第10話 恩地道子2
そこには、人を惑わすものが棲み付いていた。惑わし。それは、人の正しい方向感覚を好物にしているものだ。だから、誰もが方向が分からなくなった。
幸いにも恩地道子の所持する、時計は狂っていなかった。正午を回って、学校の校舎は見つけられなかった。彼女は近くの家に助けを求めた。この町の人は、迷子には寛容だった。助けられたついでに、学校までの道を聞いた。地図まで書いてもらったのに、結局その地図は無駄になった。地図を見たところで、迷子になる恩地道子には無用の長物だった。地図を見ても、方角が分からないのだ。方角の合っていない地図ほど、頼りないものはなかった。
その日の午後、恩地道子は同じ学校の生徒を見つけて、ついて行くことにした。その生徒の歩みは、他の生徒より自信にあふれていた。この生徒なら、ひょっとすると、ひょっとするかもしれない。学校にたどり着けるような気がした。それを見てか、数人の生徒が彼女の後を追いかけてきた。みんな考えていることは同じなのだ。友は呼んだが、学校にはたどり着けなかった。その生徒も完全に道に迷っていたのだった。では、なぜそんなに自信にあふれていたのか。その生徒はきっと自分が道に迷っているとは、思っていなかったのだろう。
「なあ、恩地。結局、たどり着けなかったじゃないか」
「別にお前を攻めているわけじゃないよ。他人任せにできないって話だろ」
「なんだ。まだ懲りてなかったのか」
「闇雲に歩いたからって、どうにもならないぞ」
「むしろ迷ってしまうことの方が多い」
そう恩地道子は懲りていなかった。次に見つけたのは、学校の先生だった。先生とは、厳格な数学の先生だった。教職の身なのだから、自分たちよりも頭がいいと思うのは当然だ。見るからに計算や難しい問題も得意そうで、眼光も鋭かった。パズルや迷路にも精通している、と勝手に思い込んでいた。
先生なのだから、学校に行かなければ、仕事にならないだろう。恩地道子がついて行くに値する、人物だと思っていた。
恩地道子は、おはようございますと言う代わりに、黙って先生の後をくっ付いていった。もしかすると、先生が本当は学校にたどり着けるのに、生徒をからかって、それを秘密にしているかもしれないと考えたからだ。それは、全くの勘違いだった。地図は得意そうだが、持っていなかった。持っていたとしても、役に立たなかっただろう。
惑わしを誤魔化すことは、誰にもできない。その先生も道に迷っていたのだ。だから幾らついて行ったところで、学校にはたどり着けなかった。道を迷うだけだった。
知性があろうと無かろうと、惑わしの前では関係ない。どんな相手だろうと、平然で惑わしてしまうからだ。
惑わしを見つけることはできない。惑わしは、人間の姿に化けるのだ。だから、惑わしを見分けることも誰にもできない。ただ道に迷った時、それは惑わしのせいじゃないかと思うこと、その事すらも、惑わしは分からなくしてしまうのだ。
恩地道子は月曜日、登校の途中で道に迷った。それは午後になっても変わらなかった。彼女は、自分では道に迷うはずがないと思っていた。そう惑わしが思わしていた。そこが惑わしのずるいところだ。自分では自覚がないのだから、たとえ迷っていようと、迷っていまいと、どんどん道を先に進んでしまう。その道が戻っているのか、進んでいるのかも分からずに、結局は迷ってしまう。方向音痴の典型だ。
途中で見つけた書店に入って、恩地道子はその町の地図を探した。地図は見つかった。学校の場所も分かった。が、いざ道に出てみると、どっちの方向に行けばいいのか分からなかった。
恩地道子は、とうとう知らないおじさんについて行くことにした。知らない人だから、道を知っていると思ったのだ。しかし、やっぱり学校にはたどり着けなかった。着いたのは、知らない人の家だった。
そうして、恩地道子は知らない人の家に泊めてもらうことにした。どうして、その人は家に帰れたのか。その人は家に帰れたわけではない。その人も知らない人の家に泊めてもらっただけのことだった。
「恩地、お前。どうして、そんな危ないことしたんだ?」
「それは、最後の手段じゃないだろう。いや、大きな過ちだ」
「小さい頃によく言われなかったか。知らない人について行くなって」
「別にお前を脅かそうとしているんじゃない。本当のことだ」
それからも、恩地道子は学校を探し続けた。その甲斐があって、ようやく学校にたどり着いた。しかし、家には帰ることはできなくなった。
毎年この町では、多くの行方不明者が出ている。恩地道子もその一人だ。
恩地道子が見つかったという話は聞かない。だが、彼女の痕跡は、幾らでも見つかった。ぼくは彼女がきっとどこかで、元気にやっていると思っている。
もしこの世界に寸分違わない正確な地図があったとしても、世界中の道をたどることはできない。恩地道子は、そのどこかの道で迷っているはずだ。
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