第37話 木田来未4

 何もしないことが、このバイトの決まりだ。木田来未は、その決まりをきちんと守っている。ちょっとくらい手を振ったり愛想を振りまいたりしても許されるだろう。が、彼女はそうはしなかった。また仕事の途中の男の人が立ち止まって、木田来未を見ている。何のキャラクターか思い出そうとしているのか。それともその熊のキャラクターが好きなのか。今まで足を止めた、どの人よりも熱心に見ていた。彼女は話し掛けられはしないか、ドキドキしながら立っていた。着ぐるみの中に人が入っていることを疑わない大人ほど、厄介な者はいない。


 男の人は木田来未の爪先から頭の天辺まで、じっくりと見回した。ちょっと色が違うなとか、足の長さが変だぞとぶつぶつ独り言を言った。彼女はじっとしているのがつらくなった。その男の人が早くどこかへ行って欲しいと懇願した。その願いが通じたのか。男の人は急に腕時計を確かめると、ようやく急用を思い出したように去っていった。木田来未は何事も無く済んだと、ほっと胸を撫で下ろした。


 多神夕美に手紙を書こう。彼女に手紙を書けば、何でも願いが叶うと聞いていた。お金が欲しいという願いは平凡だ。勉強ができるようになるという願いも、きっと誰かが書いたはずだ。彼氏が欲しいという願いには、木田来未は賛同しかねる。この大きな手で、上手く手紙が書けるだろうか。読めない手紙ほど無用な長物はない。困っている人を助ける願いならば、願う意義があるように思える。


 国見久子の机と椅子が見つかればいい、と書けば良いのか。それとも犯人が捕まればいいというのはどうだ。この教室の中から、犯人が出るのは嫌な気がする。捕まっても捕まらなくても、嫌なことをしてしまったと悔やむだろう。願い事は、もっと楽しいことでなければならないと、木田来未は思った。


「来未でしょ」

 誰かが、熊に向かって木田来未の名前を呼んだ。彼女は、学校帰りの栗原美優をまじまじと見つめた。

「やっぱり来未だ。こんな所で、何しているの?」

 まさかこんな所でクラスメイトに会うとは、彼女は少しも思わなかった。しかも着ぐるみを着ているのに、なぜだか正体がバレている。彼女には、それがどうしてだか理解できなかった。着ぐるみに名札が付いているわけではないだろう。


「ねえねえ。それって、バイト?」

 栗原美優は、興味津々と瞳を輝かせている。

「ああ、もしかしてしゃべったり答えたりしちゃいけないんだ」

 栗原美優はびっくりしたように、慌てて口を手で隠した。それから、辺りをキョロキョロ見回した。別に怪しい人も店長も見えなかった。

「大丈夫だよ。私、絶対に誰にも言わないから。これでも口、堅い方だから」

 そういう割には、栗原美優は大きな口で滑らかによくしゃべる。木田来未は、どうしていいのか分からずにただ困惑して立っていた。が、熊の顔は笑っていた。それが親近感を与えた。彼女の表情は、栗原美優には伝わらなかった。


「学校の誰にも秘密にしておくからね。安心してよ」

 栗原美優は、可愛く片目をつぶって見せた。

「でも、何だか面白そうなバイトだね。私もちょっとその着ぐるみの中に入ってみたいかな。別人に変身できるみたい。別人じゃなくて、別熊か。ふふふ」

「その中、どうなっているの? 頭、重そうだけど。ああ、しゃべれないんだったね」

「おっと。それじゃあ、来未。あんまり邪魔したら悪いから、私そろそろ行くね」

 栗原美優はバイバイと小さく手を振って、夕暮れの人混みに紛れていった。木田来未は何とも寂しい気持ちで、ぽつんと書店の前に立っていた。ときどき彼女の方に目を向ける人もいたが、ほとんどが素通りしていく。この時間帯の人通りは、どこか慌ただしい。


 木田来未は着ぐるみに入っていることがバレてしまったのなら、このバイトももう続けていられないと思った。もし学校で熊の着ぐるみの正体が、彼女だとみんなに知れたら大変だ。みんなは熊の着ぐるみのことを、木田来未と呼ぶだろう。それが、たとえ別人が入っていたとしてもだ。そうなったら、熊の着ぐるみの心無い悪戯を、全て彼女のせいにされてしまうだろう。


「お疲れ様。もう上がっていいよ」

 書店の店長が、いつの間にか店先に出てきていた。接客するような笑顔を作っていた。

「大丈夫? ちゃんと歩けるかね」

 覚束ない歩みの木田来未に、店長が心配そうに声を掛ける。本棚にぶつからないように、彼女は大きな手で探りながら、お店のバックヤードまで歩いた。


「ああ、ちょっと待っていてね。背中のチャックを下ろして上げるから。一人じゃ、脱げないだろ」

「うむ。どこかに引っ掛かって上手く下ろせないな。よしよし。チャック下ろしたから、あとは自分でできるね」

 店長はすぐに部屋から出て行った。木田来未は生まれ変わるみたいに、熊の着ぐるみの頭を脱いだ。視界が急に広がった。店員が休憩する狭い部屋にいた。着ぐるみの体も脱いで身軽になった。こんな重い物を身に着けていたのかと、彼女は呆れてしまう。萎んだ着ぐるみは、顔は笑っていても、何だか悲しそうだった。正体がバレてしまったから、もうこの着ぐるみを着ることもないだろう。木田来未は、ちょっと残念な気がした。


「なあ、木田。栗原美優に、正体がバレてしまうなんて予想外だったな」

「ひょっとしたら、ずっと見られていたのかもしれないな」

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