第33話
ヴェロニカの上に覆いかぶさるクロード所長は、酷く荒い呼吸をして顔に脂汗を浮かべていた。
白衣の背中にじわりと赤いしみが浮かび、広がっている。蔦を打ち付けられて、皮膚が裂けたのだ。呼吸の仕方もおかしく、肺や気管も傷ついたことも見て取れる。
ニールが彼の傷を癒すべく蔦の壁に手をかけた。が、彼が駆けつける前に、倒れるクロードの両足が急にぺしゃりと潰れた。
血は出ていない。ありえない光景に、「え?」と一同の目が丸くなる。
ヴェロニカが慌ててその体の下から抜け出すと、今度は両手が崩れるように潰れ、白衣の袖から見覚えのある植物が落下した。
甘くどろりとした香りがあたりに漂う。表情を強張らせたヴェロニカが婚約者の腕を取るが、白衣の袖の中には絡まる蔦が入っているのみだった。
クロード所長の体はリリアンの夢の植物へと変化している。それを理解して、一同は動きを停止した。
「そんな……」
「もしかして、リリアン女史の魔法のせい……?」
クロード所長は長い間あの魔法の支配下にあった。
その影響が大きな傷を負った今、出てしまったのだろうか?
絶望が場の空気を支配する中、元凶と思われる女性はただ首を傾げるだけだった。
クロードの様子をじっと眺めていたリリアンの、小さな「あーあ」と言う声があたりに響く。
「馬鹿みたい。その人、もういらない。私を助けてくれる味方たちは、また現れるんだから!」
甲高い声で叫んでリリアンは、にわかに腕を振った。
ヒオリが慌てて振り向くと、彼女は幾重にも絡まった蔦で天井を持ち上げようとしていた。
何を、と思った瞬間、電灯のついていない研究室の天井がみしりと嫌な音を立て、壁にヒビが入る。
「ヒオリ殿!危ない!」
「……っ」
危機感が芽生えたと同時に、天井が崩れ落ちた。崩壊音とともに、暗い部屋の中を急速に太陽の光が侵略する。
リリアンは顏に朗らかな笑みを浮かべて、その光を見上げていた。
大きながれきがこちらにまで降り注ぎ動けぬヒオリとニールの前で、リリアンはひと際大きな蔦に乗るとヴィクトルを連れて、ぽかりと開いた穴から屋根へと出て行ってしまった。
壁を覆っていた植物も彼女らを追って穴から這い出ていく。
崩壊した部屋の中、ヒオリはすぐに見えなくなった彼女を怒鳴りつけた。
「何処へ行くつもりですか!?いけない。追わないと……!」
「いえ、その前にクロード所長を!」
振り返ったニールは再び倒れる所長を救助すべく、ヴェロニカたちの元へ駆け寄ろうとした。
しかし赤毛の研究者は彼の方へ顔を向けると、「駄目よ」と静止の声をかける。
「ヒオリさん、ニールさん、先に行って。リリアンさんを放っておいたら危険だわ」
「しかし、」
ニールが言い募ろうとするが、ヴェロニカはゆっくりと首を横に振る。
状況にそぐわぬほど穏やかな表情をしながら、彼女は微かで柔らかい声を出した。
「いいの。見てわかるでしょう」
その瞬間、ぼろりとクロードの腰から下が崩れ落ち、植物と化した。
小さくなっていく所長の姿を見て、ヒオリは「ああ」と息を漏らす。ニールもまた顔を強張らせ、力なく呼吸する彼を凝視している。
彼の体は既に頭と上半身しか残っていない。かろうじて人間に見える部分も、どんどん植物へと変化していっている。
もはや手の施しようがないことは、見て明らかだった。生きて、呼吸が出来ていることすら不思議な状態だ。
僅かな間のあと、先に決心がついたのはニールだった。
こくりとしっかり頷き、ヒオリの元へと戻ってくる。
「……わかりました。ヴェロニカ殿もお気をつけて」
「ニール」
「行きましょう、ヒオリ殿」
ニールはヒオリの元へ戻り、「魔法で外に出ます」と手を差し出した。
「抱き上げますので、捕まっていてください。早く事態を収拾しないと」
「……わかったわ」
後ろ髪を引かれたが、自分たちがやるべきことを優先しなければならない。
頷いたヒオリを「失礼します」と許可を得て抱き上げ、ニールは飛行魔法を発動させる。
ふわりと重力の手を離れる浮遊感。昨晩の夢とおなじように高速で天井に開いた穴をくぐる刹那、ヒオリは一度だけ肩越しに振り返った。
ヴェロニカはクロードの顔をじっと見つめている。
赤毛の研究者とその婚約者の表情は、ここからは見えなかった。
「ヒオリ殿、いました。屋根の上です」
「……!」
ニールの声に促され、ヒオリは視線を前へ転じる。
彼が睨みつけていたのは、ちょうど六角形になっている所長室の屋根であった。
リリアンは数多の植物を屋根や壁に絡みつかせ、その上に腰掛けている。
まるで大樹に住み着いた森の妖精と言った様子であった。しかし彼女の内面、そして心に欠けた罪悪感と、今までの所業を知っているヒオリには、妖精の皮を被った悪鬼にしか見えない。
「あら、ニールさん。来てくれたの?」
ニールが警戒しながら彼女の周りを飛行すると、ぱっと顔を輝かせてリリアンが二人を振り返った。
§
愛しい人の体がじりじりと植物へ変わっていくのを、ヴェロニカは見つめていた。
クロードの呼吸は浅く、しかもまばらになってきている。もはや内臓や気管も植物に侵されているのだろう。
細い蔦と混じり合い始めた金色の髪の毛をすきながら、ヴェロニカは「クロ」と懐かしい名前で彼を呼んだ。
それを聞き届けてくれたのか、彼のまつげがふるりと揺れる。
ゆっくりと美しい赤色の目が開いた。その目が虚ろで己を見ているようで見ていないことに、ヴェロニカは気が付く。
「ヴェラ、ヴェラ、愛しいヴェラ……。そこにいるのかい?ああ、もう何も見えないんだ、ヴェラ……」
「ええ、いますわ。そばにいますわ。頑張りましたわね、愛しいクロ。安心して、もう休んでいいんですのよ」
昔からの愛称で呼ぶと、クロードの唇の端がそっと持ち上がる。
微かに微笑んだ様子だった。
「ああ、ヴェラ。話を、昔みたいに君の夢の話をしてくれないか……?」
ヴェロニカは頷く代わりに、愛しい男性の頬を撫でる。
記憶の中のそれよりずっとやつれて頼りなくなってしまった顔に心を痛めながら、それでも必死に笑みを浮かべた。
「私はこの研究所に就職し、クロと一緒に魔法学会を盛り立てていくのが夢ですの。私たちは優秀ですから、きっと上手くいきますわ」
「はは、僕は優秀じゃないよ。皆君に期待しているしね。僕なんかただのおまけさ」
「何を言っていますの。貴方のサポートが必要なんですわ。クロがいるから私がいますの」
語る唇が僅かに震えていることに、彼が気付かないことを祈った。
既に目が見えていないと先ほど言われたが、クロードはヴェロニカのこととなると案外鋭い。心配をかけたくはない。せめて穏やかな時間を迎えて欲しかった。
なるべく声だけは穏やかにしていたつもりだが、共に過ごした年月が長いからこればかりは仕方ないのか。
クロードは己の様子に気が付いてしまったようで、少しだけ困った様子で眉をたれ下げる。
「ヴェラ、泣かないでおくれ」
「いやね。泣きませんわ。私が強い人間だと言うことはご存じでしょう?」
ヴェロニカは笑う。クロードも笑った。
暖かい笑顔。愛しい笑顔。幼い日、ともに夢を語り合ったことを思い出す。
「ああ、ヴェラ、ヴェラ……愛しい、ヴェラ……」
最後にヴェロニカの愛称を呟き、クロードの呼吸が止まった。
やがてその唇も、ハリを失った皮膚も、指通りのいい金髪と大好きだった赤い瞳も、何もかも植物に変化し、崩れ落ちていく。
愛した人の体全てが消えてしまうまで、ヴェロニカは瞬きもせずに眺めていた。
「……おやすみなさい、愛しいクロ」
最後の挨拶は決して届かない。
開いた天井から流れる冷たい風を濡れた頬で感じ、ヴェロニカはゆっくり立ち上がった。
◆
まるで友人が遊びに来たかのような表情をしているリリアンから目をそらさず、ヒオリはヴィクトルが何処にいるかを探した。
だが周りにうごめくのは青々とした蔦だけで、人の形をしたものは彼女以外に見当たらない。その彼女の足も、うねうねとした蔦へと変化している。
優雅に蔦に腰掛けるリリアンを睨みつけ、それでもヒオリは彼女を刺激しないようにゆっくりと訊ねた。
「リリアン女史、前所長はどこですか?」
「なに?あんたの話は聞きたくないわ」
ぷいっと子供のように顏を背ける彼女は、己の質問を跳ねのける。
やはり彼女は好いている人間しか興味がないのか。ニールに目をやると、彼は眉間に深いしわを刻みながら口を開いた。
「リリアンさん、大人しく投降してください。貴女のしたことは許されませんが、同時にヴィクトル前所長の被害者でもあります。情状酌量の余地があると認められれば……」
「ニールさん、酷いわ。どうしてそんなこと言うのよ。私のことを可哀想だと思ってくれないの?」
「同情はしています。しかし、それとこれとは話が別です」
ニールがきっぱりと言い切るとリリアンは途端に顔を歪め、何故かヒオリを睨みつける。
「その女のせいなの?ニールさん。その女がいるから私の言うことを聞いてくれないの?」
「例えこの方がいなくても、私は貴女の言うことを聞きたいとは思えません」
リリアンの表情は、ニールが喋るたびにどんどん険しくなっていく。
それだけ見ても、こちらの言葉が彼女の心にまったく届いていないことがわかった。彼女は自分の全てを肯定してくれる人間しか受け入れない。
もはやリリアンの説得は無理なのだろう。
冷ややかな眼差しでそう結論付けたヒオリは、厳しい声で再度彼女に告げた。
「ヴィクトル前所長を開放して、魔法を解除してください。こんなこと長くは続きませんよ」
「うるさい」
端的な言葉をリリアンが言い放った刹那、周りでうごめいていた蔦たちが急に膨らみ、彼女の体を飲み込んだ。
顔を強張らせたニールが慌てて彼女から距離を取る。半瞬後、ヒオリの体のすぐそばを太い蔦が薙ぎっていき、ぞっと背筋が凍った。
うごめく蔦は壁を伝い、六角形の所長室を飲みこんで行く。
その勢いは凄まじく、研究所全体を飲み込むのは時間の問題に見えた。
「……っ、リリアンさんは!?いない?」
ヒオリはニールと二人、慌ててあたりを見回すが人らしき影はまったく見当たらない。
このままでは被害が大きくなる、焦りが加速していく瞬間、ふと鼻孔に嗅ぎなれた香りが届く。
ごくごく微かなものだったが、幾度か鼻をひくつかせて確信する。これは間違いなく、リリアンの夢で嗅いだ香りだ。
しばらく無言で匂いを追っていると、その原因は蔦がうごめく一画から漂ってきていることに気が付く。
「ニール、夢の香りがするわ……」
「え?」
「……リリアン女史の居場所がわかるかも」
彼の顔を見つめながら告げると、少しだけ目を見開いたあとニールは「ナビしてください」と言った。
ヒオリは彼の体に回す腕の力をことさら込めて、あの香りがしてくる方向を睨みつけた。
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