⑶
「渡、内定おめでとう」
「ありがとう」
卒業論文についてそろそろ真剣に考えねばならない、大学四年の春。俺は、とある会社から内定を得た。研究室では第一号となる内定報告に、本棚で狭苦しい一室は、花が一輪も無いなか、祝福の空気に包まれていた。些かむさ苦しいのは構うまい。
「で、どこから内定貰ったんだ?」
隣の席に座る久保田が、祝杯の清涼飲料水を呷りながら聞いてきた。
「……スーパー」
俺は少し躊躇ってから口を開いた。スーパーと口にするのが恥ずかしかったのだ。
決して、スーパーの従業員を蔑んでいるのではない。そう思っているのなら、端から面接は受けない。ただ、スーパーマーケットを経営する会社の面接を受けるという事実が、どうしても自分には分不相応な気がしてならなかった。
それに、仮にもそこそこの大学に在籍しているのだ。それならば、県庁職員や教職員といった公務員か、もっと学歴を活かして企業選びをするのが賢明だろう。みんな、そうしている。
だから、誰でも仕事のできそうなスーパーを選んだと口にするのは、抵抗があった。
「渡は物好きだな。なんでそんなブラックな所に行こうと思ったんだ?」
「ブラック?」
久保田の問いに、俺は反射的に聞き返した。少し前にも親父から似たようなことを聞かれていた。
「だってそうだろう。一日中立って仕事させられるんだぜ。しかも、人手不足な上に客からのクレームも多いらしいし。ほら、ここにブラック・激務・低賃金って書いてある」
丸眼鏡が光ったかと思えば、久保田がスマホの画面を見せてきた。確かに、そこには「ブラック・激務・薄給」と書いてある。
「でもさ久保田。お前スーパーで働いたことないやん」
俺は、カレー屋でしかバイトをしたことのない久保田に言い返した。
「まあな。でも、火の無い所に煙は立たないって言うだろ。少なくとも、俺たち社会不適合者が行く所じゃないって。そうだろう?」
社会不適合者。久保田の口からそれが出ると、俺達はニヒルな笑みを浮かべた。
誰に言われるでもなく、俺たちは自覚している。俺たちのやっている学問は、社会ではほとんど役に立たないのだ。そんな学問をやる連中は、社会不適合者に違いないと、この中の誰かが言い始めて随分経つ。そうして今では、自虐の他にヒッピーのような独走性を孕ませているのだから、益々救えない。
加えて、俺たちは社会に対する考えもネガティブだ。蟻地獄、終身監獄、労働戦線などなど、社会を表象する言葉は暗いものばかり。
「社会に出たくない」
モラトリアムからの卒業を一年後に控えた今、それが俺達の共有する本心だった。
しかし、しかしである。
「でも、結局社会に出るんだから、やりたいことをやりたいやん」
「やりたいこと?」
俺の言葉に久保田が聞き返した。
「俺の地元さ、過疎化が深刻で、実家のある地区も空き家だらけ。もうにっちもさっちもいかんようになってる。だから、地元の企業に入ることで、過疎化の阻止に貢献できんかなあって。過疎化を問題視しておきながら都会に行くとか、そんなんテレビで過疎化を語るコメンテーターと一緒やん。俺は、そんな無責任なことしたくない」
「おお、すげえまともな理由だな。マジかー、俺、志望動機とか全然考えてないわ。って言うか浮かばねえ」
全然を強調するあたり、久保田は本当に志望動機を考えていないようだ。ならばどうするのだろう。そのマッシュヘアを活かして歌手にでもなるのだろうか。
「そもそも、久保田はどこに行くかも決めてないじゃん」
横から田端のツッコミが入った。
「そういう田端は、どこ行くか決めたのか?」
久保田が不服そうに聞き返した。すると、田端のシャープな眼鏡がキラリと光った。
「俺は出版社。もう候補は絞ってあるし、なんなら面接も受けてる」
「マジかよ……」
田端の計画的な就職活動を聞かされて、久保田は頭を垂れて沈黙した。このまま、就活を真剣に考えてくれれば話は簡単なのだが、久保田はすぐに開き直った。
「でも、俺たちまだ大学生じゃん?人生の夏休みを満喫すべき時に就職先とか決めなくても良くね?」
「そんなこと言ってると、マジで行くとこ無くなるぞ」
それまで聞くだけだった高田が、呆れて割って入った。久保田の肩身は益々狭くなった。それでも、久保田は主張を曲げなかった。
「ヘーキヘーキ。いざとなったら、どこにも勤めず無敵になるだけさ。失うものが何もないって、最強じゃね?」
「人はそれを最弱って言うんだよ久保田」
紅茶を飲んでいた神田が、久保田の最強論をバッサリと切り捨てた。
「そういや、高田と神田はもう決めてるのか?」
これ以上、久保田と話すと単なる笑い話で終わってしまうので、俺は、目指す就職先を言っていない高田と神田に話を振った。
「俺は公務員一択。県庁に入るのがベスト」
そう答えたのは高田だった。高田は元理系で計算高いやつだ。この大学の卒業生は、同県の県庁へ就職する際に優遇される。加えて、高田の両親は県庁に勤めているそうで、色々と都合が良いと考えているのだろう。彼らしい堅実な選択だ。
「私は建設業かな。日本のインフラを支えたい」
神田は、どんなに気だるい講義でも、常に最前列に座って聴く真面目な男だ。それが一人称にも表れている。その神田から出る志望動機もまた真面目そのもので、言葉の重みが違った。
「立派な志望動機だな神田。結局、公務員にはならないのか?」
久保田が尋ねた。
久保田、高田、神田の三人は、公務員試験の勉強会に参加していた。久保田と高田は公務員志望のままだが、神田はいつの間にか、考えを変えていたようだ。
「大人しく公務員にしとけって神田。お前、東京では散々らしいじゃないか。公務員になるかどうかは一先ず置いておいて、滑り止めで公務員も受けるのが安牌だよ」
高田が言った。それは、何社も落ちている神田を労わるようであり、諭しているようでもあった。さながら塾の講師だ。
「でも、公務員にはあまり魅力を感じないんだよね。目標を見出せないっていうか、つまらなさそうというか。目に見える形で何かに貢献したいんだよね」
神田は言った。その目に憂いはなく、確固たる意志を持っているようだった。
「わかる」
俺は、神田の言葉に首肯せずにはいられなかった。このメンツの中で唯一、デスクワークを望まない同志に思えた。
「それでもさ、地方のスーパーは止めとけって渡。あんな得体の知れない業種に行くのはリスクが高いぞ。望んでブラックボックスに手を出すってことは、開けた責任が全て自分にのしかかるってことだ。だから、もう少し慎重に考えた方が良い。それに、久保田の言う通り、俺たちの様な、労働に辟易する人種が進んで行く所じゃないと思うぞ」
思わぬところから言葉が飛んできた。田端だ。この二年、ゼミなり講義なりで同期の長所短所が明らかになったが、田端は核心を突くのに長けていた。その眼鏡の奥には確かな観察眼があるのだ。だからきっと、この言葉にも何か重要な意味がある。そんな気がした。
俺は、間をとって考えてから答えた。
「でも、やっぱり地元の没落は無視できないな。俺の母校、小中ともに閉校してさ。今じゃ校舎も取り壊されて残ってない。更地を見て無性に寂しくなったよ。それを無視して問題意識だけ抱いてるんじゃ、社会科の教科書と変わらない。それに、俺だって進んで働きたいわけじゃない。でも、性に合いそうな企業が他に見当たらないんだ」
俺は心の赴くままに言った。
「正直、地方の問題はどうしようもないと思うぞ。情報化によって、東京の一極集中が緩和されるかとも思ったが、むしろ、情報の発信源として、都会の重要度は益々高まっている。今後も人の流れは変わらないだろう。そんなことは、お前も分かってるだろう?」
「俺は、都会に行くのが嫌なんだ。あんな人がゴミのようにいる歩道を歩いて、満員の通勤電車に揺られるのは御免だ。息を吸っただけで疲れそうだし」
俺は思うままに言った。
「そうか。まあ、お前の決めたことに口を挟むのは要らんお節介だったな。忘れてくれ」
田端との問答はそれで終わった。
それからは、卒論のテーマがどうだの、研究室に来てない同期の就活がどうだの、結局彼女ができなかっただのと、無駄で怠惰で楽しいお喋りが続いた。
そのまま楽しんでいれば良いのに、まだ会話の落ち着かない内に、俺は無意識に窓の外を見た。その日は、青空に白い雲が幾つか浮かんでゆっくりと流れる心地よい日和だった。俺は会話を忘れ、ただ空をぼうっと見続けていた。
「そういや、もう昼じゃん。人民食堂で飯食おうぜ」
誰かが言った。人民食堂と言うあたり、おそらく高田か久保田が言ったのだろう。その声を聞いて、俺達は徐に立ち上がって、研究室を後にした。
ふと、廊下を歩きながら考えた。
俺は、なぜ空を見ていたのだろう。なぜ、どこか遠くに思いを馳せていたのだろう。
思い出すのは田端との問答。
地元への愛着心は本物だ。過疎化の問題についても真剣に捉えているつもりだ。
一方で、働きたくないという思いも相変わらず残っている。許されるなら、このまま気の合う連中と駄弁って、さほど意味もない学問をして過ごしたい。
でも、どうせ働くなら、何か意義のある仕事、やりがいのある職に就きたい。
どれも、偽りない俺の本心だ。
だけど、あの言葉が引っかかる。
「性に合う企業が他に見当たらない」
「都会に行きたくない」
……どんなに前向きな動機があろうとも、それが心の隅々にまで行き届いている訳ではない。むしろ、それは表面的なものに過ぎない場合が多いのではないだろうか。
人は、マズイことを隠してしまうものだ。
だとすれば、俺の本心は?
本物なのは確かでも、砂上の楼閣では偽りと変わらない。破綻してしまっては意味がないのだ。
俺は歩きながら、もう一度空を見上げた。
「私はこんなにも透き通っているのに、どうして、あなたの心は淀んでいるのかしら?」
空は事実を突き返すだけで、何も教えてはくれない。
祝福の日であるはずなのに、不愉快な気持ちだけが、残った。
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