第40話 村瀬里奈1(むらせりな)

 世界が他にも複数存在するなら、ぼくは他の世界をちょっと覗いてみたいと思う。たとえ他の世界に行く手段がなかったとしても、それは変わらない。だけど、この世界にだって、まだ見つけていない世界は、たくさんあるはずだ。それでも、その世界に足を踏み出すことはできないでいるのは、なぜだろう。そういう世界に入るには、何かと自分では手に入れることのできない、諸々の条件があるからだろう。それでも諦める必要はないんだ。偶然にだって、新しい世界を見つけることはあるんだ。それに彼女が気づかないのか、気づかない振りをしているのかは分からないのだけど。

「なあ、村瀬。別世界に、どうやって行けると思う」

「それって、テレビのリモコンだろ」


 村瀬里奈は、教室の席に座って伸びをした。今まで休眠していた体が、急に活動し始めたように思えた。教室は、登校してきた生徒で慌ただしかった。男子生徒が、すぐに彼女をからかうように声を掛けた。

「おい、村瀬。それスマホじゃなくて、テレビのリモコンだろ。間違えて持ってきたんだ」

 確かに村瀬里奈が机の上に置いた物は、スマホではなくテレビのリモコンくらいに大きく、形が洗練されていなかった。彼女は、男子生徒の言葉を無視してリモコンを手にボタンを押した。リモコンには小さなボタンが、整然と並んでいた。


 さっき村瀬里奈をからかった男子生徒は、一瞬でいなくなり、静かな教室に移り変わった。教室には、彼女一人が席に座っていた。他の生徒は、誰もいなかった。窓から見える乾いた運動場にも、生徒の姿はなかった。ただ白線で、SOSと書かれていた。文字の形が歪なのは、上空からも見えるように文字が途轍もなく巨大だからだった。彼女はもう一度、教室を見回した。ここにいつまで座っていても、生徒は現れなかった。ガタとどこかで雷鳴の轟く音がした。空は澄み渡るほど晴れていた。


 村瀬里奈は無骨なリモコンを手にすると、立ち上がった。教室から出て、廊下をゆっくりと歩いた。廊下にも他の教室にも、生徒の姿は見えなかった。教室の入り口の扉は誰かがいても分かるように、開かれたままだった。誰もいない校舎は、ほっとする。が、少し退屈なようにも思えた。それでも、どこか学校ではない別の建物にいるみたいだった。彼女は廊下の端まで来ると、窓の外を眺めた。校庭にも誰の姿も見つけられなかった。


 リモコンのボタンを押して、教室に戻る。教室のどの席にも既に生徒が座って、熱心に自主勉強していた。村瀬里奈が席に戻ったのを確かめて、斜め後ろの島田仁絵が手を休め、顔を上げた。

「里奈、おはよう。今日は遅かったね」

「おはよう。みんなが早いだ。私は普通に来たんだけど」

「三十分も早く来るのだから朝、大変」

「私、そんなに早く起きられない」

 村瀬里奈は、ちょっと頬を膨らました。島田仁絵は、また机の教科書とノートに向かった。彼女は、自主勉強する気分にはなれなかった。この教室で勉強していないのは、彼女だけだった。学校へ到着して、朝の自由な時間というのに、友達とおしゃべりしている生徒は一人もいなかった。鼻が少しつんとした。


 村瀬里奈は机の上のリモコンに手を置いて、どうしようか迷った。教室の必死に机へ向かう生徒たちの背中を見ていても、教科書やノートを出してみても、気分は変わらなかった。ここの生徒は真面目過ぎるのだ。それでも、静かで平穏な教室だった。何もしなくたって、誰も文句は言わない。ただ自然と勉強をしなくてはいけない、雰囲気が作られていた。彼女は教科書とノートを開くと、問題を解き始めた。もうしばらくこの教室の平和な雰囲気に浸っていたかった。教室の扉が開けられて、担任の先生が入ってきた。


「教室って不思議だな。みんなが集中していると、自分もそう言う気分になってくる」

「なんだ。村瀬は、そう言う気分にならないのか?」

「それがあるからか」


 村瀬里奈はリモコンのボタンを押した。生徒はみんな薄汚れたヘルメットを被っていた。服装も厚手の防弾服を着込んでいた。教室の机が三四脚つなげて並べられ、その上に包帯に巻かれた生徒が横になっていた。

「救急箱ある? 早く止血をしないと」

 村瀬里奈の側に立っていた女子生徒が、差し迫った声で言った。彼女は、出血している生徒の額を見て、気が遠くなりそうになった。彼女の手にはリモコンと救急箱を手にしていた。


「村瀬さん、それ貸して」

 村瀬里奈は、女子生徒に救急箱を手渡した。女子生徒は何の躊躇いもなく、負傷した生徒の頭にガーゼを当てて包帯を巻いていく。廊下を誰か数人が、慌ただしく走ってくる足音が聞こえた。ここでは一分一秒が、貴重な時間のように思えた。開けっ放しの教室の入り口から、担架に乗せられた負傷者が運ばれてきた。顔を見れば、村瀬里奈と同じクラスの男子生徒だった。苦悶の表情を浮かべ、うなされるように唸った。服の胸が赤黒くにじんでいた。


「机に乗せて、急いで服を脱がせましょ」

 女子生徒が銀色のハサミを手に、もう男子生徒の服を切り始めている。村瀬里奈は男子生徒の辛そうな表情を見ると、つい顔を背けたくなった。

「村瀬さん、しっかりして。動かないように体を押さえていて」

 彼女は返事もできなかった。ただ圧倒されて、その女子生徒の指示に従った。

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