第38話 居眠姫子1(いねむりひめこ)
もし悪いことが起こると分かっていても、変えられない未来があるとしたなら、それは知らなかった方が良かったと思うだろう。もし分からない未来があって、悪いことが起こるとして、それを変えられるとしても、変えなくても済む未来はあるだろう。
未来が分かったとしても、全ての悪いことを避けて通ることはできないと思っている。全ての悪いことを避けなくても、未来は変わらないかもしれない。
「なあ、居眠。お前、超能力って信じるか?」
「それは超能力というよりは、虫の知らせだな」
「はは。だからって、虫は出て来ないだろ」
居眠姫子が居眠りをしていると、誰かが彼女の肘を引いて起こしてくれる。それは、授業中先生に当てられそうになったり、あるいは廊下や階段をぼんやり歩いている時だったりする。誰が肘を引いてくれるのかは、彼女には分からない。隣の席や後ろの席の生徒に、彼女が聞いてみても、誰もそんな事はしていないと不審がった。誰かが彼女の肘を引いた感触は、確かだった。それは怒っているふうでもなく、からかっているふうでもない。彼女が驚かないように、優しい引き方だった。
授業中、居眠姫子はよく居眠りをする。寝てはいけないと思いながらも、睡魔には勝てないのだった。いつも頬杖を突いて眠ってしまうから、引かれる肘はその反対側の肘と決まっていた。
夜更かししているわけではない。睡眠も十分に取っている。しかし、退屈な授業になると、ついうとうととしてしまう。先生の言葉が子守唄のように、頭の深い所で響いて聞こえてくる。そんな時は、やっぱり誰かが肘を引いてくれる。そうして、居眠姫子を起こしてくれるのだ。
机の上のノートには、居眠姫子が眠っている間に、きちんと黒板の文字が書き写されていた。彼女は書いた覚えがないが、筆跡は彼女の物だった。あるいは、よく彼女の筆跡に似せた物だった。その区別は、彼女にも判断が付かなかった。ただ彼女が書いた文字ではない、ということだけが分かっていた。が、誰が書いているのか、見たことは一度もなかった。それは彼女が居眠りしている間に、書かれたものだった。狸寝入りを決め込んでいても、決してノートに書き込まれることはなかった。だから、彼女は誰がノートを書いているのか、決して分からなかった。彼女は、それを幸運だと思っていた。
「なあ、居眠。ちょっと不思議だよな」
「誰かが黒板の字をノートに書いてくれるなんて」
「ぼくは、そんな事聞いたことも見たこともない」
居眠姫子は、部活は陸上部に入っていた。得意種目は、短距離走だった。陸上大会でクラウチングスタートの姿勢を取った時に、肘を引かれた。肘を引かれたが、止めることのできないスタートだった。スターターピストルが、耳をつんざく音で発砲された。彼女はその瞬間、両足に全力を入れて、スターティングブロックを蹴った。足全体に負荷が掛かる。その代わり、上半身は自由を得た。彼女は地面を蹴って、物凄い速度で走り始めた。走り出しは順調だった。
居眠姫子は肘を引かれたことを忘れて、一心に走った。が、残り十メートルでゴールというところで、左太腿が悲鳴を上げた。足がつって、失速してしまった。それでも左足をかばいながら、飛び跳ねるように、ゴールまで向かった。
「姫子。足、大丈夫?」
同じ陸上部の生徒が、彼女に声を掛けた。
「足つったみたい」
居眠姫子は顔をしかめて、左腿をさすった。足を引きずりながら、陸上部のみんなの所へ歩いた。みんな駆け寄ってきて、彼女と似たような表情で心配した。
棄権すべきだった。顧問の先生に怒られても、周りの選手に気味悪がられても、走るべきではなかった。パンとスターターピストルの音が、陸上競技場のトラックに響き渡る中で、居眠姫子だけがスタートせずにいれば良かったのだ。そうすれば、百メートル走は棄権することになっても、他の競技が残っている。負傷せずに部活を休むことにはならなかった。幾ら無理して走っても、怪我をしたのでは意味がない。折角肘を引いて教えてくれたのに、後悔だけが後に残った。
「分かっていても、どうしようもない事はあるさ」
「あまり深く考えても仕方がないよ」
居眠姫子は必ず弁当のお数を残すことにしている。お腹が空いていないわけではない。彼女の好物の卵焼きを敢えて残しておくのだ。そうすると、彼女が帰宅した頃には、残しておいたお数が綺麗に無くなっている。誰が食べたのか、彼女は知らない。誰かが食べたことは、彼女は知っていた。ノートを取ってくれたお礼の積もりでやっているのだ。最初は、たまたま残したお数だった。
「弁当箱、ちゃんと出しておいてね」
学校から帰ってきた居眠姫子に、母親が催促した。
「お母さん、ごめん。今日あまり食欲がなくて、お数残したから」
居眠姫子は申し訳なさそうに、鞄から弁当箱を取り出して母親に渡した。
「あら、ちゃんと全部食べてるじゃない」
「そんな事ないでしょ」
彼女は、母親が開けた弁当箱を覗き込んだ。弁当箱の中は、母親が言うように空っぽだった。何も残さず綺麗に食べられていた。ちゃんと残したのにおかしいなと、彼女は不思議に思った。誰かに鼻を摘まれたような気がした。
水筒のお茶は、居眠姫子が昼食を取る前に半分に減っていたが、弁当のお数が誰かに食べられていることはなかった。誰かに食い荒らされた弁当は、食べる気がしないだろう。
居眠姫子が肘を引かれるのは、大概は彼女が眠っている時か、物思いに耽っている時が多かった。彼女を驚かすように、肘を引くことはなかった。が、何か悪いことが起こる時には、必ず肘を引かれた。誰かが彼女に悪いことが起こると、知らせてくれるのだ。彼女は、誰かに守られていると信じていた。
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