第18話 糸井影子2

 朝の昇降口だから、次々に寝ぼけた生徒がやって来る。忘崎迷や春川幸恵のように、糸井影子に声を掛ける生徒もいたが、ほとんどはそこにあるはずが無いものを見つけたような目で、糸井影子の後ろめたそうな顔を睨んだだけで、黙って過ぎてしまう。川の流れを逆らうようなことをするのだから、あっぷあっぷして息苦しくなった。それでも、彼女は片思いの男子生徒の顔を頭に浮かべると、そんな事は少しも気にならなかった。雨の日に、翌日晴れることが分かったよう気持ちだった。


「糸井。毎朝、昇降口で待っているのは、何か秘密があるのか?」

「何だ。ぼくに言えないことか」

「まあ、いいけどな。お前にとって、きっと大切なことなんだな」

「自分の信じるようにすればいいさ」


 糸井影子は、休み時間の半分をその男子生徒のことを考えることで過ごした。残りの半分は、忘崎迷と日常の何でもないことを話した。ただぼんやりと彼の横顔を思い浮かべることがあったし、うっとりと彼とのやり取りを妄想することもあった。そうやって考えているうちに、閃くような名案が浮かんだ。


 片想いの男子生徒が登校して来るのを認めると、糸井影子はわざと階段を駆け上って、右足を軸にくるりと回転して踊り場で引き返した。紺のスカートがひらりと開いて揺れた。それから男子生徒が上がってくるのを少し待った。階段は狭いから擦れ違う時は、その男子生徒とは一メートルまで近づいた。肩が触れそうなくらいとまではいかないが、それだけで糸井影子は、振り返って階段を駆け上がりそうになるほど心が躍った。


 ある日、糸井影子は忘崎迷の告白に、天井がぐらりと近づいたくらい驚いた。驚いたのは、告白した忘崎迷も同じだった。隣のクラスの男子生徒、豊田弘樹に突然と廊下に呼び出され、付き合ってくれと告白されたからだ。どうして自分が選ばれたのか、選択が間違っていると思ったくらいだと言った。その上、忘崎迷がおどおどして返事を決めないうちに、付き合うことになってしまったことにも困惑した。豊田弘樹の強引さに、為す術がなかったという。


 糸井影子の知らない名前の生徒だった。彼女は、片想いの男子生徒の名前も知らなかった。自分だけの秘密だから、誰かに聞くこともできない。片想いであることは、誰かに知られても悟られてもいけなかった。そういうルールを、この片思いという状態を安全に維持するために、糸井影子が作ってしまったのだ。


「糸井ちゃん。私、どうすればいい?」

 忘崎迷が、あどけない顔を近づける。

「私、何も言えなかったの。まさかすぐに付き合うことになるなんて、思ってなかったから」

「私、何て言ったんだろう。動揺しすぎて、それすら覚えていないよ」

「断れば良かったのかな?」

「好きとか嫌いとか、それ以前にどういう人か全く知らないの」


 豊田弘樹は休み時間や昼休みになると、毎日のように忘崎迷の所へやって来た。そんな時、糸井影子は青い空を飛んでいく赤い風船を見た時のように、寂しい気分になった。友達でも、特別な関係にある恋人同士の間には、割り込めないからだった。


 糸井影子は教室に豊田弘樹が現れると、自然に忘崎迷の相手を彼に譲った。彼女が豊田弘樹に遠慮したというよりは、彼の強引さに負けたという形だ。豊田弘樹が二人の間に割り込んで来れば来るほど、糸井影子と忘崎迷の距離が離れていった。


「糸井、忘崎を豊田弘樹に取られたと思っているんじゃないか」

「確かに、一緒にいる時間は減っているな」

「それは、ちょっと寂しいよな」

「でも友達なんだから分かってくれるさ」

「友達と恋人じゃあ、どっちが大切かなんて愚問だろ。単純に比較できないよ」


 友達にとって、休み時間は貴重な交流の時間だった。人の気持ちは海上に浮かんだ船のようなものだから、いつでも繋ぎ止めておかないと離れて見失ってしまう。その機会を豊田弘樹に、全て奪われていくような気がした。それも男女の仲だから、多少は仕方ないと思っていた。糸井影子だって、好きな男子生徒のために、友達を犠牲にして登校時に時間を割いていたのだ。


 糸井影子は比べ物にならないと分かっていても、つい片想いの男子生徒と、豊田弘樹を比較してしまう。でも、全然違っている。そうに決まっている。片想いの男子生徒は天体のように光り輝くところがあるが、豊田弘樹にはそれがなかった。ひいき目に見ていたとしても、容姿は美少年で凛々しく、片想いの男子生徒の方があらゆる点で優れていると、彼女は思っていた。


 それから、糸井影子は彼女と豊田弘樹を比較してしまう。いつも忘崎迷と二人の間に、物怖じせずに割り込んでくる、豊田弘樹が信じられなかった。彼女には、彼ほど図々しくできなかった。


 忘崎迷は飴を舐めながら、糸井影子に近寄ってきた。一つ飴をくれた。忘崎迷のくれる飴は、ソーダ味と決まっていた。その飴には、子供の時の大切な記憶のような、何か思い入れがあると聞いていた。


「やっぱり飴は、ゆっくり舐めないと駄目ね」

 忘崎迷が、大きな飴を口の中で転がている。

「豊田くんがね。すぐ飴、噛んで食べちゃうの」

「何だか、全然分からない。いつも一方的に話しかけてくるから、私付いて行けなくて」

「一緒にいてもあまり楽しくないし、何しゃべっていいか、よく分からない」

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