⑷
俺は、もう何度目か分からない、昨日の出来事を思い出していた。
「以上で、本日のセミナーを終了したいと思います。能山先生、本日はどうもありがとうございました」
小堀さんの進行に従って、能山講師は会議室から退出した。
「ええ、それでは、前もって告知していました通り、本配属の店舗を通知したいと思います。村田社長より辞令を直接手交して頂きますので、もう少しお待ちください」
そう言うと、小堀さんは会議室から退出した。きっと、社長を呼びに行ったのだろう。
数分後、小堀さんと社長が入ってきた。
「皆さん、ご苦労様です」
「お疲れ様です!」
社長を前に、俺たち新入社員は、自然と声が大きくなった。
「それでは、村田社長より辞令を手交して頂きたいと思います」
緊張の瞬間だった。名前を呼ばれるのを今か今かと待った。俺は、一番最後に呼ばれた。
「渡健一!」
「はい!」
俺は勢いよく立ち上がり、社長の前へと進んだ。
「渡健一。六月一日より四号店青果部への配属を命じる。期待しています。頑張ってください」
「ありがとうございます!」
俺は社長から本配属の辞令を受け取った。
こうして来月から、俺は青果部で働くことになった。しかも四号店。研修店舗の倍は売り上げる、サンカイの旗艦店だ。
しかし、マズイことになった。
「いい?これがほうれん草でこれが小松菜。ほら全然違うでしょ?」
「ええ、どっちも一緒に見えるんですけど」
「アホンダラやわぁ。こんなんも見分けられんで、向こう行ったらどうするん」
青果部のパートさんに呆れられた。そう、俺は野菜初心者なのだ。それも生粋の。ほうれん草も小松菜もどっちも葉っぱだし、キャベツもレタスも同じ球体の葉っぱに見えた。
「いやあ、まさか青果に配属されるとは思っとらんかったもんで」
俺は頭を掻いて苦笑いを浮かべた。
「渡君、ちょっといいかな?」
不意に後ろから呼ばれた。振り返ると、沢村店長が立っていて、手招きをしている。俺は沢村店長について行った。
「お疲れさん」
「お疲れ様です」
俺と沢村店長は事務室で腰掛けた。
「話は聞いとるよ。六月から四号店に配属やってね」
「はい。大変だって聞いてます」
「うん、結構忙しくなると思うわ。それで、どうですか。仕事には慣れましたか?」
沢村店長の言葉が、途端に面談チックになった。
「まあ、そうですね。思ってたのと違うと感じているので、多少慣れたのかもしれませんね」
俺は、この二ヶ月のことを振り返りながら喋った。
勿論、全ての人がそうではない。そうではないが、理念と現場の実態がひどく乖離していると、思わせる人がいる。そして、お客さんの中には、支えたくないと思わせる人もいる。
そうした現実の一側面が、俺のモチベーションに影響を与えているのは事実だった。
「そうか」
沢村店長はしんみりと相槌を打つと、少し黙ってから再び口を開いた。
「ところで、渡君はどうしてスーパーで働こうと思ったんや?」
それは突飛な質問だった。俺が答えるのにまごついていると、店長が更に聞いてきた。
「やっぱり、スーパーは第一志望じゃなかったんかな?」
「あ、いえ、そんなことはないです」
俺はそう答えて、いつの日か考えていたことを口にし始めた。
「僕は地元に貢献したいと思って、この会社に来ました。生まれ育った地元が過疎化で沈んでいくのを、黙って見ていられなかったんです。あと、都会に行きたくなかったのも、正直あります」
都会の文字が頭に浮かんだ時には、もう口にしていた。それが、本当に思っていることのように思えた。
「そうか」
沢村店長は、何かを確かめたかのように何度も頷いた。そして最後に、俺にこう言った。
「まあ、色々としんどい仕事だけど、三年は続けてみてね」
俺は複雑な気持ちで事務所を出た。どうして、これから新天地へと赴く人間に、後ろ向きな言葉を送ったのだろう。俺は、沢村店長の真意を推し量ることができなかった。
「お、渡君戻ってきたか」
青果部の作業所に戻ると、青果部のチーフが待っていた。
「あ、はい」
「なんか店長と話したんやって?」
「そうです」
「じゃあ俺からも一言送ろうかな」
そう言うと、チーフは佇まいをよろしくして俺を見た。チーフの視線に、背筋が自然と伸びた。
「いいか。作業をこなすだけなら、それは単なるワーカーや。社員なら、利益を上げる方法を考えろ。それを心に留めておいてくれ」
チーフに言われて、俺は感心した。社会人になって、今までで一番の金言のような気がした。すごく名言っぽい。
俺は、是非ともメモに残しておこうとした。
「なにメモしようとしとんねん。やめいやめい。恥ずかしいやろ」
チーフは、メモしようとする俺を遮った。
「いやでも、大事なことはメモしとけって研修で……」
「アホンダラ。心に留めとけって言うたやろ」
チーフが照れ笑いをしながら制止してくるので、俺は仕方なくメモを仕舞った。勿論、その後で日記に綴ることは抜かりなかった。
「ただいま」
研修店舗での最後の一日を終え、俺は家に帰った。
電気をつける。
入社したての頃に散らかっていた段ボールは既に無く、部屋はすっかり整理整頓されていた。
俺はテーブルの前に座ると、取り敢えずスマホを手に取った。ラインを開く。
「研修期間が終わって、明日から旗艦店にぶち込まれることになった」
研究室の同期のグループラインにそう打ち込んだ。反応はすぐに帰ってきた。
「マジか。災難やな」
「いや、期待されとるんやで」
「俺なんか早速残業しとるわ」
「俺は家無しジジイに罵倒されたわ」
「受付担当ってきついよな」
「新人は取り敢えず受付にブチ込む風習変わってくれんかな」
思い思いのメッセージが飛び交う。みんな、それぞれ苦労しているようだ。その様子を見て、俺は少し安心した。
それでも、不安というのは、ふとした瞬間に湧き上がる。
明日から、俺はどうなるのだろう。一緒に働く先輩は関わりやすい人だろうか。一体どのくらい忙しいのか。向こうにもクレーマーはいるのだろうか。
漠然とした悩みは尽きない。しかし、それは明日になってみないと分からない。
俺は考えるのを止めて、ネットの海を泳ぐことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます