第24話 小谷真心4

 熊の頭を被った男子生徒が、教室に戻ってきた小谷真心を、がおーと驚かした。小谷真心は、あまりの恐ろしさに逃げ出しそうになった。それでも、彼女の失われた声は戻らなかった。喉が詰まったように、声は出なかった。


「もうどうしたら、真心ちゃんの声が治るんだろ?」

「こんな方法で、本当に治るのかよ」

「他にどんな方法があるの。あんた代案ある?」

「えっ? 知らないけど」

「だったら、黙っていてよ。みんな真剣にやっているんだから」

 ちょっと調子に乗っていた男子生徒は、真面目な女子生徒に咎められ、不機嫌になってしまった。


 クラスのみんなが、小谷真心の声を治すために試みたことは、全てが無駄だったというわけではなかった。小谷真心は驚いたはずみに、悲鳴を上げそうになったこともあった。が、あと少しで何かが喉に蓋をしているみたいに、彼女の声は出なかった。それは、ちょっとした弾みなのかもしれない。が、何かが足りなかった。何が足りないのか、彼女にもクラスの誰にも分からなかった。


「小谷。こういう事は、気負ってもしかないさ」

「ふとした拍子に治るってこともあるんだ」

「そんな顔するな」


「今日、カラオケに行ってみよう。思い切り叫んでみれば、声が出るかもしれないよ」

 放課後になると、佐野真奈は気軽に小谷真心を誘った。微塵も迷いのない力強い手で、躊躇う彼女の腕を引っ張った。彼女は腕を引かれるままに任せて来たが、カラオケボックスまで来て戸惑った。声が出ないのに、こんな所に来て辛くなるだけだと思った。佐野真奈は個室に入ると、すぐ様彼女の一番好きな曲を入れた。マイクを持たされ、歌ってみようと促した。伴奏が始まって、歌い始めになった。鳴かない鳥は、ただの鳥だ。声の代わりに涙が出た。


「さあ、頑張って歌ってみよ」

 佐野真奈の言葉は、小谷真心が陥った暗闇を照らす光のように嬉しかった。佐野真奈が、その暗闇から必死に助け出してくれようとしている。


「私が先に歌うから、後に付いて歌ってみて」

 佐野真奈は、親鳥が雛鳥にやってみせるように、一フレーズずつ歌ってみせた。小谷真心は、涙を拭って口を開いた。口から泣き声があふれてきそうだった。迷路に迷い込んだ私の声、出て来いと彼女は祈った。その時、神様が手を差し伸べたような気がした。手を差し伸べたのは、佐野真奈だった。彼女の口から、ううと唸るような声が漏れ出した。その時、声鳥という魔物が彼女の体から離れていった。カラオケボックスという声のあふれた特別な空間にいたということも、声鳥が離れた一因だったのかもしれない。


「真心、泣いているの?」

「あっ。今、声出たんじゃない! もう一度出してみて」

 少しずつであったが、くぐもった音だが、声が出る。小谷真心は、久しぶりに声の出し方を思い出した気持ちになった。あっと思えば、あっと彼女の口から声が発する。りっと思えば、りっと声が発する。がっと思えば、がっと声が出る。彼女は、今の気持ちを言葉で伝えた。当たり前だった、これまでできなかったことが、できるのだ。


「あ、り、が、と、う?」

「ありがとう。真心、今そう言ったのね」

 佐野真奈は、小谷真心に翼を広げるように抱き付いた。真っ白な羽根が、二人の周りをゆっくりと舞った。二人の嬉しいと感情が、部屋一杯に満たされる光景だった。


 小谷真心は徐々に声が出るようになった。声を取り戻すのと同時に、失われていた普段の学校生活も取り戻した。が、やっぱり授業中に先生に当てられるのは、トラウマだった。声を失った時のことが甦る。体のどこかに余分な力が入り、喉が締め付けられるように、上手くしゃべれなかった。彼女は自信なさそうに、ぼそぼそと答えた。先生は碌に聞こうとせずに、彼女を座らせた。


 声が出ないのではない。小さいだけだ。言ってないのではない。小さいだけだ。小谷真心は、学生机に体を伏せ、心の中でそう呟いた。予鈴は鳴っても、授業中の嫌な感じは残った。先生の質問の答えが、喉につっかえたような、ざらざらとした違和感を覚えた。佐野真奈が、机と机の隙間を機敏に擦り抜け、彼女の席に近づきてきた。


「大丈夫、また当てられちゃったね。嫌な先生」


 佐野真奈は少し頬を膨らませ、小谷真心の顔を覗き込んだ。彼女は、艶やかな髪が流れるように揺れるのを見て、嫌な気分がわずかに紛れた。

「先生も、少しは真心に気を遣ってくれてもいいのにね」

 彼女は、佐野真奈の言葉にもっともだと思いながらも、それが先生の仕事だから半ば諦めていた。

「あれ、絶対に嫌がらせでやっているだよ」

 佐野真奈は、ちょっと太めの眉をひそめて言った。彼女は、佐野真奈の弾むような声が好きだった。いつも彼女を慰めてくれる。


「真心、またカラオケ行く?」

「カラオケだったら、真心も思いっきり声が出せるね」

 カラオケ? その時、小谷真心は何か不可能を可能にする閃きを得たように思った。教室がカラオケボックスだったら、もっと自由に何でもできる。彼女は、解決の糸口を掴んだような気がした。


 授業中、小谷真心は先生に指名された。その日は、いつもと違っていた。彼女は堂々と立ち上がると、手にした拡声器をゆっくりと口に当てた。それから、思い切り答えた。彼女の喉は、もう締め付けられることはなかった。自由を得た小鳥のように美しい声を奏でた。教室はしーとして、彼女の声だけが響いた。やってやった。誰も文句は言わなかった。先生も驚いて、呆然とした顔で、「ああ、正解だ」と言った。


「小谷。お前、なかなか大胆なことするじゃないか」

「誰もそんな事、思い付かなかっただろう」

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