パイプリップ

「どこに帰るんだい?」

「そうね。どこに帰りたい?」

「ボクの答えによって帰る場所が変わるのかい?」

「いや? 変わらないわよ。聞いてみただけ。そういう会話があってもいいじゃない」

 パイプリップはそう言って笑った。

「そうだなぁ。ボクは水の都アクアリウムに行ってみたいかな」

「違うわよ。行くんじゃなくて、帰るの。要するに家をどこに構えたいかって質問よ」

「ああ、なるほど。じゃあ、水の都はちょっと嫌かもしれない。観光客でうるさそうだし。ボクは観光客が嫌いだから」

「観光客が嫌い? 何かあったの?」

「フフ。昔ね。観光客気分でボクらの世界を荒らしまわったクズ共がいてね。旅の恥は掻き捨てって言葉を知っているかい? 本当に迷惑な話だ」

「ああ、それなら私も経験があるわ。一人の女がね。私の居場所をめちゃくちゃに荒らして、遂には私のことを処刑にしようとしたのよ」

「えっと。それは笑いづらいね」

「嫌ね。笑ってくれていいのよ。私はもう何も気にしていないのだから。今では晩酌の中の小さな話題の一つに過ぎないわ」

 パイプリップ。元悪役令嬢。彼女はどんな人生を送ってきたのだろうか。

 ボクは世界のことについて相当詳しいと思っていたのだが、僕が知っていることなど、うっすらとした表面に過ぎないのだなと思った。

「パイプリップが、まだアレキサンドラ・ボイルオーバーだったころの話が聞きたいな」

 ボクがそう言うと、パイプリップは驚いた顔をした。

「あ、そうよね。まだゲンテンにはルールを教えていなかったわよね」

「ルール?」

「そう、ルール」

 パイプリップは人差し指を立てていった。

「私たちが今から帰る場所では、絶対にやってはいけないことがあるの。なんだと思う?」

「何だと思うって言われても、事前情報なしじゃ大体の想像もできないなぁ。ゆで卵は絶対半熟とか?」

「ゆで卵はカッチカチになるまで茹でるに決まっているでしょ」

「さすがボイルオーバー」

「あ、そのネタ面白いわね。私も使っていい? ……じゃなくて、ルールなんだと思う?」

「分かんないよ」

「私たちが一緒に暮らす上で絶対に守らなくてはいけないルール。それわね?」

 パイプリップはウインクをした。

「過去を詮索しないことよ。人間は過去の経験から学ぶなんて言葉があるけれど、何も学べない無駄人生を送ってきた人間だっているからね。だから、過去を詮索しないことが絶対。ついでにできればゆで卵はカチカチよ。ボイルオーバーだけにね☆」

 パイプリップはそう言った。

 ほう。それはなかなかいいルールなんじゃないか? ボクはできる限り自分の過去を話したくない。ボクの過去なんて退屈でつまらなくて薄っぺらで白紙だけど、一つだけ、話せる程度には愚かなことがあった。しかしそれを話してしまったら、ボクの人生には本当に何もなくなってしまうんだ。

「うん。それは中々良いルールだねって思うんだけど、一つ聞いておきたいことがあるんだよね。良いかな?」

「もちろんどうぞ?」

 パイプリップの言葉の中に気になることがあった。

「そのルールは一緒に暮らす上でのルールだと聞いたけど、いつからボクとパイプリップは一緒に暮らすことになったのかな? それはもう決定事項? ちょっとびっくりしたんだけど」

 そういうと、パイプリップは口に手を当てた。

「ヤバ」

「何がヤバいの?」

 パイプリップはボクに近づいてくる。

「ねえねえ、ゲンテン?」

 そう言いながら、顔を近づけてくる。

「もし可能であれば、私が今言ったことを一言一句忘れてくださらない? 一緒に暮らすとか、ルールの話とか。できれば私の過去、アレキサンドラ・ボイルオーバーの話、ひいてはフレデリック・ロバタという元魔王様の話も忘れてくださると助かるんですけれど」

 パイプリップの鼻先がボクの鼻先に触れるほどの距離まで近づいてきた。パイプリップの剣幕と言ったら、さすがは元悪役令嬢。失禁してしまいそうなくらい恐ろしい目力だった。失禁はしないけど。

「ちょっと難しいかもしれない」

「忘れてくださったら良いものを差し上げますわ。そうね。今日の夕飯の唐揚げを一個プラスするとかどうかしら」

「……わかったよ。忘れるのは無理だけど、忘れていることにする。それでいい?」

「それでいいわ。ありがとね、ゲンテン。もし誰かに何か疑われても、私が話したと密告するような裏切り行為はしないように。もし裏切ったら、ィ週間夕飯抜きにするからね」

「はい」

 そこまで言ってボクは思った。実はボク、絶食状態でも全く死なないんだよな。てか、絶食状態が通常だったりするんだよな。

 まあ、それはパイプリップには黙っておこう。なにせ、過去について詮索するのは禁止だからね。

「そんな話をしているうちに、ついたわ。ここが、私達が拠点にしている商業都市インクジェットよ」

 商業都市インクジェット。この都市はボクも知っている。もとは小さな印刷業者だったのだが、紙の一般化に伴って需要が高まった。そこで調子に乗った社長が『ここに商業都市をつくろう!』といって、様々な企業に話を持ち込み、出来上がったのが商業都市インクジェットだ。 

 商業都市と呼ばれてはいるが、言ってみれば滅茶苦茶大きな市場である。その滅茶苦茶大きな市場が蛇のようにとぐろを巻いて出来上がったのがこの商業都市だ。

 人生を楽しむために必要なものはだいたいこの商業都市インクジェットで揃えられると言われるくらい、何でも売っている。

「こんなところに居を構えるなんてすごいじゃないか。もしかして、君たちは何か会社を経営したりしているのかい?」

「まさか。そんなはずないでしょう。ここに居を構えているのは何かと便利だからよ。何でも買えるし、何でも遊べる。それに、身を隠すにも最適でしょう?」

 木を隠すには森の中ってね。と、パイプリップは笑った。

 この商業都市には警察がいない。その代わりインクジェット自警団という最強の男たちがいる。その男たちは自分たちの町は自分たちで守ると言い張っているから、国の警察を街に入れない。そういう意味でも、元魔王や元悪役令嬢が生きやすい街なのだろう。

 この街にいれば、ボクも生きやすいだろうか。

「何か買いたいものはある? ないなら私たちの家に案内するけど」

「特に欲しいものはないかな。ボクは昔から物欲というものがあまりなくてね」

「そう。私とは真逆なのね。私は物欲の塊よ。あらゆるものを手元に置いておきたいわ」

「管理がさ。大変じゃない?」

「おもちゃ箱に突っ込んでおくだけで、管理はしないわよ」

「それは、まさに悪役令嬢って感じだ」

「ふふふ。そうでしょ」

 パイプリップは歩き出した。

「あ! パイプリップちゃん! 今日は良いアジが入ってるよ!」

「あら、本当ね。でも今日は唐揚げを作る予定なの」

「そうか! それは残念だ! ところで、さっき一匹地面に落としてしまったアジがいるんだが、一匹いらんかね」

「あら、それはタダかしら?」

「もちろんだ!」

「じゃあ、もらっていきますわ」

「よっしゃ! ちょっと待ってくれ!」

 パイプリップは店主からアジを一匹受け取ると、笑顔でお礼を言った。

「ありがとうございます」

「良いってことよ! パイプリップちゃんのとこが貧乏なのは知ってるからな!」

「あら、ずいぶんなことを言いますのね。違う魚屋さんに浮気しちゃおうかしら」

「おっと、すまん! 今後とも御贔屓に! サービスもするからよぉ!」

「ふふふ。冗談ですわ」

 そう言って、パイプリップは手を振った。

 なんというか、めちゃくちゃ庶民派だな、この元悪役令嬢。激高プライドで「こんな粗末なものは食べられませんわ!」とか言うのかと思ってたんだけど、地面に落ちた魚を喜んで受け取ってたぞ。

「庶民派お嬢様なんだね」

 そう言うと、パイプリップははにかんだ。

「庶民派じゃなくて、庶民なのよ」

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