第34話 木田来未1(きだくるみ)

 彼女が困った決まりに縛られながれも、そのバイトをしたのには、ちょっとした秘密があった。だが、ぼくにはその秘密が分からなかった。彼女が自分だと知られないように、振る舞うことができるバイトだったからだ。


 彼女は、密かにそれを楽しんだ。が、楽しんでばかりはいられない。困った決まりというものが、そこそこ厄介なものだったからだ。彼女にとって、それは秘密を守るための決まりであって、決まりを守るための秘密でもあった。自分だけの秘密というものは彼女にとって、まるで掛け替えのない宝物のように魅力的だと思う。

「おい、木田。お前、最近姿を見掛けないが、どこにいるいるんだ」

「それは分からないだろう。いや分かるか」


 この着ぐるみのバイトには、幾つかの決まりがあった。人前で頭を取ってはいけない。着ぐるみを脱いだり着たりしているところを、人に見られてもいけない。これが一番重要な決まりだと店長に言われたことは、何があっても声を出してはいけないということだ。木田来未は、そんな事大して問題じゃないと思った。


 一週間着ぐるみを着て店の前で立っておく。それが、今回のバイトの内容だった。着ぐるみの中は、自分で自分の足元を見ることができないほど、視界が狭かった。首を回しても、体ごと振り返らなければ、横を見ることもできなかった。ラジオ体操すら真面にできない。不便なことこの上なかった。


 その着ぐるみは、顔が可愛くデフォルメされた、オレンジ色の熊だった。人気絵本の、一匹クマさんのキャラクターだ。時給八百五十円のバイトだった。割りのいいバイトとは言えないが、決まりさえ守っていれば、これといってすることは、何も指示されていない。商店街の小さな書店の前で、ただ立っておけばいいと言われている。店の前の通りには、学校帰りや買い物をする人々が行き交っている。木田来未は、それを日暮れが早く近づくような、狭い視界の着ぐるみの中から、ぼんやりと眺めていた。


 何もしなくていいからと言われていたが、お客さんを呼び込むために、踊って見せたり、可愛いポーズを取ってみたりしなくてもいいのかと、木田来未は考える。が、着ぐるみは頭が思いのほか重く、思い通りには動けない。少しでも激しい運動をすれば、息が上がってしまうだろう。真夏でなくて良かった。暑さでとても着ぐるみに入っていられないだろう。


「なあ、木田。着ぐるみの中って、どんな感じなんだ」

「へー、視界が狭いんだな。ぼくは狭い所は苦手だな」

「木田は、結構平気なんだな」


 駆け出しは順調だった。ただ立っているだけの仕事だから、何も間違えるはずがなかった。何も起こらなければ、問題のない仕事だ。何か起こりそうな雰囲気もなかった。ただお店の前にじっと立っている。それだけで良かった。


 小さな女の子が、熊の着ぐるみを見つけて近寄ってきた。木田来未は、愛想良く手を振った方がいいのかなと迷った。何も指示は受けていなかった。女の子は母親の手を掴んで、こっちがドキドキするような目で、じっと彼女を見つめた。女の子は着ぐるみの熊を見つめていたのだろうが、木田来未は自分が見られているような気がした。睨めっこするわけにもいかない。彼女はそっと視線を逸らして、知らない振りをした。

「クマさんだ!」

 女の子が母親に大声で言った。木田来未に向かって言ったのかもしれない。母親は、そうだねと女の子に微笑んだのかもしれない。が、木田来未には、どうだか分からなかった。ただ何もせずに立っておくことが、これほどつらい事とは、彼女は思っていなかった。


 話し掛けられたのだから、手を可愛く振って、クマさんだよと答えたいという衝動に、木田来未は駆られた。だが、それは指示されていない。女の子は熊の大きな手を引っ張ったり、ふかふかしたオレンジ色の体に抱き付いたりはしなかった。それを母親が許していないからだ。女の子は母親の側にいて、ただ熊の着ぐるみから目を離さなかった。木田来未もただ書店の前で動かず、立っているだけだった。暗いトンネルの中から外を覗くように、通りを行き交う人を眺めているしかできることはなかった。

「クマさんの手、大きいね!」

 女の子が、木田来未の手を触ってくると思った。手くらいなら幾らでも触らせて上げたかった。が、そう言っただけで、女の子は熊の大きな手を触らなかった。母親は何も言わなかった。女の子は、本当はオレンジ色の熊と遊びたかったのだろう。


 急に静かになって、木田来未は女の子の方へ顔を向けた。小さな女の子を見つけるだけでも、この体は不便だった。もうそこには、小さな女の子も母親もいなくなっていた。書店に入っていったのか、どこかへ行ってしまったのか。彼女は着ぐるみの中で、ほっと息を吐いた。女の子は一匹クマさんの絵本を、母親にねだったのだろうか。それとも、近くのパン屋で甘くて美味しいパンを買ってもらうのか。木田来未には、着ぐるみの中で想像した。


「なあ、木田。着ぐるみの中ってどんな感じなんだ。ぼくは、一度も入ったことないけど」

「何だ。意外と大変なんだな」

「ぼくは、もっといい物だと思っていた」

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