第11話 瀬戸香織1(せとかおり)

 傷付いた心を癒してくれる万能薬は、世の中には存在しないと思っている。嫌なことや辛いことを、簡単には消し去ることはできないからだ。


 しかし嫌なことを、全て消し去ることはできないにしても、せめて三十パーセントくらいなら、ちょっとした拍子に消せるかもしれない。それも安価にね。


 神経質になるのは、逆効果だけど、具体的な数値を思い浮かべるのも悪くないと思っている。覚えていること、忘れてしまったことの比率を考えてみてもいいんじゃないか。物事を忘れることなんて、難しいようで簡単で、簡単のようで難しいことなんだ。だから、いつも大事な時に現れて、うっかりさせてくれる、忘れ物の神様を責めたりしてはいけない。


 忘れ物の神様は、そういう時にだって、一生懸命働いてくれているのだって考えてしまうんだ。

「あれ。母さん、夕食食べたっけ?」

「あ、そう」


 瀬戸香織は、裏切られたと思った。それも血の繋がりのある母親に裏切られたと思った。身内のことだから激烈に感情を逆撫でられた。それが友達同士の間なら、そんな行き違いも日常だろう。母親となると話は違ってくる。瀬戸香織のところは、母子家庭だった。彼女が物心付いた頃には、父親はいなくなっていた。父親との思い出は、隙間のできた玩具箱のように、そこだけが欠落して、彼女の記憶から抜けていた。


 やり過ぎたと思ったが、お皿を壁に投げつけてしまった。その時の怒りは苛立ちと合いまって爆発的だった。お皿は床に落ちて二つに割れた。


 まとわりつくような生暖かい風の吹く夜の町、塾の帰りに偶然にも、瀬戸香織は知らない男の人と母親が、楽しげに歩いているところを目撃した。体の芯から硬直して、動けなくなった。目だけで、普段とは違う着飾った母親の姿を追った。彼女の知らない母親の姿を見て、堪らなくなった。が、自分の母親だから間違えるはずがなかった。


「おい、瀬戸。本当は相当ショックだったんだな」

「お前は、やっぱり反対なのか?」

「分かる気はするが。それは上辺だけで、実際の気持ちは、当人にしか理解できないのかもしれないな」

「お母さんに、お前の気持ちを伝えてみてはどうだ」

「そうだな。俺だって同じ立場なら、お前と同じ選択をしただろ。なかなかこういう家庭内の問題は難しいことなんだ」


 しーと静まり返ったマンションへ、いつもより遅い時間に帰ってきた母親に、瀬戸香織はその事を問いただそうとした。が、声は出なかった。こんな事、恥ずかしくて学校の友達にも相談できない。


 母親は働いていたから、いつも瀬戸香織の方が家には早く帰ってくる。彼女は母親が帰宅するまで、自分の部屋にこもって、好きなバンドの楽曲を聴きながら、何となく授業の宿題や予習をする。それが彼女の日課になっていた。母親から勉強しなさいと、一度も催促されたことはなかった。正直、彼女には勉強以外、暇をつぶつ手段が見当たらなかった。帰宅部だから、何度も自由にできると思っていた。その反面、自由な時間を持て余すようになった。


 母親は夜の八時になって帰ってきた。瀬戸香織は気づかない振りをして、しばらく自分の部屋から出てこなかった。そうするのも、細やかな彼女の反抗心からだった。

「香織、遅くなってごめんね。ご飯にしましょ」と母親に呼ばれて仕方なく、もやもやした気持ちで瀬戸香織はダイニングへ出てきた。


 母親は疲れた顔で、スーパーで買ってきた半額の惣菜をテーブルに並べた。電子レンジで温めて、皿に移し変えるのも億劫がった。

 母親と二人、夕飯を取っていても話は弾まなかった。口数が減ったのは、母親も同じだ。何かが重しになって、口を塞いでいるようだった。それは、もちろん瀬戸香織の知らない男の人の存在だろう。


「そういう時ってあるよな。特に親子なら、毎日顔を合わせているからな」

「ちょっとした行き違いでも、ぎすぎすしてしまう。でも、心配することないんじゃないかな」

「親子なんだから、何も言わなくても分かってくれるさ。まあ、反対に親子だから分かってくれないこともあるにはあるけどな」


 瀬戸香織は黙って、餃子に箸を伸ばした。伸ばした箸に続いて、母親の箸がすっと伸びてきた。好物は同じだった。母親は四十代だが若い生徒に囲まれた職場だから、年齢よりも幾分若く見える。街頭インタビューで、姉妹に間違われたこともある。


 その日から、瀬戸香織は忘れ物が多くなった。空にぽっかりと穴が空いたように、ぼんやりして、いつも悩み事を考えているようになった。もちろん悩み事は、母親のことだった。


 こんな日が来ることは、よそよそしい母親の態度から、ある程度予測していた。母親も瀬戸香織の様子から、彼女が何か勘付いていることを察していたのだろう。

 それでも、突然の告白に瀬戸香織は驚愕した。母親は思い詰めた表情をした。それから重い口を開いた。


「お母さんね。香織に会わせたい人がいるの。男の人よ」

「同じ職場の人なの」

 瀬戸香織は喉が詰まったみたいに、何も言い返せなかった。そんな事、有り得ないと母の言葉を心の中で否定した。嫌だ、絶対に嫌に決まっている。彼女は父親がいないから、男の人と接するのが苦手だった。


「瀬戸。お前の気持ちも分からないではないがな」

「誰だって、他人が家族になるなんて戸惑うだろ」

「なかなか難しい問題だな」


 日曜日の午後、家族連れで浮き浮きする、小さなファミレスで瀬戸香織は、母親に男の人を紹介られた。彼女は不意打ちを食らったように怯えた。母親よりも少し若いその人は、眼鏡を掛けたおっとりした印象の人だった。指の先から顔の輪郭まで、全て丸く見えた。


「香織。こちらが、加山昂さんよ」

「香織ちゃん、初めまして。お母さんとは、同じ学校で教師をしているんだ」

 教師同士の恋愛なんて有り得ない。生徒の目のある中で、一体何を考えているんだと、瀬戸香織は反感を覚えた。

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