第32話
己の目が診察台に向いていることに気が付いたヴィクトルが、ちっと小さく舌打ちしたのを聞く。
ヒオリは眠るリリアンから前所長へと視線を戻し、冷たい口調で問いかけた。
「最初から貴方はリリアンさんを魔術師にするのではなく、薬の材料になる魔法の植物を生み出すための手術を施していたんですね」
「そうだ。一人に力を与えるより、多くの人間が力を手にする方法を取るのが研究者だろう」
「より多くの人を救うため、と言うのは納得できますが、誰かを犠牲にする理由はありませんよ」
肩を竦めると前所長は忌々し気にこちらを睨み見る。が、特に反論してくる様子は無かった。
諦めているのか、それとも何か企んでいるのか?ヒオリたちがいぶかしみながら様子を凝視していると、彼はすっと体から沸き立つ苛立ちを沈めた。
不自然なほど平坦で感情の見えないヴィクトルは、妙に薄気味悪い口調で静かに問いかけてくる。
「私をどうする気だ?」
「……魔法協会に報告します。そこからは協会の判断になりますが……法の裁きを受けると思って間違いないでしょう」
氷のように凍てついた声でニールが答えると、ヴィクトルはふうと長く深い息を吐いてうつむいた。
抵抗はしないつもりか?
ヒオリはニールと顔を見合わせて、二人警戒しながら前所長へと近づく。
「ご同行願えますか?」とニールが訪ねた。瞬間、ヴィクトルが凄まじい形相で顔を上げて手を前に突き出した。
「【
勢いよく吐き出されたのは炎を意味する『力の言葉』。
本来なら男の手から魔法が勢いよく吹き出すはずだった……のだろうがしかし、辺りは静かで何事も起こらない。
ヴィクトルの顔に驚きと焦りが浮かび、己の手のひらを凝視する。
「……ん!?何故発動しない!?【
「貴方の魔法がリリアン女史由来のものなら、無駄ですよ」
口から泡を飛ばしながら『力の言葉』を唱える前所長を睨みながら、ヒオリは一歩前に出た。
怒りで燃えるヴィクトルの目が、ぎろりとこちらを睨む。唇を震わせて「なんだと?」と言ったので、白衣のポケットから遮光瓶を取り出して見せた。
「これはクロード所長が残してくれた抗体の情報をもとに作ったアロマです。このアロマの香りが強い場所なら、リリアン女史の魔法は軽減されます」
「なに……!?」
「彼女に操られた方も、このアロマを嗅いで正気に戻っていますよ」
ヒオリがきっぱりと言い放つと、ヴィクトルは愕然と肩を落とした。
もはや抵抗する気力も無くなったのか。ニールがその体を拘束すべく、彼に手を伸ばす。
その刹那、ヒオリとヴェロニカは同時にうっと呻いて手のひらで鼻口を覆う。
研究室に充満する香りがきつくなったのだ。
「ニール!何か、」
「え?」
ヒオリの警告にニールが動きを止め、振り返った時だった。
にゅるり、と胴の太い蛇のような何かが、天井から床へ向かって伸ばされる。
その先には、がくりと肩を落としたヴィクトルがいた。
「お義父様っ!!!」
「えっ?あっ!」
危険を知らせるヴェロニカの声も虚しく、ヴィクトルはその何か……巨大な植物の蔦に絡め取られた。
一同は瞠目し、薄暗さで見えづらくなっていた室内の異常に気付く。
いつの間にか小さな研究室の壁や天井は、リリアンの夢の植物でびっしりと覆われていた。
一同ははっと診察台に目を向ける。
いつの間にかリリアンは起き上がり、ぱちぱちと目を瞬かせてこちらを見つめていた。部屋を覆う蔦は、彼女の頭から髪の毛のように伸びていることに愕然とした。
昨日夢で見た蔦に覆われた異形の姿で、リリアンはこちらを見つめている。
「……っ、リリアン!起きたのか!?」
「……ヴィクトル様?」
ぼんやりとした様子でリリアンが、蔦に絡まる前所長を見据えながら呟いた。
途端にヴィクトルは勝利を確信したのか、喜色満面の笑顔を浮かべて彼女に言い募る。
「り、リリアン!助けてくれ!こいつらを始末しろ!こいつらがいるとお前は正義の味方じゃなくなるぞ!!!」
「まあ、……正しいことを行えなくなるのは、嫌だわ」
「全て彼らが悪いのだよ、リリアン。ほら、お前の嫌いなヴェロニカもいるだろう?あいつらを追っ払っておくれ!」
自分の思う通りに動かすべく猫なで声で機嫌を取ろうとしているヴィクトルだが、しかし今度はリリアンはそれに答えなかった。
ただ無言を貫き、ガラス玉を思わせるほど澄んだ瞳で男を見つめている。感情と言うものが、ごっそりと消え去ったかのような表情をしていた。
異様な様子に、流石のヒオリたちも動けない。
だがヴィクトルはお構いなしにリリアンに懇願し続ける。
「リリアン!早く、早くしろ!何をしているんだ!お前の夢が消されるのだぞ!!」
「夢……」
ぽつりと呟いた彼女が、不気味さすら感じる緑色の瞳をゆらり、とこちらに向けた。
殺気とも違う異質なものを感じ、ぎくりと体が跳ねる。が、すぐにその視線はヴィクトルへと戻った。
しばらく無言で男の顔を見つめていたリリアンだったが、にわかに口元に笑みを浮かべた。
「ねえ、ヴィクトル様。私知っていたわ、貴方が私を利用しようとしていたことなんて……」
「なに?」
目を見開いたヴィクトルが、可憐な笑みを浮かべる彼女を見上げる。
その優艶でいて無垢な微笑はまさしく妖精。ふわふわと解けたプラチナブロンドも相まって、彼女の姿はあまりにも人間から離れ過ぎていた。
「り、リリアン……?」
身動きが取れずに驚愕するばかりのヴィクトルの前に、天井からもう一本長い蔦が伸びて来た。
その先端に実っているのは、見覚えのある赤い果実である。
さっと顔を青ざめさせる前所長の前で、吐き気を催す香りを漂わせながら果実はぱかりと割れた。
粘液まみれのその中には、ヴィクトルそっくりの人形が納まり笑っていた。
§
人形を見て、前所長は身の危険を感じたのだろう。必死に蔦の中から抜け出そうと身をよじらせる。
しかしリリアンはいたずらを繰り返す幼子を見るような目を彼に向け、たしなめるようにぎゅっと蔦に力を入れてその体を締め付けた。
ぐふうっと苦しそうに肺から空気をもらした前所長の目の前で、粘液まみれの人形がどちゃりと床に落下する。
ねとりと糸を引きながら立ち上がる自分そっくりのそれに、ヴィクトルの顔がわかりやすく土気色になり体はがたがたと震えはじめた。
「リリアン!いったいいつの間にそんなものを!やめろ、私はお前に力を与えてやったのだぞ!!!」
「……?人形を作るのは当り前よ。そのための魔法でしょう」
「なっ……!」
心底不思議そうにぱちぱちと目を瞬かせるリリアンに、ヴィクトルだけでなくヒオリたちもぞっと肝を冷やす。
やはり彼女には成人女性として決定的な何かが欠けている。罪悪感もなく、人の心を操る魔法をかけることを悪事とも思っていない様子だった。
「私を利用しようとしているのは悲しかったわ。悲しかったの。だから……ヴィクトル様も心から私に賛同すべきなのよ」
リリアンの言葉と同時に、床に落ちた人形が緩やかにうごめき始める。
同時に魔法の効力があったのだろうヴィクトルが苦しそうに呻き、ヒオリとニールは彼の元へ駆け寄るべく、蔦を取り外しはじめた。
「ヴィクトル殿、しっかりしてください!」
「リリアン女史!何をするつもりですか?前所長を離して……」
「うるさいわ、黙って見ていて」
いつか見た忌々し気な眼差しをこちらに向け、リリアンはその細い腕をすっと右から左に動かした。
するとヴィクトルを絡めとっていた蔦がにゅるりと天井近くまで持ち上がり、彼の体がヒオリたちから離れる。
追いかけようとするも前をさえぎるように、太い蔦が幾重にも重なり絡み合った。
あ、と思って手を伸ばしたが遅く、もう彼女らの姿は蔦の隙間からしか覗けない。
ニールが唇を動かし風の魔法を発動させ蔦を切ったが、代わりの植物はどんどん伸びてくる。
炎の魔法は使えない。ヴィクトルまで巻き込んでしまう可能性がある。
しばらくは邪魔者がこちらにやってこれないだろうことを確認して、リリアンは満足げに目を細めていた。
するすると獲物を捕らえた蔦を自分の前まで下ろし、彼女はヴィクトルに顔を近づけると可憐に幻想的に微笑む。
「ヴィクトル様、これからも私を守ってくださいますよね。約束しましたもんね」
「う、あ……」
「最初に私を褒めてくれたのはヴィクトル様たちなのに……それなのに私を裏切るなんて悲しいわ」
小鳥のさえずりのように可憐で不気味な声と同時に、ヴィクトルの体からがくりと力が抜け、目が虚ろになる。
昨晩のニールと同じ状態だ。
壁のような蔦の隙間から覗いていたヴェロニカが片眉を跳ね上げ、ヒオリを振り返った。
「ヒオリさん、アロマの香りを強くしましょう。お義父様を救わなければ」
「わかりました!」
頷いたヒオリは、手にしたままの遮光瓶のふたを乱暴に開ける。途端にリリアンの香りを上書きするように、己の調香した香りが漂い始めた。
だがこれだけでは足りない。そう考えてヒオリは目の前で自分たちを遮っている太い蔦へ向かって、遮光瓶の中身を勢いよく傾ける。
大粒のそれがぼたぼたとリリアンに降りかかった刹那───びくりと蔦の壁全体がショックを受けたように揺れた。
「きゃあっ!何よ、何よこれぇっ!何をしたのよ!」
アロマが付着した部分からみるみるうちに蔦が赤茶色に変化し、枯れていく。
隙間から見えるリリアンがぎょっと目を見開き、金切り声を上げてこちらを睨みつけていた。
同時に蔦の壁の隙間にゆるみが生まれ、隙を逃さず手を入れてヒオリとニールは思い切り横に引く。
肩が抜けられるほどの大きさの穴が開いたのを見計らい、まずはニールが、そして彼に手伝われヒオリが向こう側へ抜け出す。
続いてヴェロニカが穴を抜けようとした瞬間、甲高いリリアンの悲鳴があたりに響いた。
「来ないで!しつこいわね!!!あっちに行っててよ!!!」
「あっ!!!」
壁となっている蔦の一本がびくりと波打ち、その拍子にヴェロニカが足を滑らせる。
ふらついた彼女を支えようとヒオリは手を伸ばしたが、隙を逃すことなくリリアンは赤毛の女性博士の足を蔦で絡める。
「……いたっ!」
悲鳴を上げて倒れるヴェロニカ。歪む彼女の顔に長く黒い影が迫る。
鞭のように蔦をしならせ、リリアンが高速でその体を打ち付けようとした───と、思った瞬間だった。
「ヴェラっ!!!」
誰かを呼ぶ声、伸びる腕、ヴェロニカに覆いかぶさる白い影。
そして蔦が打ち付けられる音と、何かが砕けるような鈍い音。
ヒオリがはっと呼吸をした後に蔦の壁の向こうに見たものは、クロード所長にかばわれて倒れているヴェロニカ女史だった。
「ヴェラ……、大丈夫かい……」
「クロード様?」
優雅なる女帝にしてはあまりにも微かな声が、ヒオリの耳に届いた。
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