第39話 居眠姫子2

「その肘にくっ付いているもの、何?」

 奥野夢に、突然と居眠姫子は聞かれた。休み時間の、教室の席に座っている時だ。奥野夢は超能力者だ。みんなにそう呼ばれている。誰にも見えないものが、ときどき見えたり、手を使わずに石を動かしたりできるという噂だ。彼女は学校帰りに、奥野夢が一人で石を蹴りながら帰るところを見たことがある。


「えっ、何も付いてないけど。何か見えるの?」

 居眠姫子は擦るように肘を払った。制服の肘には、何の汚れも付いていなかった。たださっき誰かに肘を引かれた感触だけが残っていた。

「気づいていないのなら、いいけど」

「それって気づいていたら駄目で、気づいていなかったらいいってこと」

 私、気づいているんだけどと、彼女はちょっと焦って青ざめた。


「そうじゃないよ。何も見えてないんでしょ」

 奥野夢は髪がなびくほど、激しく首を振った。それでも、居眠姫子は胸のつっかえが取れなかった。何か心に重しを載せられた気分だ。

「悪いものなの?」

「悪いものじゃないけど、いいものでもないよ」

「そうなの」

 彼女は、奥野夢の答えに顔を暗くした。


「そんなに心配しないで。取って上げることはできないけど」

「取る? でも、助けられてばかりだよ」

「そう。でも、あんまり信用しないで。そういうものって、人を油断させて取り憑こうとするから」

「そんなに怖いものなの?」

「居眠さんに憑いてるのは、それほど心配しなくてもいいよ。力の弱いものだからね」


 それは何か悪いことの前触れを、知らせてくれるものだと思っていた。居眠姫子は歩いている時に肘を引かれると、進んでいた道を変える。そっちに行ってはいけないのだと、教えてくれたのだと思っていた。最初はそれに気づかなくて、酷い目に遭った。命に関わるほどの大袈裟なことではないにしても、階段を踏み外しそうになったり、道端で転んだり、水溜りを踏んづけたりということはあった。


 先生に職員室に呼ばれた時もそうであった。無視することのできないことだから、肘を引かれても行かなければいけなかった。先生には、何か分からない理由で散々叱られてしまった。叱られた後で、別の生徒と間違えであったことを知らされた。そんな事最悪だ。


「奥野夢の言うように、そんなに気にすることないんじゃないかな」

「気にし過ぎると、かえって悪い結果ばかり気になるだろ」

「ぼくは、超能力者じゃないから分からないな」


 居眠姫子が下校の途中に、ぼんやりしていると、やはり肘を誰かに引かれた。何か悪いことが起こると、彼女はすぐに警戒した。危うくスマホに夢中の、女の人にぶつりそうになった。ぶつかっていれば、どちらかが怪我をしていただろう。それとも、どちらも怪我をしたかもしれない。


 悪夢を見るようになったのは、ある日のことだった。居眠姫子が事故に遭ったり、事件に巻き込まれたりする夢だった。そんな時も、誰かが肘を引いてくれた。


 考え事をしていた居眠姫子は、赤信号の横断歩道を渡ろうとする。車は当然、行き交っている。彼女が気付いていないと分かっている車はいない。突然と肘を引かれて、はっと我に返った。走ってきた車に轢かれるところだった。と同時に彼女は夢から覚めた。彼女は教室の席に座っていて、先生がせっせと板書をしていた。欠伸をしたように、目尻に涙が溜まってきた。居眠りしていたのは、わずかな時間だった。


 しかし悪夢は日に日に、現実と区別が付かなくなってきた。居眠姫子は、命の危険に曝されそうになって目を覚ます。彼女は屋上の端に立っていて、一歩足を踏み出せば、そこから真っ逆様に転落するところだった。その時も、誰かが肘を引いてくれた。もしあのまま夢から覚めなければ、彼女は死んでしまったかもしれないと思った。悪夢が現実になりそうで恐ろしかった。


 居眠姫子は、奥野夢に相談することにした。悪夢に悩まされていることを打ち明けた。そういった不思議なことには、奥野夢が適任だと聞いていた。

「奥野さん、ちょっといい。相談があるのだけど」

 居眠姫子は、言いづらそうに言った。こんな奇妙な話、普通だったら誰も信じてもらえないと、彼女は思った。


「居眠さん、何かあったの? そんな怖い顔して」

 奥野夢が眉を細めた。誰か聞かれていないか、用心深く辺りを見回した。

「それが最近、怖い夢ばかり見るの」

「それは、どんな夢?」

「事故に遭う夢よ。それも命を落としそうになる夢」

「それって、いつからなの?」

「ここ最近、一週間ぐらいかな」

「それで、居眠さんは死んでしまうの? もちろん夢の中での話だけど」

「いいえ、死なないの。また誰かが肘を引いて助けてくれるの」

 奥野夢は、そう聞いて思案するような素振りをした。静かに時が流れていく気がした。


「まだ肘を引かれるのね」

 居眠姫子は、奥野夢の言葉に何か不安を覚えながら、小さく頷いた。奥野夢は、心の中を探るように居眠姫子の瞳を見た。心が見透かされているみたいで、あまりいい気分はしなかった。

「居眠さんの選択は、間違っているのかもしれない」

「選択?」

「そう。肘が引かれるから、そうしているんでしょ」

「でも、それでこれまで助けられてきた」

「そうじゃないとしたら」

 奥野夢は語気を強めた。くりくりとした目が鋭く光った。


「どういう意味?」

 居眠姫子は、奥野夢の言っていることが分からないというより、これまで築き上げてきた信頼を崩される気がして、奥野夢の言葉が信じられなかった。

「居眠さんは、その何かの言う事を聞いては駄目なの」

「そうしたら、きっと悪いことが起きる」

「それが間違っていると言うの」

 奥野夢は、自分の考えを譲らなかった。譲りたくないのは、居眠姫子も同じだった。


「肘を引かれても、無視しろというの?」

「そう言うこと。そうしないと、ずっと悪夢に取り憑かれることになるよ」

「そんな事信じられない」

「私の言っていることが、信じられないのなら仕方ないけど。それが真実なのよ」

 奥野夢は、最後にそう言った。居眠姫子は、どうしていいか分からなくなった。


 部活で百メートル走の練習中に走っていると、居眠姫子は肘を引かれた。彼女は奥野夢の言葉が心に引っかかって、走るのを止めなかった。止めようと思った時には、百メートルを走り切っていた。しかし、何も悪いことは起こらなかった。彼女は、ほっとした。肘を引かれたからといって、全て悪いことが起こるのではないのだと知った。たまたま悪いことが起こったのかもしれないとも思えた。彼女は、奥野夢の言葉を試してみようと覚悟を決めた。奥野夢の真剣な眼差しに、そうしたからといって死んでしまうことはないと信じた。


「なあ、居眠。それって頼ってはいけないものなのかもしれないな」

「別に責めているわけじゃない。決めるのはお前だ」


 それからも、肘を引かれることはあっても、居眠姫子はその事で行動を変えることはしなかった。奥野夢の言ったようにした。そうしているうちに、肘を引かれなくなった。授業中に居眠りしていても、考え事をしてちょっと危険な目に遭っても、肘が引かれることは無くなった。


 その日、居眠姫子は恐ろしい夢を見た。登校中に、トラックの事故に巻き込まれる夢だった。彼女はトラックに轢かれそうになった。誰かに肘を引かれて、目を覚ました。目が覚めると授業中だった。彼女の肘を引いたのは、席が隣の男子生徒だった。

「酷いうなされ方していたけど、大丈夫?」

「私、居眠りしていたんだ」

「そうみたいだね」

 居眠姫子は誰が肘を引いたのか分かって、安堵した。それから、彼女は居眠りはしても、悪夢を見なくなった。

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