第3章 絆

 六月某日夜、とある堤防。

「良い場所やろここは。ええと、ごめん。名前忘れた」

「渡です」

「そうそう渡君」

 高山さんの呆けに、隣に陣取っている俺は間髪入れずに反応した。

 知り合って二週間余り。

 もうそろそろ名前を覚えてくれても良い頃だが、高山さんは中々覚えてくれない。

 年は四十手前だそうで、まだ呆けるには早いはずなのだが。

「山さん、いい加減覚えな渡君が可哀想や」

 高山さんの左に座る加藤さんが、呆れ笑いを浮かべながら高山さんに言った。

「ごめんて。俺寝たら忘れるんや。だから加藤君の名前も時々忘れるんや」

「いやそれ酷くね⁉︎」

 高山さんは悪気があるような無いような、曖昧な反応をしつつ、更なるカミングアウトを添えることを忘れなかった。

 余計なことを言うのが高山さんの悪癖であることは、俺より付き合いの長い加藤さんなら、とっくに承知していることだろう。

 だが、流石に今のは酷かったようで、割りと本気のツッコミが、加藤さんの口から飛び出していた。

 側から見ると、レベルの低い漫才をしているように見えるが、俺たちは漫才をしに海に来たわけじゃない。

 釣りをしに来たのだ。

「渡君、竿持ってる?あ、いつも身につけてる竿じゃなくて、釣竿のことね」

 高山さんの言葉で、青果部の作業所が一瞬凍てついたことは記憶に新しい。

 昨日の夕方、高山さんにそう尋ねられた俺は、唐突な下ネタに思わず冷たい視線を送った。相手が赤の他人であれば、それで会話も関係もお終いなのだが、幸か不幸か、俺たちは同じ部署で働いていて、俺は釣竿を持っていた。

「じゃあ、明日俺と加藤君と一緒に釣りに行かんけ。歓迎フィッシングってやつや。ほら、ウイルスのせいで歓迎会できとらんやろ?」

 確かに、歓迎会はできていない。新型ウイルス流行のため、飲み会は会社より禁止されているのだ。今もこうしてマスクをしている。人の集まるイベントは当分計画されることも無さそうだった。

「ああ、そうですね。……良いですよ」

 俺の返答を聞いて、高山さんは嬉しそうな顔をした。俺より十歳以上も年上で大柄にも拘らず、高山さんは子どもっぽい人だった。

 本音を言えば、明日も仕事なのだから、そのまま直帰したかったのだが、俺は拒めなかった。就活生だった時、ネットサーフィンで「飲み会を断る方法」なんかをよく検索したが、それを実践できるほど、俺の心は強くなかったという訳だ。

 こうして俺たちは、一緒に釣りをすることになったが、今考えると不思議な縁だ。

 そもそも、今握っているこの釣竿は、本当ならば、俺が就職する前に捨てられる予定だった。

 俺が実家に帰って要らない物を整理していた時、母に「この竿捨てて良いけ?」と聞かれて、五年もの間埃を被っていたこの竿の命運は尽きたはずだったのだ。

 しかし、俺は気まぐれにも手元に残しておくことにした。そして、捨てられることが無いよう、釣竿についていた埃を洗い落とし、実家からアパートに移したのだ。

 そうして、今俺は会社の先輩と釣りをしている。

 本当に、不思議な話だ。

「お、きたきた」

 高山さんの竿がしなった。高山さんは瞬時に竿を立てリールを回転させる。

 少しして、水中からは一五センチほどの魚が上がってきた。

「おお、メバルや」

 高山さんの声が響いた

「この時期に珍しいもん釣ったぜえ山さん」

「ああ、でもこいつ小さいな。リリースやじゃ」

 高山さんはそう言うと、折角釣った魚を海へ返してしまった。

「どうして逃したんです?」

 俺は高山さんに尋ねた。

「そりゃあ小さい魚は身も少ないし、根魚は育つのに時間がかかるんや」

「へえ、そうなんですね」

 なるほど。それは知らなかった。

 昔、釣りをしていた時、小さかろうが根魚だろうが、釣ったものは全部持ち帰っていた。それを今思い出したが、俺は恥ずかしくなって、出掛かっていた言葉を飲み込んだ。

「こっちも喰ったわ」

 次は加藤さんに当たりがあった。上がってきたのは、これまたメバルだった。

「六月も中盤やけどまだ群れがおるんかな」

「かもしれんな」

 同じ魚を釣り上げたことで、高山さんと加藤さんの会話がはずむ。

「二人は上手いですね。俺の竿にはピクリとも当たりがないですよ」

「まだまだこれからやって。ええと……」

「渡です」

「そうそう渡君」

「いやそれ何回目やねん山さん」

 男三人の声が夜闇へと静かに溶け込む。

 高山さん曰く、この堤防は結構な人気ポイントらしいが、俺たち三人以外は誰もいない。そのお陰で、静かにすることを心がけつつも、気兼ねなく釣りができている。

「そういえば渡君。趣味とかないがん?」

 加藤さんが尋ねた。

「えっと、家でゲームするくらいですね」

「ええ、そら人生勿体無い。俺、趣味のパチンコと競馬と釣りが無かったら死んじゃうんや」

 高山さんが言った。

「大袈裟や山さん」

 加藤さんが笑いながら突っ込んだ。

「でも渡君。趣味はあった方がええよ」

「ゲームじゃダメなんですか?」

「ダメじゃないけど、職場と家しか行くとこないんじゃ、そのうち虚しくなってくる。なんで自分は生きてるんだろうって」

 加藤さんの言葉には、妙な説得力があった。それに近い経験をしたことがあるからだろうか。

「分かりました。探してみます」

「いやいや渡君。探さなくても見つかってるやないか。釣り、釣りや。釣り仲間は一人でも多い方が良いんや」

 高山さんが本音を隠すことなく、俺を釣りに誘った。

「一応、探してみますね」

 俺は譲らなかった。

 別に、高山さんの誘いが露骨で嫌になったとかではない。こういうのは自分で見つけるものだと思ったからだ。

 それに、ボウズでは楽しくない。

 俺たちの釣り方は三人一緒で餌づりだ。使っている餌も、俺と加藤さんが、高山さんのを拝借しているのだから同じ。

 なのに、釣果には明らかな違いが見られた。

 結局この日、高山さんと加藤さんはそれぞれ五匹ほど釣り上げたが、俺はボウズだった。

 どうやら俺は、魚に嫌われているようだ。

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