⑶
今日も大変な一日だった。
案の定、夕方にもお客さんが大挙として押し寄せ、売場は俺たちの努力も虚しく品薄になるばかりだった。
それでも、新入社員の俺は定時ということで上がることになった。
だが、先輩たちはきっと定時を過ぎようが働くことになるのだろう。そう思うと、直帰はできなかった。
「いらっしゃいませ〜」
釣具屋の扉が開くと、活力のある挨拶が聞こえた。勤務先ではあまり聞かない声だ。
スーパーを経営する会社は、と言うか、接客業を営む所はどこもそうだと思うが、すれ違うお客様全てに挨拶をしろ、と従業員に言っている。
しかし、それは不可能な話だ。コンビニとか飲食チェーン店とか、客数の限定される小規模な店舗では可能なのだろうが、客が雑多に押し寄せる大型店舗では無理だと言うことを、俺は最近知った。
それでも、挨拶はできるだけしようと心がけている。だが、全てを真面目に済ませられるほどの体力は俺にはなかった。そして、体力を使い切る勇気もなかった。
「お、健一じゃん。久しぶりだな」
「ホントに久しぶり、おじさん」
声をかけてきたのは、俺の叔父だった。まだこの店で店長をしていることは耳に入っていたが、いざ会ってみると感慨深いものがあった。何しろ、俺が小学生の頃からここの店長をしているのだ。
変わらないものがあると、人は安心するのかもしれない。俺は何だかホッとした。
「あれ、禿げた?」
「馬鹿。ちょっと薄くなったんだよ」
どっちも同じ意味だろうと俺は思ったが、本人がそう言うのだから、それでいいか。会うのがあまりに久しぶりだったもので、つい口が滑った。
「それで、今日はどうしたの?釣りでも始めるのか?」
おじさんが聞いてきた。
「うん。職場の人に誘われてさ。あと、趣味の一つや二つはあった方が良いと想って」
ひとまず逃げたくせに、こういうところは律儀だと、我ながら思った。いや、また誘われた時に、道具がないことで嫌われるのを恐れたのかもしれない。
まあどちらにせよ、高山さんに誘われたという理由に間違いはないのだから、卑下しても仕方ない。
それに、趣味を増やしたいというのも本音だった。最近、ゲームをしていても虚しく感じる。休日に朝起きて、気づけば夕方になっている。その間にやったことといえば、ゲームだけなのだ。
充実感がない。
心が、新たな刺激を求めていた。
「そうか。もう働く年か。そうかあ。ちょっと前までは、あんなに小さかったのになあ」
おじさんは何処か遠くを見て、感慨深そうに呟いた。そして、俺も同じ思いだった。お互いに歳をとったのだ。
「うん。それで、今の時期って何が釣れるん?」
「今の時期だったらチヌだな」
「チヌ?」
俺は、高山さんに見せられた、あの写真を思い出した。とてもカッコイイ魚体だった。
「あれ、知らない?黒鯛だよ黒鯛」
「いや、それは知ってるけど、あれって夏場に釣れるの?」
「釣れるよ。暑くなると、あいつら浅瀬に寄ってくるんだ」
「餌?」
「いや、ルアー」
それを聞いて俺は驚いた。俺の微かな記憶には、黒鯛はフカセ釣り、つまり餌釣りで釣るものであって、ルアーで釣るものではなかった。その意外性が、俺に興味を抱かせた。
「それって、どこに売ってるん?」
「こっち」
そう案内され、俺は叔父の後をついて行った。コンパクトな店だから、棚をいくつか通り過ぎるだけで目的地に着く。「ここだ」と言われて目的の棚を見てみると、そこには、長さ五センチ前後のルアーたちが大量に並べられていた。
「これってどうやって動かすん?」
俺はルアーを一つ手にとってまじまじと眺めながら、叔父に尋ねた。
「トゥイッチでドッグウォークさせるのが主流だね」
「ん?なんて?」
頭の中が疑問符だらけになった。トゥイッチもドッグウォークも、俺の頭辞書には存在しない単語だった。
「要は、竿先をチョンチョンと動かして、このルアーをジグザグに動かすんだよ」
「はあ」
何となくイメージはできる。竿先を動かすことも、ルアーがジグザグに動くことも、想像するのは容易い。しかし、その二つを結びつけることは難しかった。本当に竿先を動かすだけで、ルアーがジグザグに動いてくれるのだろうか。
「まあ、少し難しい釣りだから、何回もやって慣れるしかないな」
「へえ」
難しいと言われると、俺は俄然興味が湧いた。何でもそうだが、簡単にできてしまっては面白くない。物事は、適度に難しい方が丁度良いのだ。
俺はルアーを買うつもりで、どうしても聞いておきたいことを質問した。
「俺の竿でもできる?」
当たり前のことだが、釣りは竿がなければできない。また、釣る魚種によっては使うことのできない竿もある。無理に使って竿を折ってしまっては、元も子もない。
「どんな竿?」
「俺が中学の時におじさんにオススメされた竿」
そう言って、俺はしくじったと思った。そんな前のことを言ったところで、叔父がどの竿か覚えているとは到底思えなかった。
「ああ。あの赤いエギングロッド?」
俺の予想とは違って、叔父は覚えていた。
「そうそう。できるけ?」
「できるできる。あとは糸をPEラインにすれば問題なしだ」
叔父は首を縦に振った。これで条件は全て整った。
「じゃあ、これ買うわ」
俺は手に取ったままのルアーを叔父に差し出した。ついでにラインも買っておいた。
高山さんと釣りに行くための道具を買うという仮初の目的など、とっくの昔に忘れていた。
水曜日は休みになっていた。週に二回もない、貴重な休みだ。
今までは、エアコンの効く家でゆっくりしているだけだったが、俺は海にいた。海といってもそこが透けて見える浅瀬の海岸のことだ。外洋にいるわけじゃない。
ここは叔父に勧められた場所だった。
海岸線はちょっとした堤防になっており、その線に沿って歩道と道路が走っていて、時折車の往来がある。道路の向こうはすぐ田んぼで、農作業をしている人がちらほらいた。
日差しが照りつける中、俺は竿を振る。ルアーは目測二十メートルほど先に着水し、水面にゆらゆらと浮かんだ。それを確認すると、俺は不器用な手付きで竿を振り始めた。
叔父は「少し難しい」と言っていたが、とんでもない。これからルアーフィッシングを始める素人がやる釣りではないと感じざるを得ない。
俺は、釣りに少々心得があったが、いくら竿を振ってもルアーはジグザグに動いてくれないし、そもそも、ルアーは定めた所に飛んでくれない。おまけに夏の太陽は容赦がなくて、俺の体力は削られる一方だ。
それでも、俺は竿を振り続ける。
腕の筋肉が痛み、皮膚が赤く焼け始めても止める気がしない。
俺は没頭していた。コントローラーではなく釣竿を握る新鮮さに魅せられたのだろうか。自分でもよく分からない。
しかし、下手くその動かすルアーは、到底エサに見えないのだろう。ルアーの周囲には魚の気配すらない。
結局この日、チヌがかかることはなかった。残ったのは日焼けと徒労感のみ。おまけにルアーはロストし、魚とはまたも出会えなかった。
家に帰って、とんでもないものを趣味にしたものだと思った。でも、始めたものを中途半端に投げ出すことはできない。
俺の悪い癖だ。
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