。にもかかわらず、どうして二時間分の給料しか支給されないのだ。そもそも、残業に含めないことからおかしいのだ。根本的なことから間違っているのに、それが罷り通っている。そして、誰もそのことを問題にしない。問題だと思っていても口にできない。なんて酷い話だ。
俺は感情を抑えきれず、着底を確認するなり、竿を勢いよく振った。すると、今までと異なる感覚が伝わってきた。竿先がズーンと重たい。根がかりかとも思ったが、糸が弦のように張り詰めることはない。
来たか!
俺は高鳴る鼓動を胸にリールを巻き取った。重量感は確かにあって、生命感は近づくごとに強くなる。間違いなく生き物だ。やがて姿が見えてきて、俺はそいつを引き抜いた。
上がってきたのは、十二センチほどのアオリイカだった。イカはカンナに触手を取られ、耳をヒラヒラとウェーブさせている。決して大きくはないが、待望の一杯だ。
持って帰って食べよう。
俺はエギの収容ケースからピックを取り出し、イカの眉間に突き刺した。イカの触手が高く上がったかと思うと、一気に全身が白くなって、触手は力を失った。締まったのを確認して、俺はイカをジップロックに入れた。
俺は安心した。これまでに釣れた試しがなく、今日も釣れなかったらどうしようかと、内心不安だったのだが、一杯を上げたことで、その心配はもう他所に吹き飛んでいた。これで心置きなく釣りができる。そう思って、俺は竿を振るった。
バキッ。
嫌な音がした。何の音か分からなかったが、エギは想定の遥か手前に着水した。急いでリールを巻くと、エギの手前に黒い棒状のものが付いている。水面から上げると、その正体はすぐに分かった。
それは竿の先端だった。憂鬱だった気持ちに一筋の光明が差した直後に、俺のマブダチは折れたのだ。
原因は容易に思いつく。経年劣化。四年もの間埃の中に放置しておいて、タダで済むわけがない。むしろ、今の今まで保っていたのが不思議なくらいだ。だが、このタイミングで折れるとは思わなかった。もう少し長く使えるものと楽観していたのだ。
俺は居た堪れない気持ちになった。どうしても、この竿と中島さんが重なって見えてしまうのだ。
あの時の後悔がフラッシュバックし、更に広がっていく。
中島さんの退職や待遇に憤慨した俺も、特に気にしなかった周囲と同じ穴の狢ではないのか?むしろ、薄々気づいておきながら、行動しなかった俺の方が無責任なのではないか。
自省の迷宮にいる気がした。
「おかしいな。仕事から離れるためにここへ来たのに」
俺は無意識に独り言ちていた。言葉の他にも込み上げてくるものがあったが、それは抑えた。周りには人がいる。常識だけは、活き活きと俺の脳内を駆け巡っていた。
兎に角、竿がこんな状態では釣りを続行するのは不可能だ。帰る以外の選択肢はない。俺は折れた竿を手に車へと歩む。その足取りは重い。きっと、背中が丸くなっているからだろう。
俺は、また一つ大切なものを失った気がした。
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