第17話 糸井影子1(いといかげこ)
縦にしたり横にしたり、三角定規にだって色々な用途があるのように、誰も知らない使い方を見つけて、みんなに自慢したいくらい誇れるものが、ぼくにはないのだけれど。それでも定規で測って、呪文のように消しゴムで消した、ノートの中に書かれていた、ただ一つ思い浮かぶ言葉がある。それは、きっと誰にも打ち明けられずに、ぼくの頭の中で沈澱し続ける言葉だろう。
片想いだって素晴らしい自慢だと思っている。心が激しく高揚し、浮き浮きした気分でいられるなんてことは、世の中にそうたやすく出くわすことじゃないんだから。だから、自信を持ってその想いを大切にすればいいんじゃないか。たとえそれが大型コンパスで測ったみたいに二メートル以内に、近寄れない恋だったとしてもだ。
「なあ、糸井。いつも鞄、重そうだな」
「ふふふ、どれだけ大きい弁当持ってきているんだよ」
糸井影子には、入学した当初から、思いを寄せる男子生徒がいた。偶然か必然かその男子生徒を、慌ただしい朝の廊下で見つけた。運命を感じたことはなかったが、その男子生徒を見つけたのは運が良かった。一学年三百人近く在籍する生徒の中から、その男子生徒が目に留まったからだ。偶然にしては、奇跡に近かった。彼の横顔は日向みたいに、そこだけ明るく感じられた。凛々しい眉毛に、猫のような細い目で見詰めて欲しい。すっと背の伸びた制服姿は、どの生徒よりもよく似合っていた。さらさらの髪の毛を撫でてみたいと、糸井影子は思った。部活に入っているのだろうか。あまり筋肉質ではないが、どんな部活でもこなせるように見えた。
いつもは昇降口でその男子生徒を見つけると、糸井影子は靴箱に二十一センチの靴を入れる振りをして、男子生徒をこっそり盗み見した。
男子生徒は黒い制服の袖から伸びる色白の手で、素早く上履きを床に置いて、脱いだ白い大きめの運動靴を靴箱に入れた。忙しい登校時間のことだから、男子生徒は急いで上履きを履いて廊下を早足に歩く。男子生徒の早まる歩調が、糸井影子の胸の鼓動と同調して高鳴った。
おはようと、糸井影子は彼に心の中で呼び掛けてみる。少しは挨拶を交わした気分になれる。冷たい雨の日でも、廊下は湿っていても、気分は晴れやかになれた。
「なあ、糸井。好きな男子とかいるのか?」
「いや、お前を見ていると、こっそり隠れて片想いしているのかなと思って」
「何だ図星かよ」
「心配するな。誰にも言わないから」
糸井影子は、その事を毎日続けた。彼女は色付きのリップクリームを塗ってみたし、花柄の髪留めをつけてもみた。その男子生徒が昇降口に現れるのは、いつも同じ時間とは決まっていなかった。が、毎日のことだから、十分も十五分も時間が遅れることはなかった。糸井影子は、遅れないように少し早めに登校することにしていた。それでも週に一度くらいは、その男子生徒を見掛けないことがあった。先に行ってしまったのか、これ以上待っても遅刻してしまうほど遅くなってしまったのか。そんな日には、糸井影子は昇降口に心を落として、教室に上がってきたみたいに、焦ってしまう。学生机に息の荒くなった体を伏せ、誰にも気づかれないようにした。
この事は、誰にも秘密にしていた。忘崎迷とは唯一無二の親友だったが、それでも言えなかった。
ただ眺めているだけの、恋愛に発展しない片想いだから、誰かに話しても意味がないと思っていた。それよりも、宝物みたいに自分一人の胸中に仕舞い込んでいた方が、何倍も価値があることのように考えていたからだ。
でも、忘崎迷とは他のことは何でも話せる、一番の存在だった。ところが、この頃、忘崎迷はぼんやりしてばかりで、糸井影子の話も碌に聞いていないことが多かった。彼女が、どうしたのと尋ねてみても、少し遅れて返事が返ってくるか、来ないかだ。糸井影子は、ちょっと不機嫌に口を尖らせる。
「えっ。あ、ごめん。聞いてなかった」
「別に何でもないの。何となく考え事していただけ」
そんな時は、忘崎迷は埋め合わせのつもりで、飴を一つくれた。忘崎迷はよく飴をくれた。二人で飴を口に放り込んで、舌先で転がすと、口の中が洗われるように、すーとして炭酸の味がした。
「心配事? そうじゃないの。でも、昔の記憶なんだけど」
忘崎迷が言った。
「どうして?」
「そうかな。まあ、影子が言うんだから、そんな気がしてきた」
「知らない女の人にね。飴をもらったの。ただそれだけなの」
「そう、ちょっと不思議なの」
忘崎迷は飴で右頬を膨らましたまま、ゆっくりと頷いた。糸井影子はちょっと考えてみた。が、彼女の体験したことのない、忘崎迷の記憶は想像できなかった。
その日も、糸井影子は明るい昇降口で、片思いの男子生徒を待っていた。少しでも彼の顔が見られれば、心の空が澄み渡るように体が弾んだ。靴箱の陰から覗いていると、登校してきた忘崎迷に出くわした。ドキッとした。行かないのと問う忘崎迷に、糸井影子はちょっと用があるから先に行っててと断った。忘崎迷は、そうと首を傾げて行ってしまった。一分も経たないうちに、隣のクラスの春川幸恵が現れて、同じ言葉を彼女に投げかけた。糸井影子は今度も用があると言って、春川幸恵を先に行かせた。春川幸恵とは、友達というほどではなかったが、家が近くだった。
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