第35話 木田来未2
着ぐるみの手は筆記用具を握るには、大きな手だった。何とか掴めても、ノートを取るには苦労する。真面に文字を書くことはできない。そもそも机の上の教科書やノートを見ることができるのかも怪しいものだ。大人みたいに不釣り合いの学生机の前へ座って、居眠りしてても気づかれない。しかし寝ている間に、頭が脱げてしまったら大変だ。
目立っているから、先生に当てられたら、どうしよう。何て呼ばれるのだろう。名前は呼ばれない。熊と呼ばれるかもしれない。私が熊の着ぐるみに入っていると知られていない。友達にも分からない。声は出してはいけないのだから、当てられても立ち上がって黙っていなければならない。
「分からないのか?」
と先生は言ってくれるだろう。私は返事をする代わりに、大きな頭で頷くしかできない。その時、頭が脱げてしまったらどうしよう。滑稽だ。そんな恥ずかしい姿をクラス中に見られたら困ると、木田来未は思う。
「もういいから座りなさい」
先生は呆れたように言う。着ぐるみは、座るのも一苦労だ。ちゃんと座れるだろうか。間違って後ろの席の机に座ってしまわないか。誰かが悪戯で椅子を引いてしまったら、派手に転んでしまう。そうなったら思いっきり尻餅をついて、ひっくり返った亀みたいに身動きが取れなくなる。教室中が笑いの渦に包まれるだろう。そんな恥ずかしいところを、スマホで撮られるかも知れない。
「木田、そのバイト誰にも秘密なんだ」
「その格好じゃ、誰もお前とは気づかれないだろう」
大きな得物だ。大きすぎるくらいの得物だ。小学生ぐらいの男の子が、手にはオモチャの銃を持って、木田来未狙っていた。バンバンとか、ビビビとか見えない銃弾で撃ってきた。オレンジ色の熊の中には、人が入っているんだぞ。遊びに夢中な男の子は、気づいていないのだ。彼女は、笑った熊の表情でゲームセンターの射的のように動かなかった。何もせず、店の前でただ立っていることが、彼女の仕事だった。男の子は調子付いて、更に声を大きくした。ダダダダダン、バババババン。男の子の手にした銃から、激しい火花と煙が噴き出した。彼女は、体が豆鉄砲で撃たれたみたいに、チクチクしてきた。
やられたと大袈裟に倒れ込んで、死んだ振りをしない限り、男の子はオモチャの銃で木田来未を撃ち続けるだろう。それでも彼女は動かずに、立っていなければならなかった。
男の子は何の反応もしない熊の着ぐるみに、愛想を尽かせたのか。それとも、新しい大きな獲物を見つけたのだ。オモチャの銃を片手にいなくなってしまった。
昼食を食べるときは、どうするのだ。大きな頭を斜めにすると、首との間に少し隙間ができる。そこから食べ物を差し込んで食べられないこともない。それでも、大きな手が詰まって上手く入らないだろう。箸はこの手で持てるだろうか。大きな熊の手には、小さな箸は不便だった。母親の手作りの小さな弁当を前に、どうやって熊が食べるのか、みんな注目しているかもしれない。誰にも見られない場所で、一人になって食べるしかなさそうだ。一人じゃ背中のチャックも開けられないから、熊の大きな手のままだ。購買に行って、大きめのパンを買ってこようか。しゃべることはできなくても、財布を渡して、お金を取ってもらうことはできそうだ。大きめのパンなら、熊の手でも掴めそうだ。ストロー付きのジュースは、諦めるしかなさそうだ。
「ご苦労様。あと一時間くらいだからね。その調子で頑張って」
書店の店長が、木田来未をねぎらって声を掛けた。そんな事で油断してはいけない。彼女は着ぐるみの頭が、落ちないように両手で押さえて頷いた。店長は、すぐに店の奥へ引き返していった。彼女はまた突っ立って、動かなくなった。熊の狭い視界から見ると、先ほどよりも行き交う人の流れが、多くなったように思える。みんな家に帰るのだ。急ぎ足の人もいれば、ぶらぶらと散策するような足の人もいる。
どこかからいい匂いがする。隣は焼きたての芳ばしい香りのパン屋に、苺の甘酸っぱい匂いのケーキ屋だ。コロッケの美味しい肉屋もある。ぐーと着ぐるみの内側から、腹が鳴った。ぐーは、しゃべったうちには入らない。熊だってお腹が減れば、お腹も鳴るだろう。クレープを美味そうに食べながら歩く学生が、木田来未の前を通った。バナナとチョコレートと生クリームを包んだクレープだ。くんくん鼻を利かせれば、匂いで分かる。学校の噂話に花を咲かせている。その向こうは、買い物帰りの親子連れだ。夕ご飯の話をしている。その日は、ハンバーグらしい。仕事の愚痴を言っているのは、四十代のサラリーマンだ。仕事先で嫌なことがあったのだろう。学生のカップルは、これからデートのようだ。ファーストフードに行くか、映画に行くかでもめている。街は、木田来未が何もしなくても動いている。
熊になってから、嗅覚と聴覚が敏感になった気がする。食欲も増すようになった。肉食いたい。ハチミツ食いたい。この大きな手には、肉とハチミツがよく似合う。この笑った熊の口からは、何も食べることはできない。ただにんまりと笑って、見る人を和ませるだけだ。
「そのバイト、楽なようで案外苦労するよな」
「ぼくは、やってみたいと思わないよ。閉所恐怖症だからな。その着ぐるみを被るのは不可能だ」
「意外なもんか。木田だって苦手なものがあるだろ」
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