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その日の夕暮れ、俺は例の海岸に向かった。
チヌを狙うチニングを始めてから既に一ヶ月が過ぎ去っている。釣れないことに虚無感を抱き始めながらも、あれから場所を変えルアーを買うなどして試行錯誤を繰り返している。
だが、今のところ何の成果も得られていない。
その学びから、休日を一日使ってチヌを狙うことはやめた。
最近はこうして、仕事終わりから日が沈んで暗くなるまでのおよそ一時間半で勝負をしている。
車を停めて竿を振る。
俺は、今年のシーズン中にチヌを釣ることを、半分諦めていた。
もうすぐ九月だ。まだ暑さは厳しいが、それももうすぐ終わる。チヌは水温が下がると、深場へと行ってしまうそうで、そうなると狙って釣るのが難しくなる。
ルアーが戻ってきた。また竿を振る。
この一ヶ月、無心になって竿を振ってきた甲斐があったというものだ。最初はジグザグに走らなかったルアーも、今では小刻みに首を振りながら走っている。糸を弛ませ、その弛みを利用しているのだ。俺は確実に上達している。
ルアーが戻ってきた。時間はあっという間に過ぎ、辺りは薄暗くなり始めている。間もなく、ルアーを視認することが難しくなるだろう。
俺はまた竿を振った。
上達したと言っても、俺はまだルアーを見ながらでないと上手く竿を動かせない。それは、夜釣りでは釣りにならないということだ。もう時間が無い。
ちゃぽん。
その時、ルアー近くの水面に何か現れたかと思うと、竿先がグーンと重くなった。俺が竿を立てると、その重みは横へと走った。
「食った。くった食った喰った!」
ドラグのキリキリという音でドーパミンが溢れ出し、思わず声が出る。初めての当たりだ。俺が無我夢中にリールを巻くと、それに対抗するかのように、魚の引きが強くなる。
バレてしまえばそれで終わり。だが、糸は切れずに俺と魚の間をピーンと張り続けた。
まもなく、そいつは足元に姿を現した。そいつは尾ひれで水面を叩き、バシャバシャと水飛沫を上げる。
俺はその抵抗を感じつつ、片手を竿から離してタモを取り出した。その柄を急いで伸ばし、魚を網に入れる。
獲った。
上がったのは、三十センチは下らないチヌだった。コンクリートに直接乗せないよう、草むらに下ろす。見ると、トレブルフックが上唇と下唇の丁度境目に刺さっている。背びれのイカした気持ちの良い一尾だ。
「ついにやったぞ」
俺は独り言ちた。感動のあまり、それ以上言葉が出ない。
記念に写真を撮っておくことにしよう。俺はスマホを取り出して写真を撮った。
「さあ帰れ」
用事が済むと、俺はチヌを網に戻し、柄をゆっくりと伸ばした。
俺はチヌを食うつもりはない。ただ釣りたかった。それだけだ。だから海へ返す。一方的で傲慢だが、無益な殺生はしたくないし、食わずに殺すことはするべきではないと思った。
タモが水面に届く。チヌはゆっくりと網から抜け出た。そのまま優雅に海の向こうへと帰ってゆく。俺を睨んだり、恨むような仕草もない。
チヌは去り際もカッコよかった。
その姿を拝むだけで、もう満足だった。
俺は竿を車にしまい、エンジンをかけて車を走らせる。
俺はこの一ヶ月余り、毎日というわけではないが、竿を振り続けた。これまでずっと、なぜ魚も釣れないのにこんなことしているのか分からなかった。当初求めていた充足感なんてなかった。
大変だった。あまりにも大変で、何度も諦めかけた。
それでも竿を振り続けられたのは、ただ辞められない悪癖のせいだけではない。俺は自然と対峙し、繋がりを持ちたかったのだ。
よく、都会暮らしから一度離れて自然に身を置くべきだと言う人がいる。そして、最近では郊外に赴くのが人気らしい。
それは田舎暮らしでも一緒だ。毎日家と職場を往復するだけの日常。自然が近いというだけで、外に出なければ田舎も都会も変わらない。食物連鎖の理から外れ、仕事に悩みながら金を稼ぎ、その金で飯を食う毎日なのだ。
俺たちは生態系から間接的に疎外されている。生きるか死ぬか、なんて二者択一の選択なんて迫られない。だから生きるに足る理由を探す。生きるのに必死なら、そんなことは考えてられない。
俺もそうだ。仕事で悶々とする日々に耐えられなくなった。ゲームでは怠惰な日々を繰り返すだけだった。
だから俺は、新たな趣味を探した。人としての社会性以前に、生物として生態系との絆を結ぶために。
そうして、それは確かに、俺に生きる活力を与えてくれたのだった。
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