第26話 国見久子2
国見久子は、学生鞄を机に掛けて席に着いた。先生の温もりの残った椅子には、嫌気が差した。どうして先生はあんな事をしたのだろうと、ホームルームの間中、考えていた。授業が始まり、先生の話を聞いて、ノートを取るのに必死になっている間も、ときどき朝の不快な出来事が、一瞬脳裏に浮かんで消えることがあった。
朝の珍事は、友達の沢田貴子も気に掛けていた。先生はいつもより早く来て、生徒を待っていたと教えてくれた。
「久子は遅くきたから、知らないけど。私が登校した時には、先生はもう教室にいたよ。じっとみんなを眺めていたの。まだ時間になっていないのに、みんな先生がいることに気付いて、慌てていたよ」
沢田貴子は国見久子の隣に立って、額で揃えた前髪の下で、太い眉を斜めに寄せた。両手を彼女の机の上に突いた。
「先生はね。空いている席に座って、その席の生徒が来ると、おはようと言って押し出されるように、別の席に移っていたの。ちょっとおかしいでしょ」
「私の席に、ずっと座っていたわけじゃないんだ」
国見久子は、沢田貴子を見上げている。
「うん。でも久子、遅いからしばらく久子の席にいたよ」
「えっ、そうなんだ」
国見久子は、さも嫌そうに顔をしかめた。
国見久子は休み時間になると、教室を出て戻って来た時、小さな恐怖を感じた。ふと朝の出来事を思い出すことがあった。彼女の席にまた先生が座っていたらと、不安になった。そうして、友達のように親しげに話し掛けてきたところを想像した。が、そうではなかった。
「国見。お前がびっくりするのも当然だ」
「いつも遅れてくるから、先生に意地悪されたんだな」
「別に深い意味はないんじゃないか」
「ぼくには、そんな事思い付かないぞ」
国見久子の席は、彼女だけの物であって、そこには誰も座っていなかった。彼女は、幻を見たような気持ちで、ほっと胸を撫で下ろした。机に指先で触れても、椅子の背もたれに触っても、彼女の席に間違えなかった。椅子に腰掛けても、もう誰の温もりも感じなかった。座った感じが、しっくりして落ち着いた。彼女のちょっとした不安も、一日の取るに足らない出来事のように、時間と共に頭の隅に追いやられていった。
四時間目の授業が終わった途端に、男子生徒が教室を飛び出していく足音が聞こえてきた。もうその生徒の姿は見えなかった。一階の購買に、急いでパンを買いに向かったのだ。国見久子は、そんな足音を耳にして安堵した。何で昼休みは、ほっとするのだろう。
生徒たちにとって昼休みは、一日の中で特別な時間だった。授業中の過剰な疲労や張り詰めた緊張を、緩和してくれる一時だった。国見久子は椅子と弁当だけ持ってきて、沢田貴子の席で一緒に食べた。
「まだ今朝のこと考えてるの?」
あまり食の進まない国見久子に向かって、沢田貴子が尋ねた。
「そうじゃないけど」
彼女は、そう疑う沢田貴子に見せるように、わざと箸を進めた。無理矢理、口に押し込んだご飯で、喉が詰まりそうになった。
「もう大丈夫? 気にしすぎだよ」
「でも、先生どうして、あんなことしたんだろう?」
「ううん。たまたま早く来過ぎて、暇だったじゃない。そんなに心配することないよ」
沢田貴子は箸は止めずに、彼女の曇った顔を見詰めた。沢田貴子は楽観的に言うけど、彼女はそう簡単にはいかなかった。
「だったらいいけど。何か嫌な予感がするんだよね」
「それって、予知能力?」
沢田貴子が、おどけて見せた。
「そんなんじゃないけど、ちょっとそう思っただけ」
「久子は心配性なんだから、きっと取り越し苦労だよ」
「そうかなー。あっ、もうこんな時間だ」
国見久子は腕時計を覗いて、まだほとんど手付かずの弁当を慌てて食べ始めた。母の作る玉子焼きは、美味しそうだった。生徒たちの談笑する昼休みは、くずくずしていると、あっという間に過ぎてしまう。
誰かが時計の針を進めたように早く感じられた。だが、それを誰も立証できない。昼休み時間中、時計をじっと眺めている生徒なんていないからだ。どうして昼休みは、こんなに短いのだろう。ぼんやりと過ごした時には、もっと長ければいいのにと思う。
「楽しい時間が短くて、退屈な時間が長く感じられるの感覚の問題だろ」
「いつも同じ気持ちでいられれば、時間の感覚は変わらないはずだ」
次の日も、国見久子は遅刻寸前で学校に到着した。教室に入って、すぐ仕舞ったと思った。生徒はみんな席に着いて、ホームルームが始まったみたいに大人しく座っていた。彼女は、遅刻してしまったと焦った次には、教室の異変に気づいた。おかしな事に、あるべきはずの彼女の席が見当たらないのだ。
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