「誰やこの松茸捨てた奴は!」

 それはまさに青天の霹靂だった。八月の盆を乗り越えて、落ち着きを取り戻しつつあった8月末。竹村バイヤーは勢いよくスイングドアを開けると、腐りかけの松茸を片手に突如として怒声を上げたのだ。

「今日値引きしたん誰や」

 バイヤーは少し声量を落として再度尋ねた。

 だが、それは然程意味をなしていない。いくら声量を落としても、バイヤーは坊主でイカつい太っちょなので、その気迫は少しも衰えていなかった。

「田代君です」

 加藤さんが答えた。

「すぐ連れてこい」

 バイヤーの顔は怒りのあまり歪んでいた。

 加藤さんは、足早に田代さんを連れて来た。

「田代、お前かこれ捨てたんは」

 竹村バイヤーは、田代さんの顔の前に腐った松茸を突きつけた。

「は、はい」

 田代さんは肩を萎縮させながら答えた。きっと、次に何が起こるか分かっていたのだろう。バイヤーはその巨躯を躍動させて、田代さんの顔面に腐った松茸を投げつけた。

「お前自分が何したか分かっとんのか!」

 竹村バイヤーは再び激怒した。あわや店内に聞こえそうなくらいの声量。いや、きっと近くのお客さんは驚いたことだろう。傍若無人とはまさにこのことだ。

「これ一本お前の時給より高いんやぞ!それをちょっと腐ったくらいで捨てんなまこのアホンダラ!」

 俺は驚いた。松茸の値段にではない。この時期の国産松茸の値段はこれくらいだそうだ。

 今時、気兼ねなくそんな発言を行える会社などそうそう無いと思っていたが、俺の思いは、上澄みだけの浅はかなものであったようだ。作業所の空気は急激に凍てついてしまった。

「まあまあ竹村さん、落ち着いてください」

 加藤さんが静止に入った。だが、それでバイヤーの怒りは収まらなかった。

「お前もお前やぞ加藤!一体どんな教育したらこんなふうになるんや!」

 まったくだ。一体どんな環境にいたら、こんな人間になるのだろうか。

「どんなも何も、腐ってたら捨てるのが普通でしょ」

 思わず口が滑った。みんなの視線が俺に集る。焦っている目、安堵する目、そして、怒りの矛先を変える目。それを見るだけで嫌なことが色々と分かる。これだから、人の目を見たくないのだ。

「なんや渡。俺の言ってることがおかしいって言うんか」

 竹村バイヤーが俺に突っかかってきた。

「あ、いえ別に……」

 後悔した時には手遅れだった。

「別にってなんや。はっきり言ったらどうなんや!」

「まあまあまあ!トリミングのことは僕がしっかりと教えておきますんで!」

 加藤さんが俺とバイヤーの間に割って入り、先ほどよりも強く静止した。

 そして「取り敢えずコーヒーでも飲みましょう。奢りますから」など、あれこれと作業所から出す口実を言いながら、バイヤーを引き連れて行った。

 加藤さんとバイヤーが作業所を出ると、一気に静寂が戻ってきた。

 取り残された俺も田代さんも、何も話す気になれなかった。

 しかし、何もしないのも手持ち無沙汰なので、何かしら仕事を見つけると、黙々と作業をこなしていった。

 それから暫くして、加藤さんが疲れた顔で戻ってきた。

「どうでした、バイヤー」

 田代さんが加藤さんに尋ねた。

「大丈夫大丈夫。あの人いつもあんなだから。散々文句言わせてあげれば落ち着くんだよ」

「でも、腐りかけの物を売るとか、性根腐ってませんか?」

 俺が言った。太っていて短気の時点で終わっているが、その上、手が出て性根まで腐っているとは。正直、もう会いたくない。

「昔はあんなんじゃなかってんよ。まあ、何とかして利益出さないといかんからね。それに実績をあげないと生き残れないから。竹村さんもストレスが溜まっとるげんてきっと」

 確かに、利益は大事だ。竹村バイヤーは、その責任を一身に背負っているのだろう。

 しかしながら、会社の理念と噛み合わないことが許されるはずがない。

「それでも、あんなことは許されませんよ」

「ここはブラックだからねえ」

 ブラックか。いつぞやも聞いた言葉だ。

 ブラックと聞くと、毎月六十時間を超える残業や過労死が多発する会社を連想しがちだが、ブラックの裾野は広い。今見たことも十分ブラックだ。

 そして、テレビなどでパワハラ特集が組まれていたりすることを鑑みると、このような事例は、どこでも起こっていることなのではないだろうか。

 人は身近に起こることはどこでも起こりうると考えてしまう。その特性があることは理解している。

 それでも、この世のどこかでは今も起こっているのだろう。

 ならば、やはり当たり前のように起こっていると言って良いのではなかろうか。どうしても、日本社会全体がブラックだと考えられてしまうのだ。

「ハラスメントついでに言えば、桜戸さんもハラスメントの塊ですよね。尻とか触ってくるし」

 桜戸さんがいないことを確認して、田代さんが悪態を吐いた。

「それは田代君にだけや」

 加藤さんはさらりと言った。

 ほら、ここでもまたハラスメントの一例が確認された。

「ねえ聞いた?国産の松茸を紙屑同然に捨てる富豪がいるんだって」

 噂をしていたら、桜戸さんが作業所に入ってきた。

「聞こえるように言わないでもらえますか?」

「あ、加藤さん聞いた?夜間店長をしていた金田さん、うちの給料が安いからコンビニに逃げたんだって」

 田代さんの言葉を他所に、桜戸さんは加藤さんに何やら不穏な話を切り出した。

「ええ?じゃあ夜間店長は誰がするんですか?」

「僕ら社員で分担じゃない?」

「社員と言えば、惣菜の島村さん倒れたんですって?」

「うん、過労みたいよ。だから惣菜の人は夜間できないね」

 平然と、桜戸さんはとんでもない言葉を放った。

「あ、渡君」

 桜戸さんは、今度は俺に話しかけた。まずい話の後で、良い予感はしなかった。

「なんですか?」

「来月は七勤入ってるから。あと、十月からは入社して半年経つから残業も増えるよ。給料が楽しみだね」

 桜戸さんはそう言うと、売場へと出て行った。

 突然のカミングアウトに、俺は「そうですか」と愛想笑いをするしかなかった。

「加藤さん、おかしくないですか?」

 桜戸さんが売場へと消えると、俺は加藤さんに不満を漏らした。

「おかしいとは?」

「この会社ですよ。パワハラ上司はいるし、人は逃げていくし過労で倒れるし。こんなの……」

「思っとったんと違うけ?」

「ええ、まあ」

 加藤さんに言葉の続きを当てられ、俺はそれ以上何も言えなかった。

 俺達は静かに野菜の加工を進めている。今日もやることは腐る程ある。手を止める暇が惜しい。

 しかし、俺のネガティブな思考も止まらなかった。

 覚悟はしていた。完全にクリーンでホワイトな企業など存在しない。何かしらの欠陥は、このサンカイにもあるのだろうと思っていた。

 だが、こうも多くの欠陥が明らかになるとげんなりしてしまう。

「三年は続けてみてね」

 ふと、沢村店長の言葉を思い出した。

 今なら分かる。なぜ沢村店長がそんなことを言ったのか。ようやく感覚が追いついたのだ。

「なあ渡君」

「はい?」

 加藤さんの呼びかけに、俺は不機嫌に答えた。

「休憩行こうや」

 加藤さんはそう言うと、俺を作業所から引っ張り出した。

「良いんですか?売場ほっといて抜け駆けして」

 俺は売場が心配で、道すがら加藤さんに尋ねた。

「良い良い。今日はお客さんも少ないし、ちょっと抜けたくらいで物は無くならんて。それに田代ボーイもいるから大丈夫や」

「そういえば、田代さんも誘わなくて良かったんですか?」

「田代君嫌がるげんて。僕は不真面目じゃないとかサボりたくないとか、一丁前のこと言ってさ。俺と違って良い教育を受けとるわ」

 加藤さんは珍しく皮肉を言った。

「あ、渡君は先に喫煙所行ってて良いよ」

 そう言われ、俺は一足先に喫煙所へと向かった。俺も加藤さんもタバコは吸わないが、束の間の休息なら、休憩室よりも喫煙所の方が都合が良かった。

 喫煙所には誰もいなかった。この時間に休憩に行くのは珍しいということだろう。休憩をほとんど取らない、加藤さんならではのタイミングだ。

「ほい。どっちにする?」

 加藤さんは遅れてやってくると、二本の缶を俺の前に差し出した。一方は無糖の冷たいコーヒーで、もう一方は微糖のホットコーヒーだ。

「……どうして、ホットなんか買ったんですか?」

 見るだけで汗が出た。夕方とはいえ、日はまだ高く、未だに三十度を下回らない屋外は蒸し暑い。テントと建物の影で日が当たらなくても、それは同じだった。

「ボタン押し間違えてんて。で、どっちにする?」

 夏にホットがある自販機は珍しいが、冷蔵庫に入る機会が多いため、特別に残してもらっているそうだ。

「じゃあ、こっちで」

 俺はホットのコーヒーを選んだ。俺はコーヒーが飲めない。ただでさえ飲めないのに、無糖は更にきつい。奢ってもらっておいて、飲まずに捨てることは憚られた。

 俺は覚悟してグイッと飲んだ。

「苦いっすね」

「大人の味やな」

 加藤さんは苦み走った顔で、口から缶を離した。どうやら無糖は口に合わないらしい。

「渡君」

 間が空いて、加藤さんが呼んだ。

「はい」

 俺は素直に応えた。

「俺たちはもう仲間やぞ」

「え、どうしたんですか急に」

 俺は思わず照れ隠しで笑った。

「いや、何でもない」

 加藤さんもつられて笑った。

 俺は、加藤さんが何を言いたかったのかよく分からなかった。

 だが、仲間と言われて悪い気はしない。そもそも、俺たちはもう既に何かで繋がっていた気がした。人は、これを絆と言うのだろう。

 俺はもう一度缶に口をつける。うん、コーヒーも飲めないことはない。俺は背中に汗を感じながら、コーヒーを飲み干した。

 それは、とても暖かかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る