第12話 瀬戸香織2
結婚なんて許されない。一緒に住むってことじゃないと不安に思った。瀬戸香織は、他人が家に入り込むのを不潔だと嫌った。初めて男の人を紹介された時、瀬戸香織はその人が帰ると執拗に手を洗った。洗っても洗っても、汚い物が手のひらにこびり付いているように思えた。
瀬戸香織は友達に手洗いが長いと指摘され、初めてそれに気づいた。洗うときには、しっかり手を擦り、つけた石鹸を洗い流すことに必死であった。手を洗っている間は、なかなか石鹸が洗い落とせないことを、もどかしいと思ったこともあった。手を洗えば、何でも嫌なものは洗い流せると勘違いしていた。
知らない人が、家に紛れ込んでいる。母親は、ときどき加山昂を連れてくるようになった。最初は外で会うことになっていたが、そのうちマンションにまで来るようになった。瀬戸香織の住むマンションには、ほとんど人が訪れたことがなかったから、生活が激変したように思えた。瀬戸香織は、加山昂に話しかけられても無言で応えた。緊張よりも反感の方が勝った。こんな事、誰にも相談できるはずがない。
「どうした、瀬戸。最近、元気がないじゃないか」
「本当に嫌なんだな。その人が嫌いなのか?」
「防衛本能って奴か。分からないでもない。こういうのは、男のぼくより女の子の方が敏感なのかもしれない」
自室にいても、勉強ははかどらなかった。聴いている楽曲のフレーズだけが耳に残るだけだった。さっきも同じフレーズを繰り返して聴いている気がした。
瀬戸香織は、ある四人組のバンドが好きだった。それは友達の島中芳江に紹介されたバンドだった。そのバンドの曲を聴いている時は、外の雑音が遮断されるように、嫌なことを忘れられると思っていた。
瀬戸香織が島中芳江と話すことは、好きなバンドのことと学校の細々とした出来事が中心だった。いつも一緒につるんでいるわけではない。小柄で短い髪が良く似合う可愛らしい子だった。島中芳江には他にもたくさんの友達がいて、ソフトボール部に所属して活発の方だった。水鳥が川に流されるように、ときどき休み時間に島中芳江の方から、瀬戸香織に寄ってきて話しかけてきた。
「どうしたの?」
島中芳江が瀬戸香織に尋ねた。彼女の席の横に立って、気遣うように顔だけ傾けた。
「最近元気ないけど。何か悩み事でもあるの?」
「だったらいいけど。いつも忘れ物ばかりして、考え事しているみたいだからさ」
「何か困ったことがあるなら相談に乗るよ」
母親が再婚するかもしれない。一人で悩んでいても何の解決にもならないことは、瀬戸香織にも分かっていた。島中芳江は、困った人がいると心配せずにはいられない質だ。だからといって、友達でもそんな事、話せるわけなかった。
「今日、この前言ってたバンドのライブがあるの。私は部活で行けないけど。香織、行ってみたらどう?」
島中芳江は紺のジャージ姿に、ソフトボールのグローブを脇に挟んでいた。これから部活に励むという格好だ。放課後の教室に残っている生徒も少ない。みんなさっさと帰ってしまったか、部活に向かったのだ。
「心配しなくても平気だよ。この学校の生徒も結構行く人多いから、一人でも大丈夫」
「高校生に人気のバンドだから、大人の人は少ないはずだよ」
島中芳江に紹介されて、瀬戸香織は一人で、そのバンドのライブに行った。心地よい笑みを見せる島中芳江に、決断の付かない背中を押された気がした。
町の小さなライブハウスは満員だった。たくさんの張り紙がされた壁は、映画に出てきそうな不良の溜まり場のようだった。ちょっと彼女には別世界だ。島中芳江が言った通り、ほとんどが学生だった。制服のままの学生も多かった。瀬戸香織はそこで熱狂する学生たちと同じくらい、全てを忘れてバンドの演奏に夢中になれた。瀬戸香織の好きな曲が始まると、色々な事に束縛された体が解放されて、自然に動き出した。抑え切れない興奮が起こった。悩み事なんて、全て吹き飛んだ。彼女の平たい背中に翼が生えて、どこへでも飛んでいけそうな気がした。
ライブが終わっても、演奏が続くような余韻があった。最高のライブだった。
「瀬戸、お前。一人でライブに行ったんだって」
「良かったじゃないか。ちょっと不良ぽいけどな」
「そうか、みんな行っているか。それは悪かったな」
「でも、楽しめて良かったじゃないか。これで少しは気も晴れただろ」
「はは、効果絶大だな」
瀬戸香織は、ライブに行って良かったと、学校で島中芳江に会うとすぐに伝えた。彼女は昨日の演奏が甦ったみたいに、その素晴らしさを興奮して語った。島中芳江は、頬を膨らませて羨ましいがった。私も部活がなかったら、絶対に行っていたと悔しそうな表情を示した。全てが解消されたわけではないが。瀬戸香織は、悩んでいたことが、なんでもないように思えた。音楽の力は素晴らしいと気づいた。
瀬戸香織は、母親と詰まらないことで言い争いになった。彼女が遅く帰ってきたことを、母親に咎められたのだ。母親の苛立ちは、それだけではなかった。彼女は、寂しそうな母親の姿を見た。
それからは瀬戸香織の所には、加山昂は訪れなくなった。母親が何も言わなくても、彼女には分かっていた。結婚の話がなくなったのだ。彼女も母親の気持ちを考えると、素直には喜べなかった。
瀬戸香織は、島中芳江に母親と喧嘩したことと、元気がないことを相談した。元気が出ない時は、やっぱり音楽だよ。島中芳江は理由を聞かずに、瀬戸香織に助言した。彼女も音楽の力で元気をもらった。島中芳江は、きっと上手くいくと自信を持った。瀬戸香織はあのライブの感動を、母親と共有したかった。
母親が仕事から帰ってきた時、「今度、一緒にライブに行かない」と、瀬戸香織は母親をお気に入りのバンドのライブに誘った。
「ライブ? そうね。行ってもいいよ」
「すぐご飯の支度するね。あっ、お母さん。明日の小テストの問題作るの忘れていた」
瀬戸香織は母親の言葉に呆れてしまった。
「それで、瀬戸。母親と上手くいったのか?」
「良かったじゃないか」
「これでお前の悩み事も解決だな」
「何だ。また悩みか? 思春期の女の子には、悩みことが多いからな」
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