第25話 国見久子1(くにみひさこ)
彼女がいつも何を考えているのか、ぼくにはちょっと想像が付かない。でも、それはどうして、あの空がキラキラして見えるのか、そしてその空がどんよりとして悲しそうに変わるのか、分からないのとよく似ている。
どうしてって言うくらいだから、自分の頭の中に答えが、存在しないことを意味しているのだろう。それとも、答えはあるのだけれど、買ってきたばかりのジグソーパズルのように、解答がバラバラな断片ばかりで、手を付けられない状態に陥っているのかもしれない。もっとも買ってきたジグソーパズルには、ちゃんした完成の見本が付いているのだけれど。
どうして、気持ちが分からないのか? それは本当は空のことを、ちっとも向き合っていないのだと思っている。言葉を変えれば、よく知らないからだと思う。もし毎日、空を観察したり、興味を持って専門的知識を蓄えているなら、もっと違った感情で、その空と向き合っているだろう。そうなんだ。もっと違った感情で、向き合えるはずなんだ。それが叶わないのは、冷静になれないもろもろの事情を抱えているからに違いない。
今日も、彼女は頭の中を目まぐるしく混乱させている。それでいて、一日があっという間に、過ぎ去っていくのを、まるで気にしていないのは、退屈という言葉を知らないからなのか、それとも怠惰ということを忌み嫌っているのか、ぼくには分からないのだけど。彼女の相棒は、きっと火急と多忙なのだろうと思っている。彼女がそれで幸せでないのだとすると、それはまあいつも激しく枝葉を揺する木には、幸せの青い鳥は止まらないからだろう。ときどき小鳥が止まれるような休息は、誰にだって必要なんだ。
「国見。お前、どうしていつも遅刻ぎりぎりで登校して来るんだ?」
「毎日困っているお婆さんを助けていたって、理由が通じないだろう」
国見久子は、朝が苦手だった。目覚まし時計は、幾ら張り切っても、相棒が彼女なことを迷惑なほど、役に立っていなかった。だから、彼女が学校に登校してくるのは、一番最後であったし、遅刻ぎりぎりと決まっていた。国見久子が教室に入ってくると、ホームルームを待つ生徒たちで、席はほとんど埋まっていた。
国見久子は窓側から三列目、前から三番目の自分の席に急いだ。そこには山吹色のスーツを着た、ぼさぼさ頭した担任の先生が、学生机に頬杖を突いて、窮屈そうに横座りしていた。国見久子は、えっと驚いた。普通では信じられない光景を、目の当たりにして目を見開いた。
「そこ、私の席です」
国見久子は、先生が聞こえるくらいの最小限の声を出した。幾ら先生がおかしなことをしでかしたからと言って、朝から大声を張り上げる気分にはならなかった。
「そうかね。遅いから、ここで君を待っていたんだよ。久子」
「名前で呼ばないで下さい」
「おや、どうして?」
「どうしてって。何か親しい間柄みたいに聞こえます」
「親しい? 親しくていけないのかな。いいじゃないか、友達みたいで。生徒と先生が親睦を深めるのは、いいことだと思うんだがな」
「困ります」
「困る? どうしてだ」
「先生は、友達ではありません。先生は先生です」
「うーん、友達じゃないか。それは、ちょっと寂しいな」
先生は、一時考えるような素振りをした。それから、照れ臭そうに国見久子の瞳をじっと見詰めた。
「それなら、国見。これならいいだろう」
国見久子は無理矢理、頷かされた気がした。選択権を奪っておいて、念を押すのはあまり愉快には思えなかった。
「それで、今日はどうして遅くなったんだ?」
「えっ、あのー。お母さんが弁当を渡すのを忘れたから……」
国見久子は、とっさについた嘘だったから口籠った。見当違いの嘘だから、後が続かない。なぜ嘘をついたのか、警戒心がそうさせたのか分からないが、後悔をした。もっとも母親を理由に出したのは、責任逃れに違いなかった。
「わざわざ取りに帰ったのか?」
先生は、多少芝居染みたように驚いて聞いた。
「えーと、そうじゃありません」
「じゃあ、弁当は忘れてきたのか?」
「それも違います。えーと、弁当はお母さんが届けてくれました」
「そう、それは良かったじゃないか。それで、お母さんを待っていて遅れたというのかな?」
「えっ。あっ、はい」
国見久子は、何だかおかしな事になったと思った。が、先生の言った通りにしておくことにした。今更本当のことを言っても、何も変わらないと思ったからだ。
「国見はいつも遅れてくるからな。少しは気を付けなさい。まあ、今日は特別大目に見よう。いいかね?」
「あっ、はい。ありがとうございます」
国見久子は満足そうな先生の顔に気づきて、目を逸らした。何かとても嫌な気分になった。
「先生、そろそろ席を開けて下さい」
国見久子は、思い切って言った。
「そうだったな。それじゃあ、席を譲るとしよう」
先生はぴちぴちのスーツで、ゆっくりと立ち上がった。教室を見回し一度、手を揉み込むように、ポンと勢いよく打った。教室中の空気が、澄み渡るふうに響いた。
「さあ、ホームルームを始めよう。今日の欠席者はいないな」と言った。
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