第1章 新社会人

 けたたましいアラームで目が覚めた。午前七時ちょうど。時計に感情はなかった。

 重い瞼を持ち上げながら体を起こす。

 目の前には、まだ見慣れない空間が広がっていた。

 新居だ。大学を卒業したら地元に帰ることになっていたので、実家で暮らすことも考えたが、親の脛を齧りたくないという思いとクソ親父の顔を見たくないという理由で、アパートで引き続き一人暮らしをすることにした。

 引っ越して一週間も経っていない部屋は、数々の段ボールで散らかっている。生活に最低限必要な物は既に設置したが、それ以外の物はほとんど出していない。自分が面倒くさがりであることは承知していたが、まさか、この日まで放置するとは思わなかった。

 しかし、今日も、この段ボール達が片付けられることはないだろう。

 俺は布団から起き上がって、ハンガーに掛けられている赤一色の制服に手を伸ばした。制服と言えば聞こえは良いが、カッターナイフやペンを納めるポケットがあることを踏まえると、作業着と言うのが適切だろう。現場では更にエプロンを着けるのだから、やはり作業着だ。

「はあ……」

 思わず溜息が出る。

 自ら望んだこととはいえ、大学を出て作業着に身を包むのかと、今更自嘲して、着る気になれなかった。

 だが、プライドをそこら辺に置き、いざ袖を通して姿見で見てみると、皮肉ながら、これが意外と似合っている。

「案外悪くない」

 思わず感心してしまった。

 自分の制服姿が新鮮で、姿見の前でモデル気分。色々な角度から眺めていると、スマホが震えた。

 電話は母からだった。

「もしもし」

「もしもしおはよう。ちゃんと起きとる?」

「言われんでも起きとる」

「そうけ。朝ごはんは食べた?」

 二言目には朝ご飯。俺が大学に入り、朝食を抜いていることを知ってから、それが母の口癖になった。

「食った」

 勿論嘘である。

「入社式の準備しとるかいね」

「もう制服に着替えとる」

「なら大丈夫そうやね。会社に行くってことは、これから社会に出て人様のお役に立つってことねんから、ちゃんとしないけんよ」

「分かっとるよ。じゃ」

 俺は適当にあしらって電話を切った。耳元を離れるスマホから「頑張ってね」と声が聞こえた気がした。

 まったく、お節介な母親だ。もうすぐ二十三歳になる息子の門出を心配する必要がどこにあるのだろう。

 親父も親父だ。俺が就職先を決めた時、親父はすぐさま、

「大学にまでやったのに、中小企業を志望するとは何事か。働くならもっとマシな所で働け」

 と、猛反対した。それに俺が反駁して口撃の応酬となってしまった。

 それからというもの、親父とは口をきいていない。息子とはいえ、他人の就職先にまで口を出すのはお節介にも程があるし、何かにつけて指図されるのでは、こちらもたまったものではないのだ。

 それとも、それが親心というものなのだろうか。

 よく分からない。

 まあ、生まれてこの方、ずっと養ってもらっていたし、心配するのも無理はないか。何と言ったって、20年程前はよちよち歩きだった息子が、これから社会に出るのだから。

「社会、か」

 姿見の俺は、陰鬱な表情を隠せなかった。

 これまではレールの敷かれた道を歩んできた。ところが、今や目の前は真っさらで、どこに危険が潜んでいるかわからない。一歩を踏み出すのが怖い。できることなら、会社に行かず家にいたい。望まぬ変化に立ち会いたくはないのだ。

 しかし、そんな訳にはいかない。

 俺は、落ち込む意思を振り絞って身支度を整える。

 歯磨き、髭剃り、荷物の確認。そして前髪をちょっと弄る。よし。

「おっと、忘れるところだった」

 俺は、履きかけた革靴を脱いでマスクを手に取り、家を出た。

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