第9話 恩地道子1(おんちみちこ)
当たり前のことが当たり前でなくて、当たり前でないことが、当たり前になることなんて有り得ないと思うことがある。だが、ちょっと考えてみると、案外当たり前のことって、具体的に無いんじゃないかと気づかされると、ぼくは思っている。
普段、当たり前だと思ったことが、急にできなくなった時に、当たり前だと思っているから混乱するのであって、それを当たり前と思わなければ、その混乱は起こらないのではないか。混乱が起こったとしても、それより混乱は小さくはずだ。
それでも当たり前の中に起こる混乱と、当たり前でない混乱は、混乱する当人にとっては少しも違いはないのかもしれない。
もしその学校の生徒が、みんな方向音痴だったなら。どんな混乱が待ち受けているだろうか。ぼくは、ちょっと考えてみた。あまり趣味のいい考えとは言えないが、ぼくは彼女のことを思うとその事を考えたくなった。彼女は、今もそのどうしようもない、どこか歪んでしまった世界で、道に迷いながら生きている。ぼくは、彼女がどこで迷っているか見つけられないでいた。その事だけが気掛かりだった。
恩地道子は、無類の方向音痴だった。といっても、彼女の通う学校では、無類でもなんでもなかった。その学校の生徒に限らず、町中の人がみんな極度の方向音痴だったからだ。まあ、そんな話聞いたことないと疑うかもしれない。そこがもしもの話だ。
恩地道子は、朝七時半に慌てて家を出た。それは、もちろん登校するためだった。学校へ行くために家を出たのであって、家を出るために学校へ行くのではなかった。もちろん学校へ出るために、家へ行くのでもないのだ。家を出てしまったからには、学校に行くしかない。それは当たり前のことだが、当たり前のことができない。
数分後、恩地道子は家に帰ってきた。それは当たり前のことではない。それも迷うことなく、家に帰ってきた。いや迷ったから、家に帰ってきたのだろう。しかし、家に帰ってこれたのは、全くの偶然だったのかもしれない。実は彼女は完全に道に迷ってしまったからなのだ。恩地道子は道に迷った。ただ学校に行くだけなのに、道が分からなかったのだ。
「なあ、恩地。日本の道路事情って、知っているか?」
「それは、戻ってきても仕方ないだろ」
「ちょっと考えれば、それが嘘だって分かるんじゃないか」
「他の方法は無かったのか?」
「方位磁石とか、GPSとか文明の力って物があるはずだ」
「機械音痴と方向音痴は、似て非なるものだろ」
迷路で壁に沿って行けば、いつかは出口に出られるというのは嘘である。だが、通学路なんて迷路ではないのだから、迷うはずがない。恩地道子は、壁に沿って道を曲がってきてしまったから、家に戻ってきたのだ。ただ、それだけの話だ。道は恩地道子の家の周りを囲んでいた。
月曜日の朝、恩地道子は道に迷った。それも登校途中でだ。週の初めから、こんな調子で失態を犯した。が、彼女が悪いという訳ではない。
光り輝く爽やかな朝だった。爽やかなのは、朝の景色だけだった。そんな爽やかな景色を払拭するくらい、ゾンビのように通学路には生徒があふれていた。みんな学校へたどり着けないのだ。一人残らず例外はない。みんな方向音痴なのだ。恩地道子と同じで、道に迷っていた。
恩地道子は、道沿いに錆びた看板のような町の地図を見つけた。地図を見ていたのは、彼女だけではなかった。地図の前には、人だかりができていた。その中には、恩地道子と同じ学校の生徒も交ざっていた。サラリーマン風の大人も何人もいた。しかし、幾ら地図を見ても、現在地が不明なのだから意味がない。結局、どこが現在地で目的地なのか分からなかった。
「ねえ、そこの君。君が向かっているのは、学校のある方向かい?」
その日、恩地道子は誰かに声を掛けられた。黒の詰襟の制服からして、同じ高校の男子生徒だ。朝の澄んだ空気のような、清々しい顔立ちだったが、表情は酷く困惑していた。困惑しているのは、恩地道子も同じだった。既に迷子になって、数十分が経っている。彼女は、自分の家にもたどり着くことができなくなっていた。行くべき場所が分からない上に、帰るべき場所も分からないのだ。もう迷子というより遭難に近かった。
恩地道子が助けを求めて叫ばなかったのは、周りに同類があふれていたからだ。類は友を呼ぶというが、その通りではない。彼女は群れはしなかった。群れたとしても先頭に立つ人がいないのだから、役に立たなかった。誰が学校の正確な道のりを知っているというのだ。
「なあ、恩地。誰かに道を聞こうとは思わなかったのか?」
「そうか。それは賢明だな。でも、ちょっとおかしくないか?」
「うん。これには、きっと深いわけがありそうだな」
「そこまでは、分からないけど。実際、ぼくは迷子になったわけじゃないのだからな」
「町自体が迷路なんて発想は、ちょっとぼくには思い付かなかった。だが、それもおかしな話だな」
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