⑶
「で、どうよ浜部さんとの仲は。睦まじいかい?」
人事部係長で採用担当の小堀さんが、俺をイジってきた。
「そんな事ないですよ」
俺は至って冷静に答えた。
「ええ、それじゃあ困るよ。君たちをくっ付けるために同じ店舗に入れたんだよ」
「小堀さんはキューピッドにはなれませんよ」
俺がそう返すと、大柄な体型の小堀さんは笑いながら歩いていった。
小堀さんは優秀な人だと思う。中途採用されてから僅か数年で係長になっているのだ。いくら地方の中小企業でも、コネもなく数年で管理職になることは難しい。優秀の一言で片付けるのは憚られるが、やはり、そう言わざるをえない。
惜しむらくは、イジリ癖があることだ。人によってはチャーミングな印象を受けるのだろうが、繰り返されると、その応対が次第に面倒になる。
完璧な人間というのはいないものだ。
「そろそろセミナーを始めますが、準備の方はよろしいでしょうか」
イジリモードから真面目モードに切り替わった小堀さんの合図で、セミナーが始まった。
セミナーを担当するのは、もうすぐで還暦を迎えそうな、肥えたおじさんだった。
「みなさんは、やりがいを持って仕事をしていますか?単なる作業になってはいませんか?君はどうですか?」
開始早々、質問が唐突に飛んできた。不意のことで、俺はよく考えずに答えた。
「えっと、もしかしたら作業になってるかもしれません」
「それではいけません。ただお気になさらず。人間は慣れるものです。皆さんも店舗研修を通して仕事に少し慣れてきた頃でしょう。しかし、慣れ始めが一番危険なのです。そこで、今回小堀係長よりセミナーを依頼された訳です。自己紹介が遅れましたが、私は能山と言います。本日はまず皆さんに、働くことの意義からお教えしたいと思います」
そう言うと、能山講師はホワイトボードに何やら書き始めた。
左からお給料、肩書き、待遇、能力、チャンス、成長。そこまで書いて、講師はこちらに体を向けた。
「今、私は六つの単語を書きましたが、この中には、本当に大切な報酬とそうではない報酬が三つずつあります。時間を設けますので、配布されてある紙に書いてみてください。」
そう言われ、俺は手元の紙に設けられた空欄に単語を記入した。
本当に大切な報酬は、お給料、能力、成長。そうでないものは、肩書き、待遇、チャンスと。
少しして、能山講師が口を開いた。
「時間になりましたので、聞いてみたいと思います。では、あなた。本当に大切な報酬は、何だと思いますか?」
「お給料、能力、成長です」
指名された同期が答えた。俺と同じ回答だった。
「なるほど、私も能力と成長については同じ意見です」
能山講師は肯定した。
「しかし、お給料に関しては違います。確かに、お給料も大事なのは事実です。綺麗事は言いません。私達はお給料を得るために働いています。ですが、そう答える人は、残念ながら、大切なものが見えてません」
これが本当に言いたいことだったのか、能山講師は饒舌に続けた。
「いいですか。本当に大切な報酬とは、目に見えない報酬なのです。ここに書いてあるお給料、肩書き、待遇は、時間の経過とともに消失してしまうことがありますが、能力、チャンス、成長に関しては、自分の中で蓄積され、無くなることはありません。これこそが、決して見失ってはならない、本当に大切な報酬なのです」
俺を含む新入社員七名は、講師の言葉に感銘を受け、一斉にメモを取り始めた。中には、仕切りにうなづいている者もいた。
能山講師は、それを見て自慢げになった。その顔からは、完璧な論理を展開できたことに対する高揚感と自信が見られた。
しかし、俺には少々納得しかねることがあった。
「でも、生きていくのにお金は必要じゃないですか。生きる目的以上に大切なものなどあるのですか?」
「良い質問ですね」
俺の質問に、能山講師は目を光らせた。
「確かにお金は大事です。それが無ければ食べていけないのですから、お給料が必要なのは、間違いのない事実です。しかし、それはアルバイトの考え方です。あなた達は社員なのですから、会社が誇れる「人財」となるために、仕事にやりがいを持って意欲的に働かなければなりません。そのためにも、目に見えない報酬が必要なのです。この説明で分かりましたか?」
それは何となく、教科書を読んでいるような答えだった。きっと、多くのセミナーでそのような質問をされてきたのだろう。しかし、場数を踏んでいる分、単なる棒読みではなく、言葉には講師自身の感情が込められていた。
「は、はい。何となく分かりました」
俺は、何か引っかかると内心思ったが、言っていることは間違っていない気がして、そう答えた。
能山講師は満足して続けた。
「では、これらの報酬は、何か限られた職業でしか手に入らないのか。いいえ、違います。これらの報酬は、どのような職業であっても得られます。たとえ、コンビニの店員でも、政治家でも、この最高の報酬は手に入れられるのです。この観点から、職業に貴賎は無いと言えます」
俺達新入社員は、益々納得して首肯し、メモを書き連ねた。
能山講師の声は高らかになるばかりだった。
「しかし、報酬は自分から考えて動かないと手に入りません。そして、私たちの生活に欠かせないお給料も増えません。報酬を増やすためには、まず、皆さん自身の立ち位置について知ることが肝心です」
講師はそう言うと、またホワイトボードに何か書き始めた。書かれたのは三角形状の図。上に会社、右に従業員、左にお客様とあり、それらは反時計回りの矢印で結ばれていた。
書き終えてすぐ、能山講師が言った。
「これは、様々な価値とお金がどのように循環するのかを示した図です。まず質問ですが、あなた方従業員のお給料は、どこから出ていますか?そこのあなた。ええと、浜部さんかな」
「はい、お客様からです!」
浜部さんは元気一杯、自信満々に答えた。
能山講師は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「そうです。皆さんのお給料は、お客様が商品を購入をして下さることで出るのですから、お客様からお給料を頂いていることになります。また、先程の目に見えない報酬についてもお客様から頂くことがあります。つまり、報酬を増やすためには、お客様に価値あるサービスを提供することについて考えることが必要なのです」
講師は更に続けた。
「しかし、無秩序に考えてはいけません。無秩序な行動は、時に法律や倫理観から外れることがあるからです。また、社内で進むべき方向が定まらず、不和を生むことにもなります。そこで行動の基準になるのが経営理念です。経営理念は覚えていますね?浜部さん」
「はい!会社の発展と個人の幸せを実現し、お客様の喜びと地域コミュニティの繁栄のために邁進することです!」
浜部さんは、やはり自信満々だった。
「はい、よく覚えていました。素晴らしい。経営理念は、売り上げと並ぶ車輪です。理念について従業員の一人一人が理解することで車は動きます。なので、経営理念は完璧に覚えておきましょう」
俺は、経営理念について書かれてあるページに赤線を引いた。何もかもが重要に見えて、大部分が赤くなった。他の新入社員も紙に線を引き、メモを取っているようだった。
「皆さん、いいですか?」
能山講師が注意を促した。
俺達新入社員は顔を上げた。
「すなわち、経営理念に従って、売上を上げるために考え行動すれば、仕事のモチベーションが上がり、報酬も増える。これが働く意義なのです。ですので、最近は仕事に慣れて作業のように仕事をこなしている方がいるかもしれませんが、今一度見つめ直し、能動的に働くことが大切なのです」
能山講師はそう言って、一つの講座を締め括った。
やはり、理想を語る場は良い。
現場では変な爺さんに怒鳴られたり、従業員のいい加減な行動を目の当たりにしたりなど、現場が理想とかけ離れていることに対して、少々気を揉んでいたが、あくまで、ここで言われていることが正しい行いなのだ。現場の怠惰に流されることなく、毅然と理念に従い行動することが大事だと、俺は改めて思った。
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