第36話 木田来未3

 動くのが苦手なこの格好では、体育の時間は、どうにもならない。熊なのに動くのが苦手とは、どういうことだ。走ることも、ボールを受け取ることも、鉄棒をすることも上手くできない。木田来未はただ突っ立って、何もできないと頑なに訴えるしかないと思った。転ばないように、頭を落とさないように、とぼとぼと走る姿は情けないほど格好悪い。体中に重りを付けて走っているように重い。身体能力は、ゼロに等しい。


 先生は、「おい、熊。何やっているんだ。遅れるな」と木田来未を急かすかもしれない。みんなは、熊に向かって頑張れと励ますだろうか。急かされても励まされても、彼女のペースは上がらない。熊の中で、じっとりと嫌な汗を掻く。歩くくらいの速さで、最下位を律儀に守り続けなければいけない。どんなに疲れていても、へばっていても、にっこりと笑った熊の表情は変えられない。彼女は、運動がこれほど過酷なものとは思っていなかった。試練といってもいい。だぶだぶの短い足がもつれそうになる。早くこんな物、脱いでしまいたい。でも、一人ではこの着ぐるみを脱ぐことはできなかった。そんなところ、人前で見られてもいけなかった。それが、このバイトの決まりだった。


「わー。これ、何かのキャラクターだよね」

 同じ学校の制服を着た女子生徒三人が、木田来未を見つけて、はしゃぎながら近寄ってきた。知り合いではないけれど、やりにくい。まずいことになったと、彼女は思った。

「何ていうキャラクター?」

「よく知らなけど、多分絵本の奴。クマ太郎だったかな?」

 クマ太郎ではない。一匹クマさんだ。女子生徒たちは棒立ちの彼女に、行き成りスマホで写真を撮り始めた。

「三人並んで、どうやって撮るんだ」

「三人同時は無理だね」

「代わり番こに撮ろうよ。先に見つけたのだから、私が一番でいい?」

「いいよ、何番でも。でも早くしてよ」

 どんなに可愛いポーズを決めても、木田来未は協力しない。ただ黙って突っ立っているだけだ。それでも、熊の顔は笑っている。そういう顔だからだ。

「もっと仲良しな写真が欲しいな」

「ああ、そう。こんな感じにね」

 一人の女子生徒が、不意に彼女へ抱き付いてきた。別の女子生徒も、もこもこする体をぎゅっと抱きしめた。彼女はびっくりして、手をバタバタさせるところだった。ええっと大きな声も出そうになった。声を出してはいけないのが、店長からの指示だった。


 木田来未は同年代の女子生徒には、小さな女の子やその母親、男の子では起こらなかった差し迫った感情が生まれてきた。熊の着ぐるみを着ていることが恥ずかしくなった。

「おっと、そろそろ行かないと」

「そうだね。塾に遅れちゃう」

「バイバイ、クマ太郎」

 萎んでしまった彼女の気持ちをよそに、散々着ぐるみの体を触った女子生徒たちは去っていった。彼女だけ取り残された気分になった。


「着ぐるみを見ると、なぜか微笑ましくなるよな」

「ちょっと触りたくなるのは、誰だって同じだろ」

「はは、でもあまり触って欲しくないんだ」


 ホームルームの時に、机と椅子が無いと遅れてきた国見久子が言った。教室はそんな事が、実際に起きるのか、生徒の心が大きく揺らいでいた。それでも木田来未は、自分の机と椅子が取られないで良かったと、ほっとした。


 どうして犯人は国見久子の机と椅子を隠したのだろう。国見久子に興味があったのか。それともただの悪戯か。悪戯にしては、ちょっと酷すぎる。ひょっとしたら、机と椅子はオレンジ色の熊に奪われたのかもしれないと不安になった。


 着ぐるみの姿では、学校の階段は手すりを持たないと、足を滑らしそうで下りられない。とても人に見せらる姿ではない。時間も掛かるし、情けない格好だ。それでも慎重に下りていくしかない。みんなどんどん追い抜いていく。木田来未だけが、置いてけ堀を食うような気がした。生徒のいなくなった、放課後の校舎は寂しい。


 オレンジ色の熊が、鞄を持って下校する。赤い夕焼けと同じ色だ。みんな同じ制服に身を包まれいる中、木田来未だけが異様に目立っている。一人とぼとぼと歩く。しゃべれないのだから、友達と並んで帰るわけにもいかない。クラスのみんなは気づいているかもしれないが、熊の着ぐるみに入っているのは木田来未とは打ち明けてはいない。


 書店の前でオレンジ色の熊を見ると、みんなちょっと顔をほころばす。着ぐるみが珍しいのか、わざわざ足を止めてじっと見つめる人もいる。それは、動物園の檻の中の動物を眺めるような興味のある目だった。しかし、木田来未はどんなに見られていたとしても、見返さずに看板のように立っていた。そうすれば、熊の着ぐるみを見ていた人は店に入るか、立ち去ってしまうからだ。


「ぼくだって、そんな着ぐるみを町で見かけたなら、ちょっと立ち止まってみるかもしれないな」

「でも、触ったりはしないと思うよ」

「意地悪じゃないさ」

「誰かが入っているって分かっているからだ」

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