第20話 糸井影子4

 忘崎迷は一週間溜め込んできた物を、吐き出すように呟いた。豊田弘樹と付き合うのを止めにしたいと打ち明けた。糸井影子は、目を大きくして忘崎迷の暗い瞳の奥を覗き込んだ。それでも、いつかこんな結末が訪れることは予測していた。長い間、友達でいる忘崎迷のことだから、彼女の気持ちは手に取るように分かった。好きでもない人と、恋人ごっこはすべきでないということだ。それほど恋人という関係は、特別なものだった。


「なあ、糸井。忘崎は豊田弘樹と別れるんだな」

「最初から乗り気じゃなかったんだ」

「お前は、忘崎とは長い付き合いだから、彼女の気持ちがよく分かるだろ」

「そうか。友達でも分からないことはあるんだ。でもそれは当たり前のことだから、気にすることはないよ」


 それに一週間の間に豊田弘樹について、良くない噂を耳にしていた。隣のクラスの女子生徒が突然やって来て、告げたことだった。人の悪口だから、あまり真面に聞きたくなかった。糸井影子は、その女子生徒の口振りから、自分が豊田弘樹と交際しているのだと間違われているのだと思った。どうして、そんなお節介を焼くのか不快だった。


 それは豊田弘樹が、これまで何人もの女子生徒に告白し、振られていること。他にも付き合っている女子生徒がいるらしいということだった。それが事実なら放っておけない。糸井影子は、早く別れた方がいいと忘崎迷に助言した。言い辛いのなら、私が代わって断ってもいいと言った。糸井影子に忘崎迷勇気づけられた。気取ったようにやって来た豊田弘樹に、思い切って別れを告げた。半分は糸井影子が振ったようなものだった。


「迷が、あんたと別れたいって言っているの」


 豊田弘樹はちょっと顔を曇らせ、溜め息を吐いた。豊田弘樹の返事は、淡白なものだった。あっそうと乾いた唇で一言答えただけだった。それは理由を聞かれる前に、糸井影子が別れの原因をはっきりさせていたからだ。何人もの女子生徒に告白していること、他にも付き合っている人がいるという噂があることを、豊田弘樹に鋭く突き付けた。これだけ完璧に言われれば、反論の余地がなかった。だから、迷はあなたと別れる。体中の力を抜き取られたように、気落ちした豊田弘樹は、休み時間の騒がしくなった廊下で、何とか別れを承諾した。これで全て決着が付いた。関係のない生徒が、ちらりと彼女らを見て素通りしていく。糸井影子も忘崎迷も、ちょっといい見せ物になっていると気づいて恥ずかしくなった。


 糸井影子は、忘崎迷の手を引いた。忘崎迷の手は、熱く湿っていた。廊下の窓から入った朝の光が、四角く切り取った影を床に作っていた。外はぽかぽかした陽気だった。忘崎迷は豊田弘樹の気持ちが感染したみたいに、少し沈んだ表情をしていた。振られた方も振った方も、全く傷付かないわけではなかった。教室から彼女らと没交渉に、他の生徒たちの明るい声が響いた。辛気臭いのは嫌いだ。糸井影子は、早く賑やかな教室の中に混ぜて欲しかった。


「お前も大変だったんだな、糸井」

「そうか。糸井が振ったみないな気分になったか」

「でも、これで終わりなんだから安心しだだろう」

「罪悪感を感じることをないさ。誰が悪いってことはないんだ」


 忘崎迷は糸井影子に、ありがとうと一言言った。そうして、ポケットから取った飴を一つくれた。忘崎迷のお礼はいつも飴一つだった。糸井影子は、もらった飴を軽やかに口へ放り込んだ。すぐに炭酸が口の中ではじけて、爽やかな心地がした。にっこり笑った。忘崎迷も同じ顔をした。


 学校の帰り、糸井影子は忘崎迷の名前を何度も呼んだ。忘崎迷はぼんやりして、夕暮れの雲くらいに、心が空に浮かんでいた。どうしたのと聞いても、なかなか返事は返ってこなかった。あんな事の後だから、糸井影子は仕方ないと思った。が、その日ほど、忘崎迷の心が迷子になったことはなかった。まだ豊田弘樹と別れたことが尾を引いているのかと、糸井影子は心配になった。


 忘崎迷とは、学校近くのバス停で別れた。迷、大丈夫と別れ際に聞いても、忘崎迷は糸井影子のことなど忘れたように行ってしまった。糸井影子はそこからバスに乗って、忘崎迷は徒歩で自宅へ帰る。


 バスはなかなか来なかった。その間、糸井影子は心が迷子になった忘崎迷のことや、片想いの男子生徒のことを考えてみた。バス停には数人の生徒が同じ所に待っていても、スマホをいじっていたり、単語帳をめくっていたりと、それぞれがばらばらのことをしていた。


 糸井影子の片想いの男子生徒は、彼女が乗って帰るバスには乗車しなかった。そう分かっていても、彼女はバス停の辺りをちょっと見回してみずにはいられなかった。ただ一目彼の姿を追い掛けられれば、それだけで幸せだった。それでも豊田弘樹の失恋のことを考えると不安になった。これ以上その男子生徒に近づくことは、片思いが終わりに近づくことになるように思えた。初めて交わす言葉が、別れの言葉になるなんて悲しすぎる。ゴールが見えているのに、ゴールしてはいけないなんて、なんて理不尽な恋愛競争なのだ。


「糸井は、ずっと好きでいられることを選んだんだな」

「正解なんてないさ」

「でも、相手に自分の気持ちを知られたら、好きでいられなくなるなんて、ちょっと残酷だな」

「自分の気持ちを伝えたいこととは、矛盾しているけどな」


 糸井影子はバスが到着すると、慌てて考えるのを止めた。うっかりバスを乗り忘れるところだった。バスは彼女が乗らなかったとしても、他の生徒を乗せて、平気で行ってしまうだろう。


 忘崎迷は道に迷ったが、糸井影子は迷わなかった。ただ遠くで片想いの彼を見ていることを続けた。それが最後の一目になったとしても、それを続けた。影のように黙って見守り続けた。彼女はそうすると、心に決めたからだ。

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