第19話 糸井影子3

 相変わらず糸井影子と、好きな男子生徒はただの片思いだった。彼女の視界、二メートル以内に近づくことは、廊下や階段で擦れ違う時だけだった。それでも彼女の努力があってか、その男子生徒と出会う機会は確実に増えていた。それだけでも、彼女は幸せだった。顔が見れた数だけ、彼女の幸せも増すように思えた。しかしそれは、ほんの細やかな幸せだった。彼女は、それでも満足していた。


「糸井は、忘崎が羨ましいと思ったことはないのか」

「まあ、忘崎は好きでもない相手と付き合っているのだから、どうか分からないけど」

「糸井は、心に決めた相手がいるんだろ」

「何となくな。お前を見ていると分かるさ」

「誰にも言ったりしないさ。忘崎にも秘密なんだろ」


 学校の日課は一週間単位で動いていたから、大体どこに行けば、片想いの男子生徒と会えるのか段々と把握できた。それでも百パーセント行動が一致しているわけではなかったから、予測が的中すれば嬉しかったし、大きく外れれば、かなり落ち込んだ。


 どちらにしても、糸井影子の恋愛は少しも報われない、一方通行のままだった。彼女が幾ら何かを切望しても叶うことのない関係だった。それとは対照的に、豊田弘樹は毎日恋人気分で、休み時間や昼休み、放課後に、空いた時間を見つければ、どんな時でも忘崎迷の所にやって来た。はたから見ていて、恥ずかしく思うくらいだった。それでも二人の関係が、混ざり合うことのない水平線の色のように、深まることはなかった。


「今日、体育の時間サッカーで、俺シュートを決めたんだ」


 忘崎迷は、豊田弘樹が一生懸命話しかけても、どんな話題を振っても、いつもぼんやりして、ほとんど話を聞いていなかった。忘崎迷の心は、どこか遠く離れた場所にあって、彼には到底届かなかった。それは、糸井影子も知らない場所であった。それでも、豊田弘樹は石にだってしゃべり続けるように、必死にしゃべるのに夢中であった。あまり忘崎迷の反応を、気にしていないみたいだった。糸井影子は、豊田弘樹のそんな無神経な態度に、ちょっと引いてしまうことがあった。彼女の片想いの男子生徒と、どうしてこれほど差があるのか呆れるくらいだった。


 それでも、豊田弘樹は四十人近くいる対面のない生徒に、気遅れすることもなく、堂々と教室に入ってくる。糸井影子はつい遠慮して、忘崎迷を譲ってしまう。豊田弘樹は、ますます調子に乗って忘崎迷を独占してしまう。


「迷、おはよう。一時間目の数学、小テストでね。やるって忘れていたから、最悪だったよ」

 豊田弘樹は白い歯を見せた。

「ちゃんと勉強してくれば、良かったなあ」

「いつもは、こんな事ないんだけど」

「昨日はゲームで遊んで、やり過ぎちゃったからな。それがいけなかったのかも。なあ、迷。好きなゲームとかある?」


 付き合ってもう二日目には、豊田弘樹は糸井影子を真似して、忘崎迷のことを「迷」と呼び捨てにした。最初から「忘崎」だった。糸井影子でさえ、「忘崎さん」から「迷」と呼ぶようになったのは、話すようになって一ヶ月も掛かった。ちょっと馴れ馴れしいと、糸井影子は反感を覚えた。忘崎迷もそれには、びっくりしていた。豊田弘樹は、「弘樹」と呼んでくれと言うが、忘崎迷はそれには従わず、頑なに「豊田くん」と呼んだ。それも忘崎迷から豊田弘樹に話しかける機会は稀だから、あまり関係なかった。


「糸井は、豊田弘樹のことが好きじゃないのか」

「あまり好かれるタイプじゃないけどな」

「ぼくは、豊田弘樹のことはよく知らない」

「良くない噂は聞くけどな。それは、一部の生徒に悪く思われているからだろ」


 豊田弘樹は、忘崎迷の前では、やたら物事を大袈裟に装って、格好付けたがるところがあった。一応恋人だから、よく見せたいという思いは分からなくもないが、忘崎迷には何の効果もない言葉は、見ていてちょっと痛々しかった。


「俺ってさ、これでも勉強できる方だから」とか、「体育もばっちり運動神経ある方だし」とか、「ファッション雑誌とかよく見て、お洒落に興味あるんだ」とか、隣のクラスだから真実は分からなかった。そんな矢継ぎ早に話されると、おっとりしている忘崎迷は迷子になってしまう。友達である糸井影子には、それが分かっていた。


 ホームルームが終わって放課後になると、糸井影子は早速忘崎迷の所へ行って、一日の学校の日程が終わったことを喜び合うのと同時に、別れの挨拶を済ます。数分も経たないうちに、隣のクラスから豊田弘樹が来るか、教室の外で忘崎迷を待っているからだ。これでは、ゆっくり話すこともできない。が、どちらにしても通学手段が違っていたから、糸井影子は学校最寄りのバス停で、忘崎迷とは別れることになっていた。彼女が、また明日と手を振ると、忘崎迷は寂しそうな顔をする。もっと一緒にいて、話したいのは忘崎迷も同じだった。でも、また明日になれば、会えるのだからそんな寂しい気持ちは振り切って、彼女は教室を出た。教室を出た所に、落ち着かないように誰かが立っていた。やっぱりいた。豊田弘樹が廊下で待っていた。出てきた彼女には目もくれずに、忘崎迷を探すようだった。


 朝、登校してくる時間と、放課後になった時間が生徒にとって、一番慌ただしい時間帯だった。遅刻しそうな生徒は慌てたし、部活のある生徒は急いでジャージやユニフォームに着替えて、教室を出て行った。糸井影子はその日一日分の出来事を詰め込んだ重い鞄を手に、一人黙って廊下を歩いた。何かいい事があったわけではない。何か辛いことがあったわけでもない。平凡な一日だった。それでも、彼女には鞄が重く感じられた。一日分の教科書やノートは重かった。


 忘崎迷が豊田弘樹と付き合い始めて、一週間が経った。糸井影子、忘崎迷、豊田弘樹、三人の時間が過ぎる感覚は違っていても、時は平等に過ぎていった。忙しく動き回った豊田弘樹は早く感じただろうし、いつも通り過ごした糸井影子は普通で、何となくぼんやり過ごした忘崎迷にとっては、時間は長く感じたのかもしれなかった。

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