第3話 木崎華子3

「えっ、あれ取られたんだ。せっかく苦労したのにね」

「いいよ、いいよ。どうせ放課後、返してもらえるんだから。でも、自分のお気に入りの物が、他人に取られるのなんか嫌じゃない。大切な物を奪われた気分だよ」

 八坂瞳の言う通りだと、木崎華子も思った。


 木崎華子は、八坂瞳の言葉に火曜日に覚えた失望感を思い出した。あれは、本当にどこへ行ってしまったのだろう。捨てられるはずがない。それなら、誰かの手にあるはずだと、木崎華子は考えた。諦めかけてはいたが、諦めていたわけではなかった。休み時間を利用して、特別教室を訪れたり、誰か持っていないかそれとなく探りを入れてみたりした。それでも見つからなかった。


 二限目の古文は、教科書を忘れてしまった。木崎華子は、その事を授業が始まるまで気付かなかった。その週、教科書やノートを忘れたのは、これで三度目だった。気を付けてはいたが、火曜日以来、忘れ癖は治らなかった。教科書を忘れた負い目があったからか、板書の文字だけはしっかりノートに書き写した。古文は得意というわけではなかった。が、苦手な科目でもなかった。それでも、先生の言葉や授業の内容は頭に残らなかった。


 木崎華子は授業が終わっても、古文のノートは出しっぱなしで、ぼんやりと休み時間を過ごした。ときどき無くしてしまった大切な物を考えることはあっても、先生に没収されたゲームの景品のことを考えることはなかった。


 日本史の授業では、宿題をやって来なかった。忘れていたと言うよりは、故意に宿題をやって来なかったのだ。木崎華子は自室にいても、何となくやる気が出なかった。なぜやる気が出ないのか、彼女自身にも分からなかった。頭の中を真っ白にして、何かで埋め尽くしたくなかった。それは興味を失った物に対する、正常な心の反応だった。


 木崎華子は日本史担当の中山に指名された時、黙りこくってしまった。答えも分からなかったし、質問も聞いていなかった。中山は露骨に眉をひそめて、木崎華子を座らせた。ゴーと椅子が引かれて鳴った。木崎華子は詰まらないことで恥をかかされて、嫌な思いをしただけだった。最悪な授業だと思った。


 昼休みになると、八坂瞳が自分の席から椅子だけ持ってきて、お昼一緒に食べようと木崎華子の席に近寄ってきた。断る理由も見つからなかったので、木崎華子は快く承諾した。


 八坂瞳の昼食は、コンビニで買ってきたメロンパンだった。木崎華子は、母の手作りの弁当だった。八坂瞳は、木崎華子の弁当に美味しそうだねと感心した。木崎華子はちょっと恥ずかしそうに、弁当を手で隠す仕草をした。八坂瞳は、弁当まで取られなくて良かったねと、朝のホームルームのことを言って白い歯を見せた。八坂瞳は普段はちょっと不良ぽくって、不機嫌な顔をして近寄り難かったが、笑うと、えくぼができて可愛らしかった。


 八坂瞳は子供のようにメロンパンを豪快にかぶり付き、かじり取った歯形を、口をもぐもぐさせながら木崎華子に見せた。メロンパンは、毎日食べても美味しいねと言った。木崎華子は、小さな弁当箱に小ぢんまりとご飯やおかずの詰まった物に、ちびちび箸を付けていた。


「私はこれが一番好きなの。誰にだって、幾ら食べても飽きない物ってあるでしょ。私は、それがメロンパンなんだ。華子は、何が好物なの?」

「いや、華子にも絶対にあるはずだよ。だって私、このメロンパンのために、学校へ来ているようなものだから」

「大袈裟なことなんてないよ。だって私、メロンパンないと生きていけないから」


 八坂瞳の顔が思いのほか真剣だったから、木崎華子は吹き出してしまった。何笑ってんだよと唇を尖らず八坂瞳に、ごめんごめんと木崎華子は必死に謝った。でも、笑いは彼女の内側から込み上げてきて、なかなか止まらなかった。八坂瞳のかじり取ったメロンパンが、笑っている人の横顔に見えた。木崎華子には、そんな楽しみこの学校に無かった。八坂瞳が少し羨ましかった。それでも、その日の八坂瞳との昼食は、学校生活で初めてなくらい楽しいものだった。


「おーい、瞳。ちょっと来いよ」

 教室後ろの入り口から、大人のような野太い声が、馴れ馴れしく八坂瞳を呼び付けた。木崎華子は、男子生徒を見てちょっと顔をしかめた。噂にはその男子生徒を聞いていた。この学校で一二を争う評判の悪い生徒だった。

 木崎華子は、八坂瞳があんな奴と付き合っているのだと知ると、ちょっと裏切られた気分になった。


「華子、ごめん。ちょっと私、行ってくるわ」

 木崎華子は、スキップするように立ち去る八坂瞳の背中を寂しそうに見送った。急に彼女の周りが静か空気に包まれたように思えた。木崎華子は詰まらなそうに、まだほとんど手付かずの弁当を突っついた。


 弁当箱のタコさんウィンナーが、しょんぼりした顔で、木崎華子を見つめていた。どこを探しても木崎華子の苦手な物は入っていなかった。それでも、箸は進まなかった。

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